今日はこの時のの2次校正を終わらせるぞと固く決意して出勤です。
講演を冊子にするために、わたしはトランスクリプト作成→1次校正→2次校正→講師チェック→組版というプロセスをふんでます。
トランスクリプトを作成する人、めっちゃ大変です。が、基本的には話した内容に忠実に作成してほしい。なぜなら、削除したものはもどせないからです。だだ、忠実に作成したものは、メッチャメチャ可読性が低いです。場合によっては改行すらない。それをとにかく読めるようにするために、上の子どもに1次校正をしてもらってます。ここでかなり読みやすくなります。そのうえで、わたしが2次校正をする。
わたしがやることは、トランスクリプトのミスの修正と見出しつけです。
トランスクリプトのミスって、あります。簡単に言えば聞き間違いです。これの修正は、音声データを聞きながらじゃないと無理です。なので、わたしは音声データを聞きながらチェックをし、さらに可読性を高めるための改行や修正をします。
なので、とても簡単に言うと、音声情報と文字情報を同時に見てるので、内容がメッチャメチャよくわかります。
で、今回それをやって、この間よりも深く理解したかも。
とても大切なのは「いじめと差別との違い」なんですね。差別の中にある「社会全体からの幾世代にもわたる歴史的な痛み、そして将来への絶望という痛み」が、おそらくキーワードなのかな。それこそがvulnerabilityというヤツなのかな。で、これは個々の人間に対してというよりも、それらの痛みを強いられる「カテゴリー」の問題なんですね。で、わたしがこの時に話した「傷つく資格」というのは、そのようなカテゴリーの話を個人の話にスライドさせてたんですね。だからうまく噛み合わなかった。
ただ、自分がなぜ「傷つく資格」にこだわるのかな。
それはたぶん、アイデンティティの話とからまる気がします。
例えば、部落出身である人がそうと知らずに部落へのヘイトを受けた時と、そうと知って受けた時と、傷つきは異なるのかってことです。まぁたぶん異なりますよね。ただ、異なるということは、「部落出身」というカテゴリーではなく「部落出身であるというアイデンティティ」というカテゴリーで考えなきゃならんのではないかと。ただ、ヘイトを加える側は、アイデンティティとか無関係なんですよね。そういうビミョーかズレにこだわってるのかな。
で、なぜそこにこだわるかというと、当然のことながら「傷つく資格がない」と思っていた「トランスいうカテゴリーを知らず」「自分を変態と思い」「変態への忌避感があった」「わたし」がいるわけです。同じトランスのわたしであるにもかかわらず「変態アイデンティティ」であれば「傷つく資格」がないと考え、「トランスアイデンティ」というカテゴリーに入れられた瞬間「傷つく資格」を他者から付与されたという感じなんですね。なんでそんなことにこだわるかというと「vulnerabilityはあるカテゴリーの成員であるというアイデンティティに付随して存在するものなのか、あるカテゴリーに対して他者から付与されるものなのか」ってことなんです。
本来的にはアイデンティティに付随すると思ってるんですよね。でも、Aというカテゴリーが「幾世代にもわたる痛み」を加えられていたとしても、Aが「カテゴリー」として社会から承認されていなければ、それは「幾世代」にはならずに「個人」になってしまう。そうなると「カテゴリーとして承認される」ことを通して「他者から付与される」ことになってしまう。
つまりvulnerabilityが前提とするカテゴリーは、そんなには自明ではないよなったことなんです。
マイクロ・アグレッションって、人種差別の文脈からスタートして、民族差別とか部落差別、女性差別・障害者差別へと概念を拡大させているのかな。ただ、それらのカテゴリーはカテゴリーそのものが「すでにある」ものです。が、いまだカテゴリーとして承認されていないものへは適用しにくい。そこがたぶんメッチャひっかかってるんだと思います。
まぁでも、自分のモヤモヤのありかがわかってたのはよかったし、それは「2次校正」という読み方をしたからこそなんだな。キーボードと半日つきあって肩がちぎれそうになったけど、やってよかった。