違和感の所在

今日はいい天気です。なので、久しぶりにゆらゆら。

寒い!でも、昼頃になると陽射しも強くなってきて、少し温かくなりました。で、読んだのは『LGBTヒストリーブック』です。おべんきょの「たし」になるかなと思ったけど、ならんな(笑)。ざっくり言うと、前史→ホモファイル運動→いろんな反乱→HIVとの闘い→同性婚を求める闘いという流れです。いろんなGLな人々は出てくるけど、BはGLと同じにくくられている。そして、Tはほとんど出てこない。いや、出てくるんだけど、つねにGLと同じところかな。あと、最初にtwo spiritが出てきて、最後に「まだ権利保障がされてない人々」って感じでちょろっと出てきます。例えば、パトリック・カリフィアとかヴァージニア・プリンスとかケイト・ボーンスタインとかってぜんぜん出てきません。
まぁ、GLのことについては勉強にはなりました。

それはともかく、紅白歌合戦のMISIAの時のレインボーフラッグの時に感じた気持ちをずっと考えていました。で、なんとなくわかった気がしました。
確かに、MISIAのうしろにレインボーフラッグが出たとき「おぉ!」と思って、パートナーに「見て、見て。レインボーフラッグ」とは言いました。でも同時に「遠いな」と思ってました。いったいなんなんだろう。
今朝ふと思ったのが、ソウルオリンピックの時に在日の人たちが感じた感覚?韓流ブームが来て、韓国好きの日本人がどっと増えて、でも在日が押しつけられてる生きづらさは何も変わってないっていう。あの感じなのかな。あの頃、在日の友だちは「自分たちの頭の上を通っていく」って表現してた、あの感じ。
もちろん、その後、韓国好きの日本人がカウンターに加わったりって時代が来てるんだけど、そこの間には長い長い闘いの時間があるんですよね。
それから、レインボーフラッグを振ってる出演者たち。日の丸であっても違和感がないあの感じ。
もちろんMISIAがレインボーフラッグを出すことに違和感はないし、もしかしたらNHKの中の人もがんばったのかもしれない。でも、日常からかけ離れた「おまつり」の場所でのできごとという感じ。
わたしは活動家でもないし、言論家でもない。でも、日々の生活の中で小さな闘いをずっとやってきたし、今もやってる。2014年9月の文化祭では、一緒に人権教育を担当した人がこんな展示をしてくれたこともあったしね。

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そして、交流会に集まってる子どもたちもまた闘ってる。
そういう小さな世界からは、あまりに「遠いな」って思ったのかな。まぁでもそれが人々を元気づけるなら、それはそれでありかもしれないしね。そして、「おまつり」の場を日常にしていくのは、実は「わたし」が問われることなんでしょうけどね。