うーん

今日は仕事が早めに終わったので、ちょいとひとり呑み。一杯で帰ろうと思っていたら、となりのおじさまに声をかけられて、なんか話しているうちに3杯呑んでしまった。
ま、それはいいんだけど、だんだんナンパモードっぽくなってきたので、結婚してるって言ったら、えらいびっくりされたんだけど、その時点でジェンダーだなと。でも、ナンパモードがとまらないので、「わたしややこしいですよ」とカミングアウトしたけど、まだとまらない。なので、とうとうはるな愛さんとのツーショットを見せたんだけど、まだとまらない(笑)。
まぁ、最後は酔っ払っておられたので、わけわからんようになってたのかもしれませんが^^;;。

うーん…。
ま、ひとり呑みはややこしい(笑)。

間隙をいかに縫うか

去年、ほんとに「あー、もっとやればよかった」と思うことがありました。それはひとことで言うなら「連携」ってヤツです。
実は、ここ10年、ほんとうに「連携」ってヤツがとてもしにくくなっています。原因のうちのひとつは「個人情報保護」ってヤツです。でも、この「保護」の範囲をどこで設定するかっていう「運用」の問題が、実はほんとうの原因なんじゃないかと思います。
例えば、Aという子どもがいる。この子をサポートしようと思ったら、学校だけでは限界があるとする。必要な資源としてなにが考えられるか。メンタル的なことであればカウンセラー?あるいは社会資源的なことであればSSW*1とか、その先には養対協。GIDだと医療関係者(笑)?で、たぶんこのあたりまでは「個人情報」の共有先になるかな。
でも、このあたりはある種「表の連携先」だったりします。もちろん「専門家」ですから有効な連携先ではあるだろうけど、逆に言えばAという生徒に特化したオーダーメイドではない。
では、オーダーメイドの連携先はというと、もちろんオーダーメイドだから一概には言えないんだけど、例えば昔からAを世話してた隣のおばさんとか、Aが小学校の時に所属してたクラブの指導者とか。あるいは、そんな人たちを有機的につなぐ町内会の役員さんとか。はたまた、子ども会をやってる指導者とか。「専門性」ではなく「地域性」でつながる人たちだったりすることがあります。ところが、「専門性」や「立場性」で「個人情報」の共有範囲を決められてしまうと、こうした人たちはそこから除外されてしまう。すると、そこに連携をお願いしようとしても個人情報を出せなくなったり、仮に出したとしても「なぜあんたが知ってるの?」と言われるのをおそれて結局動けないということが起こってしまう。そうすると、有効な手段が打てないままに時が過ぎていくなんていうことが起こってしまう。
実はかつてはこのあたりを突破することができたケースがあったんですよね。その方策は、「あそこなら連携先だよね」とみんなが黙認する人/グループの存在が共有されるようにしておくってことでした。で、その人/グループのおかげで、どれほどのAが助かってきたか。
「個人情報保護」はもちろん大切です。でも、その言葉がひとり歩きしはじめるなかで、人や地域のつながりが分断されてしまっているんじゃないか。そしてそれは、「つながり」がなくても生きられる人にとってはどうでもいいことかもしれないけど、「つながり」をほんとは必要としている人にとっては死活問題ですらある。ついでに言うなら、「つながり」を必要とする人ほど個人情報を「恥」と感じ隠したがるという問題があるんですよね。
じゃあ、どうすればいいのか。
たぶん、再び「個人情報あるけど、まぁあの人(ら)ならしゃーないな」という「黙認」の人/グループをつくること。そして「助かったわ」という実績をつくること。そんなものをゲリラ的につくるしかないかな。

*1:「スクール・ソーシャル・ワーカー」ね。「最後の・スター・ウォーズ」でも「スーパー・セックス・ワーカー」でもないからね。

フェアウェルドリンク

で、駅前に移動して、またまたI木さん・Sいさん@DPI*1たちと合流。まずは「じゃじゃ麺」&ビールです。でも、まったくお酒が足りない。というか、時間は一時間ほどある。てことで、駅ナカの飲み屋に入ってワインをボトルで注文。去年と同じパターンです。
てことで、ギリギリに新幹線の飛び乗って、あとは6時間じっとガマン。
家に帰ったらフラフラでした(笑)。

*1:本人曰く「だめ・ぴーぷる・いんたーなしょなる」らしいです。[わたしも入れますか?」と聞くと「入れる」とのことだったので、入会資格はあるそうな(笑)

