初のインクルーシブ分科会はビミョーやな

朝、目が覚めると6時半。休みというのになんの因果でとは思いますが、8時半には出ないといけないので、妥当なところでしょう。とりま、朝ごはんを食べてお風呂に入って、一段落して、出発です。
今日は分科会。わたしはインクルーシブ教育の分科会を選択。去年は教育課程の分科会でレポートでしたが、勉強です。
インクルーシブ教育というと、一般的には障害のある子とない子が同じ教室でともに学ぶという感じですが、ここではもう少し広義に使ってるみたいです。簡単に言うなら「exclusionではない教育」ってことで、昨日の講演にひきつけるなら「deprivationがない教育」ってことになりますか。なので、障害に限らず、例えば貧困や国籍や文化、さらにはセクシュアリティも含まれます。
てことで、出てきた2本のレポートもひとつは障害にかかわるレポートで、もうひとつは定時制の授業料や教科書や給食費の話でした。
で、障害にかかわるレポート、ビミョーです。たぶん、レポーターも「「成功」した事例」というスタンスでは出しておられないと思います。どちらかというと、のつこつしながらのとりくみを正直に出しておられる。まぁ、それだけしんどい教職員集団なんだろな。ちなみに、教育委員会は「定員内不合格は出すな」といいながら、支援員をつけるのをしぶって、それがメインの話題のうちのひとつになってました。が、ビミョーなのはここなんですよね。もちろん制度を勝ちとるのが大切なのは言うまでもないのですが、制度を勝ちとるためには「このままではアカンやろ!」ということを見せつけないとダメな時があります。と同時に、「インクルーシブ教育」って「ともに学ぶ」ことだから、支援員の支援で他の生徒と切り離されたらダメなんだと思うんですよね。それが切り離されてる感じなんですよね。レポーターは「去年はできてたけど今年は友だち関係がしんどいクラス」って言っておられて、それはそうかもしれませんが、やはり「クラス集団づくり」は大切なんだろうなと思うし、それができていないからこその今の状況なんだろうなと。ま、結論は「それだけしんどい教職員集団」ってことなのかな。
そんなレポート。でもまぁ、実際に「おまえやれ」って言われたらできないだろうなと思うのはこないだと同じ話なんですけどね。
で、次のレポートにはまったく入れません。ほとんど「定通部会」の様相を呈していて、ひたすら聞くのみです。でも、「そんな制度があるのか」とか「そんなふうにして押し通すんだ」とか「そんなに厳しい状況があるんだ」とか、いろいろ勉強になりました。
てことで、分科会終了。
で、全体会があって、すべての日程が終わりました。そのあとはもちろん昼ごはんです。澤田さんを誘ったけど、「あと」があるらしく、
「授業の準備が」
とか言うAっちゃんを
「どうせ昼ごはん食べるやろ」
と誘って、K原さんと3人でさっくりと昼呑み。
帰りの新幹線の中では睡眠をとめられませんでした。

まさか中止とは→今日もしゃべりすぎ→ネジに萌える

てことで、今日は某人権教育関係の研究大会です。
午前は記念講演。講師はいまをときめく白井聡さんです。でも、昨日の飲み過ぎでメッチャしんどい。なんとかしなきゃとつい買ってしまったのが「ドデカミン」。笑われました。
それでもなんとか復活基調で、わくわくしながら待ってたら、まさかの講演中止。なにがあったのかと思ったら、なにやら突発的なトラブルがあったとか。しかたないな。残念だけど。
ということで、とりあえず早めの昼ごはんといきましょう。こんな日の昼ごはんは、やはりラーメンですね。

