今日は、京都部落問題研究史料センターの部落史連続講座第2回目です。
前回は11月7日でして、この日は川口くんや阿久澤さんと呑んでいたので行けませんでした。
で、今回のテーマは「オールロマンス事件の虚構と真実」。話されるのはオールロマンス事件の研究者として有名な前川修さんです。
わたしは今回の案内をどこかで見た最初の時から、もう、ワクワクしていました。なんといっても、京都のあるいは日本の部落解放運動というか同和行政のあり方のひとつのターニングポイントとなった「事件」ですから。
とういことと、もうひとつ前々から気になっていたことがありました。それは、
「オールロマンス事件(1950年)から行政闘争が始まったと教えてきたけど、同対審答申の1960年までの10年間なにがあった(なにをしていた)のか?」
ということなんです。これ、部落史の資料をつくる中で、どうしても気になっていたことなんですよね。中世〜近世、あるいは戦前あたりについては、それなりに「ネタ」があるんですが、オールロマンス以降については解説書レベルではほとんどないんですよね。まぁ、『京都の部落史』あたりを読めばいろいろあるんでしょうけどね。
で、ワクワクしながら会場に行って、好位置キープ。軽くお腹に者を入れていると「いつきさん!」という声。ひょいと見ると、阿久澤さんです。ありゃぁ〜、こんなところでというか、京都在住なんだなぁ。
てことで、話がはじまります。
- オールロマンス事件とオールロマンス行政闘争はわけて考えている
「オールロマンス事件」を知っている人は多いけど『特殊部落』を読んだ人はけっこう少ないという話。たしかに差別小説としては有名だけど、これほど小説として読まれていないものは、他にはないんじゃないだろうか。
では、著者杉山清次はどういう意識で書いていたのか。
『特殊部落』に描かれている「風景」は、明らかに朝鮮人の姿*1。また、闇米のシーンなんかは部落の話。このあたりについて、前川さんは資料を用いながらていねいに解説されていきます。
質疑応答の時にも出てきたのですが、戦前から東七条への差別事件は頻発しています。こうした「世間の常識」の中で生きていた杉山清次さんの意識と、自分が職務上知り得た現実*2が一体となって、「なんかすごいところ」を暴露しようとしたんじゃないか。そして、その「すごいところ」に「特殊部落」という名前をつけた。
つまり、杉山さんにとっての「特殊部落」というのは、いわゆる「部落」をさすわけでもなく、朝鮮人の集住地域を指すわけでもなく、「世間の人々の知らない世界」みたいなものだったんじゃないかという指摘です。
ところが、これを「部落の姿」*3として、放置した行政の責任を問いながら、地区改善要求の根拠にしていった。これが、「オールロマンス行政闘争」。つまり、『特殊部落』という小説そのものや、その著者杉山清次の意識、あるいはその背後にある社会のまなざしといったものへの差別性を問うならば、それは「オールロマンス事件」といえるのかもしれないけど、それを行政闘争の契機*4にしていったという意味で、小説『特殊部落』をめぐる問題と切り離して考えるべきなのではないかというように、わたしは聞きとりました。
「一枚の地図」の話はあまりにも有名で、映画でも見た気がするし、わたしも教室で教えていました。でも、あれ、どこで読んだんだろう。
前川さんは、「別にあったかなかったかはどうでもいい話」と前置きしながらも、例えば『京都の部落史』の中に「地図」にかかわる資料が収録されていない理由を師岡さんの「いくらさがしても資料がなかった」という言葉をひいて「わたしはなかったと考える」と話されました。さらに、あの話の出典として東上高志さんの『差別』の一文を資料として提示しながら、「オールロマンス行政闘争」当時の京都市の部落の数と、東上さんが書かれた時の部落の数のズレを指摘したり、行政側に残された火事の件数や衛生的に問題のあるとされた地域の数と当時の部落の圧倒的な差を示されます。そこから、東上さんの文書を「あれは歴史文書ではなく啓発文書」とばっさりと切られます。
