「ひととき」続編

ここで書いた生徒が、今日「勉強教えて」と言って来ました。で、一通り教えたところで、
「ありがとう。で、先週言ってたやつな」
といいながら取り出したのが、試供品のファンデーション。
「これ、先生にはちょっと白いかなぁ」
とか言いながらくれました。
えへへ(^o^)。

だれがそうさせた?・ふたたび(極論はやめよう(笑)編)

教員とてひとりの生活者です。
わたしのように、他の仕事につく能力のないものにとって、「職をかけて異動を求める」ことはできません。ですから、与えられた場所で淡々と仕事をするのです。でも、そこでサボろうとしている人はあまりいない*1と思います。ほとんどの教員は、与えられた場所で、精一杯のことをしようと努力をしていると思います。
ちなみに、わたしが現在勤務している学校がどういうところか、おおよその想像は、ここを読んでおられる方々はおわかりと思います。わたしは、現在まで23回の人事異動の調書には、すべて「留任する」と書き続けてきました。わたし、世間からなんと言われようと、けっこううちの学校の子どもたち、好きなんですよ。
しんどい学校に勤務したい教員志望の方がおられたら、仲間として、心の底から大歓迎します*2

*1:「あまり」と書かざるを得ないところが厳しいところですが(笑)

*2:教員希望の方へ。だから、ぜひぜひ採用試験を通って下さいね

だれがそうさせた?・ふたたび(TPOをめぐって編)

あらためて、TPOの語源を考えてみたら、TとPはわかるのですが、Oが「?」でした。なので、ググってみると「時間(time)、場所(place)、場合(occasion)」とありました。なるほどね。さらに、「あえて英語で言うと”common sense”あたりが近い言葉になるそうです」とあったので、ますます「なるほどね」と思いました。

TPOを決めるのは、「世間」じゃないかと、わたしは思っています。「世間」とは、法や制度と一定程度の依存関係を持ちながらも、そこからは独立して存在する価値観なんじゃないかと思います。そういう意味で、法や制度と密接な関係を持つ「社会」とはわけて考えています。

子どもたちがよく愚痴を言います。
「わたしばっかり注意されるねん」
で、わたしの答はこれです。
「お前な、目立つ恰好をするかしないかは、お前が選択したんやろ。目立つ恰好をしたら、その分だけ注意をされるのをわかってやっているんやろ。これからもその恰好を変えへんのやったら、その注意に抗いながら生きていく覚悟を持たんとあかんのと違うか?」
これは、わたしなりの子どもたちへの精一杯*1のエールです。

「学校への評価」という守りの意味でのTPOとは別個に、今学校が世間から期待されている役割を担うとするならば*2、TPOを教えることは、やっぱり必要かなと思います。それは、世間の中で生きていく際、判断のひとつの基準として必要だからです。
そういう意味で、わたしは「(事細かな)校則は必要ない」と考えています。なぜなら、校則に定められていることで、子どもたちが判断する機会を奪われていると考えるからです。

では、その「判断」の中身とは何か。
それは、「世間に抗う時と世間に従う時を判断する」ということです。
例えば、わたしは高座の時に「あの、ジーンズでもいいですか?スーツの方がいいですか?」と聞くことがたまに(笑)あります。それは、呼んでいただいた方を取り巻く世間に従うことが、TPOとして必要だと思うからです。
しかし、「教員らしくないからジーンズで授業をするな」と言われると、おそらくはケンカになるでしょう。わたしの教員としての仕事内容とジーンズをはくということは無関係であると考えるからです。
では、「お前は生まれたときの性で生活しろ」と言われたらどうするか。わたしは今の生き方をやめません。でもケンカもしません。なぜなら、世間とわたしの間に大きなズレがあることがわかっていて、そこでのケンカは意味がないと判断するからです。ではどうするのか。そこでわたしは、「世間を変えていく」という方向をとります。

あの学校の判断以前の問題として、×にされた子どもたちの出身中学校の教員のしんどさを思います。
きっと
「そんな恰好で行ったらあかんで」
とさんざん指導をされたんだろうと思います。でも、子どもたちは「その恰好」で行った。その子どもたちはTPOを身につけようとしなかった。なぜなら、TPOをわきまえることを必要とする実感がなかったからだと思います。
「なんやかんや言うても通るやん」
という経験しかしていなければ、学校の指導は通りません。
じゃぁ、なぜ通らないのか。それは、それを通している「世間」があるんだと思います。そして、「世間」はその子どもたちに対して、自らの手を汚さないようにして、相応の「仕打ち」をするのではないかと思います。