んー、塩辛くて化調の味が強いので、よくわからない味でした(;_;)。
で、午後の分科会。
1本目は第2のふるさとの中学校のレポートです。中身はADHDの子どもへのかかわりですが、とにかくていねい。ほんとにみっちりとかかわっておられます。本人や家族にていねいにかかわり、少しずつ行動が変化していく中で、のけ者にされていたその子がまわりから受け入れられていく。はっきり言って、かかわりにはツッコミどころがありません。となると、天邪鬼なわたしは斜めから切れ込みます。
「その子本人が困ってることってなんでしょうかねぇ。あと、ほんとにその子、薬飲みたいんですか?」
この質問の読み筋は、かつて出会ったADHDの子どもの経験なんですよね。その子、薬がイヤなんです。なんでも、「動きたいのに動けない」らしいです。「手足を縛った感じ?」って聞いたことがあるんですけど、それは違うらしいです。で、薬を飲まない。するとフルパワーが出せるそうです。でも、例えば怒りはじめるととめられない。ダメなのはわかってるんです。でも、わかっていてもどうしようもない。その「とめられない」ことがしんどいらしいです。もう、八方塞がりです。結局、どっちのしんどさをとるかなんですね。その時に、「とめられないしんどさ」は常にあるわけじゃない。でも、「動けないしんどさ」は常にあるわけで、結局「薬を飲まない」を選んでるのかな。つまり「困ってる」ですよね。で、人権教育的には「困ってるその子と、困っている状態でつながる」ことが大事なんじゃないかと思うのです。言いかえるなら、薬を飲むことで行動が変化し、その変化した子によって、周囲の評価が変わって受入が進むというのは、たぶん違うってことです。これ、メッチャむずかしいです。わたしにできるかというと、きっとできません。でも、そこをめざしながら、現実的な解として薬を使うこともあるということなんじゃないかなぁ。そんなことを考えました。
2本目は、またまた中学校のレポートです。こちらは「ハイブリッドハーフ」のAさんとのかかわりです。はっきり言って、Aさん、すごいです。教員はなにもしてません(笑)。というよりも、どちらかというと、レポートした教員がAさんからひたすら教わってます(笑)。でも、これ、たまにあります。わたしもずいぶんと子どもたちから教わってきました。大切なのは、「自分は教える側」と意固地になるのではなく、子どもから教わることを拒否しないことだと思います。ちなみにAさんがレポートした教員にいろいろなことを話してくれるきっかけになったのは、人権学習で傷ついたことのようです。たしかに教員としては反省材料にはなるのですが、「それはそれでええやん」と思うのです。というのは、それも含めての「ワクチンとしての人権学習」だからです。そういう刺激があって、より深く自分のアイデンティティを模索できるんじゃないかと思うんですよね。
で、わたしからの質問は、もちろん
「ピアな存在との出会いはありますか?」」
です。そしてえもちろん答は
「ない」
です。てことで、京都在日外国人生徒交流会と東九条マダンの宣伝なんぞをしておきました(笑)。
3本目のレポートは、またまた中学校で、今年度の人権学習についてです。これ、そこにいたみなさんがぶち切れてました。いや「ちがいのちがい」をそんなに延々と話さなくてもいいし。いや「青い目茶色い目」の説明はいらんし。本人は「新しい知見があるわけではない」と断っておられましたが、そんなものはここではいらないんです。実践が知りたい。それは人権学習であっても同じなんですよね。しかも、いちいち途中ではさむ話がまたぶち切れる理由をつくっています。例えば、
「識字をちょこっと扱ったけど、あまり深入りせずに、部落についても扱わず、学習権についてやりました」
みたいな。隣にいた、長く社会教育畑で識字をやっておられたという方が、ガマンしきれずにムラのおばあさんから言われた
「中途半端にやるならやらんといてくれ」
という、まぁ定番と言えば定番の言葉を紹介してくださったのですが、これがまた届かない。しかたないので、わたしが説明です。
「この言葉はですね、「やるな」という意味じゃなくて「しっかりとやってな」というエールなんですよ」
さらにわたしからも質問です。1時間女性問題を扱っておられて、M字曲線とか賃金格差のこととかはやっておられるのですが…。
「レポート中、「学校時代は男女の扱いに差はないけど」って言われましたが、ほんとうにないですか?」
もちろん答は
「女の子も委員長をやったりするし云々。だからないと思います」
です。で、わたしからの切り返しは
「「ない」と思うから「ない」と思ってしまうんじゃないですか?」
です。例えば、ある英語の研究授業の時に、わたしが注目したのは、机間巡視中に立ち止まってアドバイスをする相手のジェンダーがどうだったかなんですよね。すると、男女で差がありました。まぁ、このケースではその差は単純に苦手な子の差があったということでしたが、一見当たり前に行動している中にジェンダー格差があるかもしれないということに自覚的になって、自らの行動を点検すれば、簡単に「ない」なんて言えないってことです。
レポーター、黙ってはりました。まあ、ちょっといじめすぎたかもしれません。もしかしたら「順番なのでレポートして」っていうことで来られたのかもしれません。が、それにしても、あまりにも謙虚さがないレポートの姿勢だったので、ついぶち切れてしまったという…。
その後の総括討論ではみなさんあまり話をされないので、いろいろ発言してしまったり。ただ、一番笑ったのは、新採2年目の方が、「いろいろ学べました」と言いながら、1本目と2本目のレポートに言及して、3本目については言及しなかったという。これ、大切なのは2年目の人ってことで、かなり辛辣ですよね。まぁ、そんな分科会でした。