しかし、「一枚の地図」の話を否定することは、実際には解放運動側と行政側の戦前にはじまる地区改善事業への長い長いとりくみを発掘することでもあるのです。わたしたちは戦前・戦中・戦後それぞれに断絶があると感じがちですが、行政レベルで言うならば、人も計画も、すべて連続しているようです。「オールロマンス行政闘争」は、そういう息の長いとりくみの中での、とても大きいターニングポイントと捉えるべきであるという定期というふうに、わたしは理解しました。
わたしは「光と影」くらいにとどめているのですが、ここは「功罪」とずばりと言われました。
「功」はもちろん、同和事業の画期的な前進です。
問題は「罪」のほうです。先にも書いたように、消防局が出した危険地域の数や衛生局が出した改善を必要とする地域の数は、部落の数の10倍以上の数でした。にもかかわらず、それらの地域は放置された。その典型としてあげられたのが東九条でした。
前川さん自身、東九条の中に住み、東九条の中で働き、東九条の中で運動をしておられる方です。東九条の住宅環境を改善するための施策を京都市に要求しても、「京都市は無理である。住宅地区改良法による予算は、すべて同和対策にまわっている」という返答があったとか。実際に、東九条に市営住宅が建てられたのはここ数年ですし、まだ3棟しか建っていません。そして、そういうアンバランスが、法切れ後のあまりにも強い逆風をまねていているのではないか。そういうことを「顛末」と表現されました。
なんというか、前川さんの言葉の中に、一種の「恨」を感じました。
前川さんの話に対していくつかの質問が出ました。
ひとつは
「オールロマンス行政闘争は、結局は、行政内部の地区改善事業をしたい人たちとしたくない人たちのヘゲモニー争いであったと考えることができるのではないか。とするならば、今もまた、逆の意味で同じことが繰り返されているのか?」
というものでした。
これ、かなり辛辣な話だなぁと思いました。でも、そう受けとることもできますよね。
で、もうひとつはムラのおばちゃんの質問というか意見です。
ひとつは、
「オールロマンス事件は、(行政側のきっかけではなく)運動側にとってのきっかけだったのだ。あそこで元気をもらって運動をやったから、さまざまな施策がなされたのだ」
というものでした。
まぁ…。なんというか…。「その時、その場所」にいる人間はこう感じるだろうし、それはそれでひとつの真実かもしれない。でも、それを歴史という形で見た時、「それだけ」がクローズアップされるとするならば、そこにはなんらかの「意図」があるんだと思うのです。その意図に対して、さまざまな方向から光をあてないと、歴史から学ぶということはできないんじゃないかなぁと思うのですが…。
さらに、話の途中で前川さんが「低位性は部落だけにあるのではない。誰かが貧困であるとするならば、その原因がどうであれ、等しく保障されるべきである」という話をされたことに対して、次のような話が出てきました。
「他の貧困はそれが解消したらそれでいいかもしれないが、部落の貧困は、解消されても差別は残る」
あぁ…。久しぶりにこのフレーズを聴いたなぁ。
これに対して、前川さんは
「そのとおりです。だからこそ、差別をなくすためにともに闘っていきましょう」
と返されたのですが、おばちゃんにその真意をわかってもらえたとは思えないですね。
部落史の見直しが提起してきたことのうちのひとつは、貧困と差別をわけて考えるということだったんじゃないかと、わたしは思っています。つまり、貧困な状態の解消は、部落であろうとなかろうとやるべきであって、どこか・誰かを特別扱いするべきではない。そして、それとは関係なく、差別と闘いましょうというラブコールを前川さんは送っているんだと思ったのですが、たぶんそのラブコールは届かなかったんだろうなぁ…。でも、それを責めることはできないんだと思うのです。だって、まさに貧困と差別の中を生き抜いてきたおばちゃんにとって、それが現実であり、そこから物事を見つめ、考え、闘うわけなんですよね。
ん〜。いろんな意味で刺激的な講座でした。
次回も楽しみ…。