脳みそ全開・日教組教研3日目

今日は総括討論です。が、その前に「言葉のすりあわせ」という画期的な時間がとられました。そうか、そりゃ「3本線」とか「4本線」とか言われてもわからないですよね。てか、たぶん使っている方は「なにがわかって、なにがわからないか」はわからないんだと思うのです。なので、とりあえず「わからない言葉・概念」を出しあって、互いに説明しあうという試みをしようと。ところが、情けないことに、疑問で出された言葉について、すべてとりあえず知っているんですよね。なので、司会の方から「説明できる人」って言われたら、とりあえずすべての言葉について「はい」と手をあげてしまったので、失笑を買ってしまいました。いや、わたしが悪いんじゃないもん(;_;)。
で、本格的に討論開始。テーマは「知ること、気づくこと、動くこと」。
さまざまなキーワードが浮かんでくるので、それらをメモして矢印で結んで、ひとつのストーリーに仕上げていきます。まぁ、これならなんとかなりそうですね。でも、こういうやり方もなんだかなぁと思うのです。というのは、結局これでは「言いっ放し」になってします。やはり、論議は絡めていきたいですね。となると、「◯◯さんも言われましたが」とかなんとか、そういう「枕詞」をつけるためには、きちんと他の人の発言を聞き、それに対してどう切れ込むかも考えないといけません。これはなかなか脳みそを使います。でも、それが楽しい。
てことで、さんざん発言をして、今回の教研も終了。

夜の学習会

昼も本番ですが、夜も本番です(笑)。
てことで、4時頃から急遽お店を探してもらって、いつもの通り呑み会です。20人ほどでワイワイと話。これがいいんですよね。だって、みんな問題意識は共通していて、しかもバックボーンがぜんぜん違う。にもかかわらず、1日半共通の経験をしているわけです。そんな人たちが一緒に話をするんだから、盛りあがらないわけがないです。
で、わたしの役目は「場を提供すること」です。それから…。席替えの号令くらいかな。あとはひたすらクズになればいいです。途中、共同研究者のT賀さんにも来てもらって、もうひと盛りあがり。
なに?12時閉店?じゃ、2次会に行きましょうか。

とにかく発言するぞ・日教組教研2日目

朝、なんとか目を覚まして、分科会会場へ。午前が本丸「性の教育」なのに、こんな体調でいいんだろうか。
でも、レポーター席に座ると、案外しゃきっとするものですね。で、9時になって、いよいよ分科会のスタート。
「帰ってきたなぁ」
という感じです。
午前のレポートは3本。まずは「WYSH教育」にかかわるレポートです。んー。なんか違和感が…。なんなんだろう。目的はとてもいい。でも、なにかが違うという感じがしてならないのです。考えに考えているうちに、「あぁ、多数者を対象にしているんだ」という気がしてきました。いや、レポーターの方はいわゆるLGBTの存在を念頭においておられることはわかります。が、WYSH教育そのものが多数者に向けてつくられているような感じが伝わってきます。いや、WYSH教育そのものをぜんぜん知らないんですけどね^^;;。で、その疑問が解けたのは、池上千寿子さんの解説でした。なるほど、文科省の公認が得られることで変質しちゃったんだ。
で、2番目のレポートは『タンタンタンゴはパパふたり』の実践です。このレポートがおもしろいのは、「誰が悪いねん」ということに焦点化していることです。なので、『タンタンタンゴ』をそのまま使うのではなく、カスタマイズしておられます。まぁたぶんつくったのはI藤さんだろうけどね。それにしても、クラスの子どもたちがすごくよく語る。なぜなんだろう。たぶん、授業実践に注目してしまいがちなんですけど、それ以前に子どもたちがとてもよく語れるようなクラスづくりをしておられるんですね。そんな気がしました。
で、3番目のレポートは公民の授業の中でLGBTにとりくんだものでした。これはおもしろい。「なるほどなぁ」という感じ。また、レポーターの方のゆるーい感じがいいです。肩に力が入っていないから、子どもたちが反応してくれるのかな。「これから子どもたちは日常生活の中でLGBTという言葉に出会っていく。だから、その前に正しい知識を伝えたい」という発言は、例えば部落や在日とも共通するものです。
そんな話のあとは、討論の時間です。いよいよ出番だなということで、ガンガン発言をしてしまいました。いかんいかん(笑)。
で、池上さんの「助言」。そうか、「モントリオール宣言」ね。英語の勉強がてら読んでみようかな。
昼ごはんはせっかくなので、盛岡冷麺。おいしかったけど、おなかいっぱいになりました。
で、午後は「労働」。まずはレポートです。こちらはあまり得意分野ではないんですよね。なので、レポートもひたすら「すごー」っと思うばかりです。特に2本目の姜尚中の『働くことの意味(だったかな)』を教材にした「綴り方」みたいなレポートはひたすらすごいです。「働く」ことを題材にしながら、家族へのインタビューを通してひたすら子どもたちが自分の生活を見つめ、表現していく。地道でていねいな授業実践を聞かせてもらいました。ちなみに、レポーターの方はお友だちですが、この人の実践はいつ聞いてもすごいです。わたしのようなえー加減な教員はダメですね。
レポートのあとは、またまた討論の時間です。今回も、とにかくすべてのセッションで発言するのが目標なので、苦しいながらも発言し続けました。ちなみに、レポーターの中で高校の教員は3人だけ。話を聞いていると、子どもたちの「層」も似ているみたいです。その3人が、異口同音に「夢を語らせることの怖さ」を主張したのはおもしろかったです。ちなみにこれ、ある種のネタなんですけどね。「夢を語らせる」ことそのものはかまわないっちゃぁかまわないのですが、それをなんのためにするのか、あるいはそのことを通してどういう力をつけたいのかということが大切なんですよね。言い換えるなら、ゴールではないということです。そんな問題提起のつもりだったんですが、なんかみなさん「シーン」となったので
「あの。反論してください。そのためにブッコんだんですから」
と、フォローしたら、少しずつ意見が活発に出はじめたのでよかったよかった。
てことで、盛況のうちに、丸一日の討論が終了。それにしても、9時から5時まで、ずっと考えていたから、かなり疲れました。