で、友だちに車に乗せてもらって京都に帰って、待ちあわせです。ところがなかなか会えない。おかしいなぁと思ったら、待ちあわせ場所をピンポイントで決めてなかったため、50mくらい離れたところで、お互いに「来ない」って思っていたという。
で、駅の近くの居酒屋に行って、今度やるお座敷についての打ちあわせ。のはずが、気がつくと「ネジ、萌えます」で終わってしまいました。
アカンな…。

「次にとりかかる」と「脱力感」

今日はガチの授業まみれです。1・3・4と授業があって、5時間目は自習カントク、6時間目は放送業務。こんな時は、空きの2時間目になにをやるかを決めるのがキモです。単純にPCの前でできること…。メールの送受信とデータ集めとプリントアウトかな。
てことで、まずは金曜日にババっと書いてしまったゲンコを関係者に送付。いくら文責がわたしといっても、まぁそういうわけにはいきませんからね。
で、次のゲンコに向けてのデータ集め。というか、7月にもらったメールにあったリンクを次々に踏んでいって、とにかく脳みそのモードをそちらにしていきます。どんどん自分が本来やらなきゃならないことからそれていく気もしますが、もしかしたら、それなりに沿ったところかもしれません。でも、新しい世界を見るのはおもしろくはあります。

そんな中で、とある教員から報告を受けました。
教「こないだうちのセクションで話をした時、「これとこれは不要なのでは。他にないか」という人がいてな」
い「その「これとこれ」はなんですの?」
教「同性愛とトランスジェンダーやがな」
い「で?」
教「そんなん、今から他の人とか無理って答えておいたし」
い「ふーん」
教「ま、報告や」
こういうの、久しぶりやなぁ。このご時世に人権学習でトランスジェンダーや同性愛を扱わなくていいって
考えてる人がいるんや。しかも、教科的には扱わなくちゃならないポジションなんですけどね。まぁ、わかりませんよ。実は本人がそうで、だからイヤってのはあるかもしれない。でも、それとこれとは別やしなぁ。てか、「やらなくていい」っていう人がいるからこそ「やらなきゃならん」のですよ。
てことで、うちのセクションでその話をしたら、みなさん「はぁ?」とか言ってたから、きっと世界はそこまでは来てるんだろな。
微風であっても、逆風が吹いた時に、そんなことがわかります。

日常にまみれると

今日はもともとは体育祭でした。でも、昨日の時点で今日が雨とわかっていたので、来週に順延です。で、今日は木曜日だけど、月曜授業。特にこの時期「ハッピーマンデー」の関係で月曜日がたてつづけに休みになるため授業進度がクラスによってまちまちになるからです。ちなみに、2学期当初は午後の授業がなかったり、昨日も午後の授業がカットになったりと、午前と午後でも進度が変わるんだけど、そこはフォローしないんですよね。よくわかんないです。
ま、そういうことで、授業と会議にまみれる1日です。こんな日は、ほんとに何もできないので、空き時間はプリントづくりとか、やがて必要になるプリントの印刷とか、そんなあたりの作業です。
でも、今朝、前のおべんきょ場所のセンセからメールがあってゲンコをひとつ忘れてることに気づきました。やばいわ。何も考えてませんでした。