世間に抗うためにも、そして、ほんとうにやらなくちゃならないケンカは何かということを見極めるためにも、TPOは大切だと、わたしは思います。

*1:教員という仕事をしている限界内でのという意味

*2:つまり、「勉強以外のことも面倒をみなさい」ということを飲むならばということです。わたしは、現在の学校への教育内容の負担は過大であり、また、そこにも学校間格差が大きく存在していると考えています。

だれがそうさせた?・ふたたび(入試制度編)

誰がそうさせたへのGID当事者ですがさんのコメントにすごく考えさせられたので、せっかくですから本文の方に考えたことを書かせていただくことにします。
まずは、「誰がそうさせた」の中で言いたかったことを簡単に書きますと、つぎのひとことになります。
「しんどい学校は、制度的につくられている」
ということです。もう少し言うならば、
「しんどい学校は、結果的に必要とされている」
と書いてもいいでしょうか。

入試制度って、「必要な子をとる」ためのものではなくて、「必要でない子を排除する」ための制度なんじゃないかと、わたしは思うのです。なので、トップ校は、まずは「受験するかしないか」という段階で入試以前の排除を行い、入試においてさらなる排除をすることで「優秀な」生徒を制度的に選別しています。それが、トップ校から「繰り下がり」ながら、それぞれの学校が「必要としている子」を選別していき、最後に「どこからも選別されなかった子」が残ります。その子どもたちが「しんどい学校」に来るわけです。
もしも現在の高校進学率が50%なんて状態であればこんなことはもちろん起こりませんが、100%に近い状態では、みんながどこかの学校におしこめられる状態があるわけで、そういう意味では「しんどい学校」の存在がトップ校の存在を担保していると、わたしは考えています。
わたしは、そういう現在の状況にさまざまな批判をもちろん持っていますが、しかし、「ええやないかい!」と、一方で思わざるをえない現実もまたあります。なぜなら、現在の序列化された学校制度でない場合、学校や教室の中に序列化ができてしまい、「しんどい子ら」がその中で排除されていく可能性があると思うからです。それならば、いっそ「しんどい子」が集まる学校をつくって、その子らに力をつけていけばいいかとも思うのです。このあたりが、わたし自身のジレンマではありますが、「この子、あそこの学校ではとうてい生きられへんやったやろうなぁ」と思う生徒を目の前にした時の、わたしのきわめて現実的な「解」がこのあたりになるわけです。

ところで、そういう「しんどい学校」への「世間」の眼差しはどうであるか?
この夏、人権教育の研修会で来られた方が、ご自分の学校で子どもたちに
「人は見かけによらないが、人は見かけで判断する」
と言っておられるそうです。わたしにはとてもよくわかります。
現在のように、学校が地域からどんどん切り離されている*1状況の中で、地域の人たちは、「どこの誰が通っているかもわからない、だらしないかっこうをしている生徒の通う学校」にどのような眼差しを送るのか、想像するのは簡単だと思います。

制度的に必要とされつくられていったものであるにもかかわらず、「世間」の眼差しはとても冷たいということを、わたしは感じています。そしてその冷たさの根拠を、「自己責任」という形で正当化しようとする世間の圧力もまた、わたしは感じています。
ちなみに、先の学校では、おそらく「服装で×」となった子どもたちの代わりに合格した生徒は、「服装で×」の子どもたちよりも学力的に低い子どもたちだった可能性が高いのではないかと思います。「どちらをとるか」という選択の時に、「それでもこっち」という判断をした、その背景にあるものはいったいなんだったのか。
あの学校のやったことは、たしかに「不公平」だったと思います。ただ、その不公平を行う必要のない学校がたくさんあり、そこでは入試以前の段階で選別がされているのではないかと思っています。
そこを抜きにして、あの学校のやったことだけを取りあげ、それもまた「自己責任」と切り捨てることは、わたしにはとうていできないのです。

*1:高校はもちろん、公立の小・中も学校選択制の名のもとに「地域の学校」ではなくなってきています