ウェルカムドリンク・日教組教研1日目

午前の授業を終えて、さっくりと出発。新幹線に乗って、ひたすら東へ東へ。東京で乗り換えて、さらに東へ東へ。途中「非武装中立地帯」を侵犯するおじさまに悩まされながらも、なんとか目的地へ。到着したのは、今年2回目の盛岡です。今日から3日間、恒例の日教組教研があります。さてと、今年はどんな出会いがあるだろう。
途中、I木さんと連絡をとったら、なぜか同じ新幹線でした。てことで、盛岡駅で合流して、しばし打ちあわせ。打ちあわせの内容は、もちろん「呑み」です。なんでも今晩は「インクルーシブ教育分科会」で呑むそうで、そこに混じらせていただくことにしました。ほどなく、北海道のT村さんや国際連帯分科会共同研究者ののE井さんからも連絡があって、合流。
それにしても、呑み会に参加してふと感じたのは、「インクルーシブ教育分科会」って、ジェンダーバランスがいいような感じがします。なぜだろう…。
などということを考えるまもなく、ビール→ワインとすすんでいきます。なんか、ダラダラと話をしているうちに、2次会に行くとか。じゃぁ行くかと、車いすを押してしばし散歩。「段差は後ろ向きだと越えやすいよ」などと、初歩的なことを教えてもらいながら、呑み屋へ。で、ダラダラ呑んでいるうちに、2時。
これはまずい。今日のお酒は、単なるウェルカムドリンクのはずなのに…。

脳みそ疲れた→先達への敬意

今日はさっくりと職場をあとにして、滝井へ。久しぶりの心理検査です。12月の「まんまるの会」での会話。
Y野さん「心理検査だけでいいですよね?」
いつき「いや、知能検査も(笑)」
Y野さん「(笑)」
みたいな。
てことで、久しぶりにこんなことをやりました。にしても、途中で脳みそが疲れはじめて、しかもやめられない。で、たまにルールを誤解してて脳みそがフリーズしたりして、なかなか脳みそがさびついてる感じがしました。ま、Y野さん
「いえいえ、なかなかですよ」
となぐさめてくださいましたけどね^^;;。
時間があるので宿題は待合室でさっくりすませました。この宿題も「おまえ、性に関する質問、好きやな」と思わずツッコミたくなる設問がたくさんあるのですが、まぁ、変態であることを引き受けていたら、それなりにOKってもんです。

で、O田さんの勧めにしたがって、バスで大阪駅まで移動。ネットカフェに1時間ほどこもって仕事です。まぁ、サテンでもいいんですけど、靴が脱げないというか寝転べないというか。なので、やはりネカフェで仕事なんですね。