日常にまみれると、ほんとに何も考えられなくなります。新聞を読むヒマもないし、というか気力がわかないし、情報はネットだけです。まぁそれだけでもないよりはマシですがね。でも、その情報を咀嚼し、考え、どこかに投げ返すことができなくなります。まぁ、やってる人はできる人なんでしょうけど、わたしはできない。
わたしにとって、どうやら「考える」ということは、それなりの時間がないとできないことのようだということが、ようやくわかってきました。まぁ、今頃気がついたのかと、それならなんとかせいやという声があちこちから聞こえてきます(笑)。でも、だからといってすぐに時間がつくれるかというと、そうもいきません。いや、土日をなんとかすればどうにかなるだろうという話は当然あるわけですが、それはどもなりません。てか、どうにかしたって、それはそれで土日に用事は入ります。まぁそんなもんです。

でもまぁ、この危機に気づいただけでもよしとしましょう。で、今日明日のリソースを、忘れていたゲンコに割り振りましょう。
ということで、ほんの少しの時間だけど、ペーパー読みです。うーん、まだ形にならない。でも、いくつかキーワードがある気がします。これをどう形にするかですね。そういえば材料があったな。とにかく集中!

不摂生とか

今日は午前は「第2のふるさと」で会議です。今日はわたしがしたい話とその場でなされた話が少しずれたかなぁ。「子どもができないところを担任はわかってるんだから、そこをちゃんとフォローしなきゃならん」という話が出てきて、それはまったくその通りなんですが、わたしはそういうのはある種の精神論的な話だと思ってるんです。で、この場はそれはあたりまえの前提条件で、そういう話をする場ではないと思っているんですよね。具体的には「勉強が苦手な子どもたちに何が不足していて、それはどのような要因から起こっていて、それにどのように対処すればいいのか、あるいはそれを未然に防ぐにはどのようにすればいいのか」ということを過去のデータと現在子どもたちをとりまく状況とを重ねあわせながら論議する場所だと思ってるんですよね。
まぁ、その前提条件が崩れてるのかもしれないけど、でも、そこまでしつこく言わなくてもええんとちゃうかなと。つまり、そこにいる人たちは「わかってる人たち」なんですからね。まぁ言うならば、ホームルームの時間に「お前ら、なんでホームルームサボるねん」って話をするのと同じで、それは来てる子らに言うなよなって話です。いやもちろん言うのはいいんだけど、来てる子らがその話を聞くことに意味があるように言わなきゃならんだろうということです。
てことで、午前の会議終了。
ガッコに行って、トイレに行くと、某所から出血してるのを発見。うーん。3年たってもアカンか。まぁ、理由はわかってます。一番修正してほしかったところは、かなりたいへんだったので、相当テンションかかってるんです。でも、そこはけっこうこすれるところなので、傷ができやすいんです。例えばUシットとかするとアウトです。たぶん、昨日の筋トレがアカンかったのでしょう。でも、落ち込みますね。
で、おべんと食べたら、すぐにK新聞の記者が来られて、1時間半ほど取材を受けるなど。写真撮られちゃいました。バックは散らかってるぞ(笑)。
その後、傷跡の処置をしてみるなど。
あとはダラダラ雑事をして、定時にあがって、先週に引き続いてカイロプラクティックです。先週は体調最悪だったので、効果は劇的でしたが、今週はメンテナンスって感じです。次回は来月。その程度まで回復したってことですね。
さぁ、家に帰ってビールを飲んで、「マツコの知らない世界」を見て寝よう。と思ったら、「マツコ」ないよ!秋の特番かよ!ったく、特番、やめぇ!

