どっちもどっちじゃない

はじめに結論を書くと「玉城デニーさんが当選してよかった」と思ってます。
「ウチナーでもなく、沖縄に縁もゆかりもなく、運動もしてないお前に何がわかるねん。何を言うとるねん」という批判は、当然引き受けます。でもそれは、アメリカに縁もゆかりもなにもないわたしがアメリカ大統領選挙の結果に関心を持ったり、その結果に喜んだり悲しんだりするのと同じ程度のことです。まぁ、アメリカとは違い、沖縄の現状にヤマトンチュのお前には責任があると言われたらそのとおりで、そうなると玉城デニーさんが当選したのを喜ぶこともまたかまわんやろとも思うわけです。
で、なにがよかったか。
それは、アメラジアンであり母子家庭の知事が誕生したということです。かたや佐喜真さんは羽衣伝説の末裔です。出自的にどちらを選択するかというと、わたしは玉城さんです。なぜなら、そういった立場の人のことをきっとわかるだろうなと思うからです。
もちろん、「ある出自を持つ人しかその問題はわからない」とは思っていません。そんなことだったら、わたしがやってることはすべて不可能になります。てか、「そういう出自を持つ人」にお願いして、わたしは退散します。
ではなくて、政策見た時に「そうだよなぁ」と思ったんですよね。なにより「中高生のバス代無料化」は「だよねー」と思いました。
例えばこれ、京都府知事には思いつかない発想です。なぜならバス代の高さを知らないからです。てか、京都市内のかなりの人は均一区間なので、わからない。でも、ひとたび均一区間を出ると、バス代ってすごく高い。わたしも京都府南部にいなかったらわからなかったと思います。
これだけでどれくらいの効果があるか。
例えば、バス代のために子どもがバイトしなくてすむ。例えば、バス代のために親がその分過重な仕事の仕方をしなくてすむ。例えば、バス代を節約するために親が車を動かさなくてすむようになる。例えば、子どもたちがバスに乗ることで、バス内でコミュニケーションをとることができるようになる。例えば、バスに乗る人が増えて、もしかしたらバス運転手の雇用が増えるかもしれない。
いろんな効果がある可能性があるんですよね。
それからもうひとつはアイデンティティです。
例えば、佐喜真さんが勝ったとして、その時カチャーシーを踊っただろうか。たぶん踊らなかったんじゃないかな。誰かが「ウチナーグチを使わないことに気づいた」って書いてたけど、そこです。佐喜真さんの本心はどうかわかりませんが、少なくとも玉城さんはアイデンティティとしての沖縄をとても大切にしている。そういう人が知事になることがとても大切だと思っています。
かつて、1995年の県民大会で「人沖縄は誰のものでもなく、沖縄の人のもの」というアピールがありました。その言葉が突き刺さってきます。少なくとも、玉城さんはそう考えている。それが翁長さんの遺志を継ぐことなのかなと思います。
で、辟易ということ。特に若者の辟易ということ。そして、10代20代では佐喜真さんが勝っていたということ。いろんな人がいろんな分析をしてるので、それはそこに譲るとして。
「辟易」を持ち込んだのは誰なのか。もちろんヤマトンチュである「わたしたち」です。が、ヤマトンチュは一枚岩なのか。それは違います。どのヤマトンチュが持ち込んだのかは正確に考える必要があると思います。そこに「どっちもどっち」を持ち込むのは違うと思います。
わたしは沖縄を利用したくない。だから、利用されることを拒否し、沖縄は沖縄の人のものということを明確に打ち出してくれた玉城さんが当選したことを喜ぶのです。なぜなら、わたしが利用することを強制されなくなるからです。

そんなことを考えていたら、ノーベル賞受賞のニュースが来ました。
「基礎研究が大切」と、この間、受賞者が口を揃えて言ってます。でも、そのことを聞かない。そして「受賞」という事実のみを利用する人たちがいます。「基礎研究が大切」という発言を利用するのと、「受賞という事実」を利用するのと、それらはどっちもどっちなのかな?
たぶん違う。

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