下の子どもの誕生日

今日は急いでお家に帰らなくちゃ。てことで、ジャスト1時間でお家に到着。
家に帰るとパートナーはケーキをつくっています。下の子どもは手伝っているのですが、君にはそういう時間はないはずよ。さっさと宿題をすませてしまってくれ。今日は怒りたくないからね。
7時にお家を出発。目指すは「ステーキのどん」(笑)。
京都市内に引っ越してから、家の借金と子どもの学費で経済的にまったく余裕がありません。なので、外食なんて年に2〜3回です。前に4人で外出したのは…。半年くらい前かな?で、年に2回というのは、早い話が子どもの誕生日ということです。
下の子どもは、年に1回食べられるステーキを心待ちにしているようで、1ヶ月ほど前から「ステーキのどん」とか言っていました。
下の子どもが頼んだのは、「どんステーキとハンバーグのミックスグリル」。なんか、ステーキも食べたいけどハンバーグも食べたかったらしい(笑)。まず出てきたライスを食べはじめたのはいいけど、ステーキには目もくれません。どうしたのかなと思ったら、好きなものは最後までとっておくタイプらしい。わたしと一緒ですわ。
で、お家に帰ってパートナー自作のキャロットケーキ。プレゼントは、なぜかソニックのアメコミ。なんか、歓声を上げてましたよ。にしても、読めるのか?まぁ、パートナーは「英語の勉強」とかいってましたけどね。
そんなこんなで、平和な一日が終了。

変わり目にはなるんだろうけど…

夕方、一発ケンカをかまして(笑)、急いでD大学へ。
今日は尾角光美さんが「「いのち」×「わたし」 〜今、どう生きるか〜」というテーマで話をされます。
で、急いで行ったのですが、すでに尾角さんの話は終わったあと。もう一人のスピーカー、山口さん@NHKディレクターが話をしておられました。
聞いたかぎりの話の内容を、ものすごくかいつまんでまとめてしまうと、こんな感じ?

阪神淡路大震災による友だちの死をきっかけに、NHKのディレクターをめざした。友だちのお母さんの取材をしたかったけど、なかなかできなかった。やっとできた。その番組を通じて、「生きている事の意味」を伝えることができた。
ともすれば「生きている事の意味」を忘れがちになるので、自分は毎年1月17日は神戸ですごすことにしている。

まぁ、かなり違うような気もするけど^^;;
まぁ大学生相手だからそれでいいんだろうけど、「ちょっと浅くないか?」という気がしたのはわたしがひねくれているからだろうか…。
「「生きることの意味」を他者の死を通して(あらためて)考える」。たしかにきれいなんだけど、「死ななきゃあかんか?」という気がしてしまう。
林賢一くんの自死事件をルポした「ぼくもう我慢できないよ ある『いじめられっ子』の自殺」の著者・金賛汀がそういう話を講演でしていたという話を聞いたことがあります。
そういえば、テレビドラマでも「人の死」がよく使われますよね。わたしはあまり好きではないんですよね。どちらかというと、「死」を経由しない「変わり目」を模索したいなぁ…。

あ、尾角さんの「質疑応答」はよかった。「自分の存在を否定された」経験が変わり目のうちのひとつだったみたい。
やっぱり、葛藤とか模索とか自己否定とか、そういう自分との深い対話が変わり目になるんだと思うんですよね。

同期生だったんだ…

今日は夕方からコリア国際学園の関係者と呑み。といっても、教員の方たちではありません。なんか、ここの学校、おもしろいことをやっているみたいで、その仕掛け人方々*1との呑みなんですけどね。
で、話は昨今の学校の状況から在日を取り巻く状況、進路をどう考えるかみたいなあたりからスタートしたのですが、気がつくと宋さんの大学時代の話へと流れていきます。話を聞いていると、なんか「近い」んですよね。
「大学、どこですの?」
「D大学」
「へ?いっしょですやん。で、何年度生ですの?」
「198◯年度生」
「え〜!いっしょですやん(笑)」
う〜ん、宋さんの落ち着きと、わたしの落ち着きのなさの、この差はいったいなんだろう…。
でも、大学の同期っていいです。語らずともわかる「空気」があるんですね。まぁ、ここここは、過去いろいろとあったんですけど(笑)、かなり親近感がわきましたね。にしても、我ながら単純やなぁ…。

*1:リンク先の代表理事

久しぶりの「土日」・2日目

今日も早朝にひと遊び。
家に帰ってなにをしようかな、と。
そう言えば、午後から子どもの友だちが遊びに来るとか。で、今日は台所で遊ぶとか。てことは、午後は台所が使えない。
ちょうどお弁当のネタがなくなりつつあるので、午前は「副菜づくり」といきますか。
「割り干し大根の炊いたん」「割り干し大根のハリハリ」「切り干し大根の酢の物サラダ」「タケノコのピリ辛炒め」「ぜんまいの炒め煮」をつくって一休み。
すぐに昼が来たので、ついでに昼のラーメンなんぞつくったところで力がつきました。まぁ、昼のビールを呑んだのが一番大きな原因ですが(笑)。
あとは、ゴロゴロゴロゴロ、怠惰な日曜日を過ごして終了。