どっちもどっちじゃない

はじめに結論を書くと「玉城デニーさんが当選してよかった」と思ってます。
「ウチナーでもなく、沖縄に縁もゆかりもなく、運動もしてないお前に何がわかるねん。何を言うとるねん」という批判は、当然引き受けます。でもそれは、アメリカに縁もゆかりもなにもないわたしがアメリカ大統領選挙の結果に関心を持ったり、その結果に喜んだり悲しんだりするのと同じ程度のことです。まぁ、アメリカとは違い、沖縄の現状にヤマトンチュのお前には責任があると言われたらそのとおりで、そうなると玉城デニーさんが当選したのを喜ぶこともまたかまわんやろとも思うわけです。
で、なにがよかったか。
それは、アメラジアンであり母子家庭の知事が誕生したということです。かたや佐喜真さんは羽衣伝説の末裔です。出自的にどちらを選択するかというと、わたしは玉城さんです。なぜなら、そういった立場の人のことをきっとわかるだろうなと思うからです。
もちろん、「ある出自を持つ人しかその問題はわからない」とは思っていません。そんなことだったら、わたしがやってることはすべて不可能になります。てか、「そういう出自を持つ人」にお願いして、わたしは退散します。
ではなくて、政策見た時に「そうだよなぁ」と思ったんですよね。なにより「中高生のバス代無料化」は「だよねー」と思いました。
例えばこれ、京都府知事には思いつかない発想です。なぜならバス代の高さを知らないからです。てか、京都市内のかなりの人は均一区間なので、わからない。でも、ひとたび均一区間を出ると、バス代ってすごく高い。わたしも京都府南部にいなかったらわからなかったと思います。
これだけでどれくらいの効果があるか。
例えば、バス代のために子どもがバイトしなくてすむ。例えば、バス代のために親がその分過重な仕事の仕方をしなくてすむ。例えば、バス代を節約するために親が車を動かさなくてすむようになる。例えば、子どもたちがバスに乗ることで、バス内でコミュニケーションをとることができるようになる。例えば、バスに乗る人が増えて、もしかしたらバス運転手の雇用が増えるかもしれない。
いろんな効果がある可能性があるんですよね。
それからもうひとつはアイデンティティです。
例えば、佐喜真さんが勝ったとして、その時カチャーシーを踊っただろうか。たぶん踊らなかったんじゃないかな。誰かが「ウチナーグチを使わないことに気づいた」って書いてたけど、そこです。佐喜真さんの本心はどうかわかりませんが、少なくとも玉城さんはアイデンティティとしての沖縄をとても大切にしている。そういう人が知事になることがとても大切だと思っています。
かつて、1995年の県民大会で「人沖縄は誰のものでもなく、沖縄の人のもの」というアピールがありました。その言葉が突き刺さってきます。少なくとも、玉城さんはそう考えている。それが翁長さんの遺志を継ぐことなのかなと思います。
で、辟易ということ。特に若者の辟易ということ。そして、10代20代では佐喜真さんが勝っていたということ。いろんな人がいろんな分析をしてるので、それはそこに譲るとして。
「辟易」を持ち込んだのは誰なのか。もちろんヤマトンチュである「わたしたち」です。が、ヤマトンチュは一枚岩なのか。それは違います。どのヤマトンチュが持ち込んだのかは正確に考える必要があると思います。そこに「どっちもどっち」を持ち込むのは違うと思います。
わたしは沖縄を利用したくない。だから、利用されることを拒否し、沖縄は沖縄の人のものということを明確に打ち出してくれた玉城さんが当選したことを喜ぶのです。なぜなら、わたしが利用することを強制されなくなるからです。

そんなことを考えていたら、ノーベル賞受賞のニュースが来ました。
「基礎研究が大切」と、この間、受賞者が口を揃えて言ってます。でも、そのことを聞かない。そして「受賞」という事実のみを利用する人たちがいます。「基礎研究が大切」という発言を利用するのと、「受賞という事実」を利用するのと、それらはどっちもどっちなのかな?
たぶん違う。

ある会話

来週、体育祭があります。となると、そのあと当然打ち上げがあるわけです。その打ち上げの文書を見ると、会場の案内に「職場から徒歩15分」とあります。
体育祭は、わたしがいるセクションの役割なので、この案内文も、うちのセクションの若い衆が書いたはずです。これはひとこと言ってあげなきゃと。
い「あのね、人権担当の立場で言うと「徒歩15分」は使わないんだよ」
T「なんでですか?」
い「車いすユーザーとか歩けない人もいるし、それだけじゃなくそもそも歩く速さは人によって違うからね」
T「あー」
い「15分はだいたい1キロと考えているので、例えば「徒歩10分」だと「700m」とか書くんだよ」
T「そうですかー。ボク、ずっと「徒歩15分、走って3分」って書いてました」
い「走って3分(笑)。それ、早すぎるやろ!」
伝わったかな(^^)