で、頃合いよしと福島へ。今日は『にじ色の本棚』の打ち上げです。
とりあえず編集担当のS村さんと合流。やがて原ミナ汰さんと大江さん@LOUDが登場。大江さんがわたしのことを知っておられて、ビビると同時に、かなりうれしかったです。
はじめは本のことについてあーだこーだと話していたのですが、やがて「ぶっこむ質問」が出てきたりして、そのあたりからディープゾーンに突入です。互いが「なぜこういう生き方をしているのか」なんていう交流はなかなかできるもんじゃないです。それを互いにブッコミあい、それをガチで受ける、とても濃いぃ時間を過ごしました。ちなみに、ブッコむ相手は、別にLGBTじゃなくてもいいんですよね。人がつながるのは「属性じゃなくて葛藤の量」って言葉がかの名作(笑)に出てきますが*1、まさにそんな感じの夜でした。

にしても、先達の歩んでみた道は、とてつもなく険しく自由ですね。それをあらためて感じました。そのあとに続くわたしの世代は、やはりそこを知りながら、自分の道を歩まなきゃならんなぁと。

*1:ちなみに、これはRささんの発言です。

ちょいとグチをば

今日はとある新聞社の記者のH房さんという方から取材を受けました。
なんでもH房さんは2007年くらいから「家族」というシリーズでわたしのことは知っておられたとか。恐縮だなぁ。
で、教員の立場からいろいろ聞きたいと言われたので、まぁいろいろと話をしました。
「教職員向けのLGBTのハンドブックを各地がつくっているんですが、どう思われますか?」
みたいな質問。H房さん、よくわかっておられて「マニュアルはいけない」っておっしゃってました。その通りです。最低限踏まえなくちゃならないことを提示してもらえばいい。
でも、一方で各地のハンドブックの意義なぁ…。

例えば、「○○は教育の課題だ。だから学校で」っていう言説がある。そりゃ当たり前です。子どもたちは原則的にはみんな学校に通っている。だから、子どもに関する課題は「学校教育の課題」です。ちなみに「○○」にはトレンドがあります。かつては部落問題。その後、例えば自死者が出たらイジメ問題。スマホの登場でネットリテラシー。そして、特別支援教育の導入で発達障害。障害者差別解消法に伴って合理的配慮。そしてLGBT。最近では主権者教育。
それらの間を縫うようにして、本来の仕事である不登校の子どもの対策や、進路保障や、低学力の子どもの学力保障や、さまざまな生徒指導がある。
学校はパンク寸前で疲弊しています。
そして、カバーする範囲が増えれば増えるほどミスが出る可能性が高くなる。ミスをしたら叩かれる。叩かれると、本能的にガードします。すると、そのガードを理由に「教育委員会制度があかん」とか言って管理強化を進めようとする。
北風政策ですね(笑)。
さらに、LGBTを例にして言うなら、100人の教員がいたとして、その中の一人だけが当事者が傷つく発言をしたとする。他の99人はしていない。でもらその当事者にとっては「教員に傷つけられた」という記憶だけが残る。そしてそれは記憶なんですよね。例えば30歳の当事者であれば12年前。時は2004年。そんなころの「ある教員」の話を持ってきて「今」の「学校」を批判する。
これは割の合わない話です。
じゃ、どうすればいいのか?
ひとつは「教育の課題」という言葉の理解が違うってことです。教育には2種類ある。ひとつは「学校教育」ですが、ほんとは「学校以外で行われるすべてを網羅するもの」としての「社会教育」がある。こちらをあまりにも軽視している。つまり、「子ども」の「教育の課題」を学校に丸投げしないってことです。
それから、現状を正しく認識するということです。過去のある地点での経験を普遍化しない。
さらに、個々の教員がカバーできる範囲には限界があるということも知る必要があると思います。例えばAという教員は在日外国人については詳しいけどBという教員は発達障害について詳しい。その時、Aに発達障害をやらせてBに在日外国人をやらせるのはキツイです。それは、会社組織を考えればすぐわかる。だから、それぞれの教員の得意分野がカバーしあえるような仕組みをつくる。そのためには「できないことを批判しない」という姿勢があらゆるところに必要となる。
きっと、他にもいっぱいあるだろな。

ま、結論を言うなら、学校はいま疲れてるってことです。そして、疲れさせてるのは誰かってことです。
あー、グチったグチった(笑)。

久しぶりにA久○さんと

ほんとに超久しぶりに阿○Zさんとサシ呑みです。
近況報告からはじまって、お互いの関心事や「おべんきょテーマ」を話しはじめると、もうとまりません。重なるところも重ならないところも、お互いに存分に話し合います。楽しい…。
やっぱりこれだなぁと思いながら、なぜか2軒目も行って、最終手前。地下鉄の中では爆睡です。あやうく引き返すところでした。