あー、あしたから仕事かぁ…。

久々の「土日」

ほんとうに久しぶりに土日が休みです。うれしい。
ちょっと早起きして、午前中はちょこっと遊び。昼からは、新聞を見たり、テレビを見たり、犬の散歩に行ったり、まぁふつうの休日を過ごしました。

「女装」と「GID」に違いがあるとするなら…

「心の性」なんていうのは「あるのか?」と言っておられる人がおられるくらいなので、わたしにはよくわかりません。
とりあえず、違いがあるとするならば、「過ごすことが可能な時間」くらいかなぁなどと思ったりもするのですが…。まぁあくまでも直感ですから、「違う」ということならそれはそれでいいんですが…。
まぁ、これって「女装とGIDの違い」というよりも「パートタイムとフルタイムの違い」ですね。
もちろん、GIDの人でパートタイムの人もおられるわけで、必ずしもイコールじゃないですが、いわゆる「女装者」の方々はパートタイムの方が多いだろうという予測のもと、ちょっとこれで話を進めてみますか…。

女装者もMTFGIDも等しく、おそらくは「ジェンダーの徴」を身にまとわないと「女性として通用しない」と思います。つまり、「性他認」のことです。
問題は、その「ジェンダーの徴」を、いつ・どこで・どんなシチュエーションで・どの程度身にまとうのかということかなぁと思います。
フルタイムの場合は、仕事・遊び・その他諸々、すべてのシチュエーションで身にまとい続けるわけです。必然的に、それぞれのシチュエーションに応じた身にまとい方を要求されます。もっと簡単に言えば、「夜遊び」と「昼間の仕事姿」では違うわけです。例えば極端な場合、「昼間の仕事」ではジャージ姿を要求されることすらあるかと思います。もっとも、ジャージならジャージで、それなりの「ジェンダーの徴」はあるんだと思いますけどね。
に対して、パートタイムの場合は、あるシチュエーションに特化できます。まぁ言ってみれば、そのシチュエーションのスペシャリストということになるでしょうか。で、たいていの場合、パートタイムのシチュエーションは「夜の街」です。
で、「夜の街のお姉さん*1」と「昼間のバイク通勤の汚れ系なんちゃってフルタイム*2」のどっちがきれいなお姉さんかというと、これは、比較するまでもないわけです(笑)。そりゃぁ、「後者は受け入れられないけど、前者だったらOK」ということは十分にあるわけですわ。

でもねぇ。これはあまりにもアンフェアな比較だと、わたしは内心思っておりまして。
もともと身にまとおうとしている「ジェンダーの徴」が違うわけです。

そうそう、かつてstnのお友だちに新宿の女装スナックに連れて行ってもらったことがありまして。そのお友だちは「着替えてくるね」と姿を隠して、見事な変身を遂げられました。で、わたしはいつもの通りジーンズのまま。すると、「女装をしないの?」と聞かれまして。
いや、その時着ていた服、全部レディスですから、ある意味女装していたんだけど、その店では「女装」と認めてもらえなかったんですね。まぁ、「必要とされるジェンダーの徴」が違ったわけです。

ん〜。何が言いたいか、よくわからなくなってきた。やめよ…。
まぁ、美しさでは太刀打ちできないということか(笑)。

*1:たとえば、女装スナックのスペシャリスト

*2:たとえば、京都の某高校教員(笑)

フォビアはどこから来るのか

あくまでも「わたしの場合」ですが…。
やはり、小さい頃に「女装」をしたかった。でも、どうしてもできなかった。
つまり、「女装」へのすごいあこがれと、それへの「禁止」の感情が同時に自分の中にあったわけです。
それがそのまま内在化して、約30年間熟成されると、みごとな「フォビア」が自分の中にできあがります。
じゃぁ、これがその後払拭されたかというと、できないわけですね。
自分の中で「女装は禁止事項ではない」ということはわかっています。でも、そんな葛藤なしに*1軽々と「女装」をする人を見ると、うらやましさと同時にねたみみたいなものが出てくるわけです。で、それが身体反応としての「拒否」みたいになってくる。
まぁ頭ではわかっているけど、身体はそうは動かないという感じですか…。

そんなわたしですが、最近ようやく少しずつ身体が慣れてきたみたいです。ふぅ…。

*1:に見える

古くからあるけど、今もあるんだなぁ

某MLで流れている投稿をつらつら見ていて、「はぁ…」と思いました。
曰く「女装とGIDは違う」
曰く「一緒にされたくない」
なんなんだろう…。

自分の中に「女装フォビア」があるかどうかというと、それは「ある」なんですね。それはわたしには抜きがたくある。
でも、それはわたし自身の問題なんですよね。わたし自身が、そういう自分が持っている「フォビア」とどう向きあい、どう折りあいをつけていくかということなんです。

というか、「女装者」から「GIDなんかと一緒にされたくない」という声があがるという可能性を*1まったく度外視したこういう考え方に、わたしはどうしても違和感が残ります。

*1:実際あがっているんじゃないかなぁ