過去のしでかしを振り返る

この間「おべんきょ」が進みません。原因はわかっています。山のようにあるゲンコです。なので、とにかく前倒しでゲンコを出してきました。今日が〆切のゲンコは先週すでに出してたし、今月末のゲンコもすでに送りました。これはかなりめずらしいことです。でも、それくらい切羽詰まってるってことです。で、次にとりかかるのは、10月中頃〆切のゲンコなんですが、これがめんどくさい。というのは、10年前の出来事を思い出せって話です。しかもさらにめんどくさいのは、これ、わたしのところに直接来たものじゃなくて、KうさんとかHがしさんとかに行ったのがまわってきたってことです。ちなみに、ほんとなら0島さんからもまわってくるはずなんですが、天国からはちょっと無理なのでこなかったという。
それにしても、あらためて思ったのは、なんでわたしはこんなのに3回もかかわったんだ?ってことです。
1回目は0島さんとの腐れ縁はありました。さらに、当事者不在で勝手に決められたことに反発もして「やったろかい!」というのもありました。さらに、まだまだデビューしたてなので、いろんな人と一緒に「しでかしたい」ということもありました。なので、まぁそれはそれでいいでしょう。結果はなかなか楽しい時間になりました。
2回目はそれから3年後。「まぁ、前にもやったしええか」くらいの感じでした。スタイルもある程度確立してたし、人のつながりも増えてたし。なにより「新たなことにチャレンジしたい」ということがありました。結果はなかなかなカオスで、これまた楽しい時間が過ごせました。
問題は3回目です。はっきり言ってやる気なかったです。だって、2回もやったんやから、もうええやん。しかも、近年どんどん豪勢になって、とてもじゃないけど気安く引き受けられるものでもありません。ここはしっかりとした組織があるところにやっていただけばいいのではないかと。だって、わたしは組織もないし、常にピンで動いていますからね。でも、「どうしてもやって」と言われたので、しかたなく引き受けました。そしていろんな人に手伝ってもらいました。みなさん、しかたなくうれしそうに手伝ってくださいました。そんな人々がいないとなんにもできないということがわかった1日でした。もちろん結果はわけわからんことになってました。
で、今回のゲンコは、それを振り返れと。それ、約束にないし。だって、たいていの人は1回分書けばいいけど、わたし3回分だし。でも、あの3回を「なかったこと」にするわけにはいきません。たぶんそれだけのことはやってきましたし、そこでなされた議論はリソースとして残さなきゃなりません。
なので、書かなきゃならんなと。A4判2枚を2本か。やっつけてあげましょう。
それが終わったら、あと3本ね(笑)。そのころには「おべんきょ成果」のリライトも返ってくるでしょう(;_;)。

報道すべきことはなんだ?

今朝はいろいろ考えることがありました。
まずは『新潮45』という雑誌が休刊になりました。発端は、ある国会議員が「LGBTは生産性がない。そんな人に多額の税金を投入するのはおかしい」という文章を書いたことです。
ここでいう「生産性」は「子どもをつくること」です。わたしの知っているレズビアンカップルで子どもをつくった人はいるし、LGBTが子どもをつくれないというのは間違ってるし、そもそも生産性で人を判断することそのものが間違っています。ちょうど、解放新聞から「コラムを書いて」って言われて、解放新聞京都版のバックナンバー見ても書いてなかったから、「この件について書かなきゃな」って思って、書きました。こないだの解放新聞京都版に掲載されました。

まぁそれはいいとして、さきの国会議員の文章に対してたくさんの人が抗議をしました。それに対して、なんと『新潮45』は「あの国会議員の文章はおかしいのか?」という特集をしました。これに対して、さらに多くの人が抗議をしました。
そしたら、突然の休刊です。実はその前に「謝罪文」を出したのですが、「なにについてか」ということが一切出されていませんでした。そして今回の休刊も同じです。そして国会議員の人は、口をつぐんだままです。
この間、こんなんばっかりです。
先の国会では文書の改ざんがされました。が、誰もその責任をとっていません。さらに、情報公開に応じた公文書は黒塗りだらけです。そう言えば、かつてハードディスクをドリルで壊した国会議員もいました。携帯電話を調べられそうになったら「水没した」と言った人もいました。
こうやって、すべてにおいて責任をとらずに、なかったことにする、そういう社会にほんとに嫌気が差しています。
一方、とある高校の男性と思われる名前の教員が、男子高校生に痴漢をしたという容疑で逮捕されたというニュースが全国に配信されました。本人は否認してるので、これはあくまでも容疑です。でも、容疑なのに実名入りで全国に報道されました。これ、もしも教員じゃなかったら?もしも男子高校生相手じゃなかったら?
痴漢はダメです。犯罪です。決して許される行為じゃない。でも、日本全国で男性の女性に対する痴漢行為は山のようにあって、きっと逮捕されている事例も山のようにある。でも、全国に報道はされない。報道されるとしたら、たぶん女性が男性に対して痴漢行為をはたらいたとか、男性が男性に痴漢行為をはたらいたとか、そんな時です。
かつてわたしの友だちがあることで逮捕されたことがあります。決して許される行為じゃなかったけど、でも、被害者とは示談をすませて、ことは終わった。検挙もされなかった。懲戒免職にもならなかった。でも、全国に報道されたことで、結果的に仕事をやめる状況に追い込まれてしまいました。
かたやなかったことにする。そしてかたや大々的に報道することで社会的制裁をくわえる。
ほんとにこんなこの国がイヤでたまらない。
だから、とにかくこの社会を批判的に見る目を養ってください。そのための早道は、テレビや新聞やネットを総合的に見ることと、もうひとつは海外のメディアがどんな報道をしているかを知ることです。そのためには英語力が必要になります。だから、英語をしっかりと勉強してください。

じゃ、授業をはじめます。今日は三角関数の相互関係の続きからやったね。

こだわり

わたしのような文系の数学教員でもこだわりってのはあります。それがどんなところに出てくるかというと、三角関数(笑)。
たぶん三角関数って、単位円派とそうでない派にわかれます。ちなみにわたしは単位円派です。だって、角度ごとに半径を変えるの、なんでやねんというと、その角度における三角関数の値がわかってるからやし、そうなると、三角関数の値を求めるために円を書くことの意味がなくなります。そういう出来レースというか「やらせ」がきらいなんです。なので、わたしは単位円派です。
さらに、三角関数に限らずだけど、代数的解法と幾何学的解法だと、幾何学的解法が好きです。まぁでもこのあたりは数学教員共通かも。もちろん、高校レベルの話なんで、紀元前の話ではありますがね(笑)。いや、前にIずみちゃんが言ってたけど、高校の数学って、紀元前レベルですから(笑)。
つまりなんだって言うと、文字式をゴリゴリやるより図形的に考えるのが好きってことです。
でも、これ、基本的には数学がある程度できる人しかできない傾向にあります。なにせ、「やりたいこと」を図に落としこむ必要性がありますから。でも、図形的に考えると、まるで「アルプス交響曲」のように、目の前がパッとひらけた感じがするし、なにより、自分がやろうとしていることが具体化されるので意味がとりやすくなります。さらに最大のメリットは「公式を覚えなくていい」「計算が最小限になる」です。なので、数学が苦手な子にこそ図形的解法を身につけさせたいんですよね。
そんななかで、今朝、起き抜けのボーとした頭で今日の授業について考えていたのですが、画期的な教え方(解き方)を思いつきました。ここ、いままでは数学苦手な子には「解けなくていいよ」って捨てさせてたところです。いや、「解けなくていいよ」は、完全に教員の負けですからね。でも、そこをやらせると公式は間違えるわ計算はミスるわで、やるとろくなことがないんです。もちろんそれを回避する図形的解法がないわけじゃないんですけど、これが汚いんですよね。エレガントじゃない。
今回思いついたのは、エレガントさを保ちつつも簡単な図形的解法です。よし、やってみよう。
ということで、あるクラスで実践。実戦するなかで、さらに画期的な解法がみつかって、自分なりに感じてた「謎」への答も見つかりました。
が、んー、手応えがうすい。そうか、こいつら、それの前の段階だったか(;_;)。
それでも、「教科書式といつき式、どっちが簡単?」って聞いたら「いつき式」って答えてくれた数学苦手な子がいたから、よしとしましょうか。