なんで今頃

数年前なら、今日から冬休みだったはずです。なのに、最近では今日は授業の最終日。期末テストが終わってからのこの時期、うちのような学校では一部のクラスを除いて授業が成立するはずがありません*1。なんでこんなことになっているのか…。
もう、「授業時数確保」というやつです。その根底にあるのが「学校5日制」による「樹御字数減」とそのころ同時に騒がれはじめた「学力低下」です。
でも、「学校5日制・授業時数減」が「学力低下」を生んだかどうかについては、はなはだ眉唾だったりします。てか、その相関関係はきちんと分析がされていないはずです。それよりも、そのころに「学力観」「教育観」そして、なにより「社会の構造」が大きく変化をしました。「学校5日制」はそのうちのひとつでしかなかった。問題は、その大きな変化だったはずなんです。
授業の現場=教室にいると、そのことが身にしみてきます。まぁ、一言で言うと、「高校では手遅れ」って感じですか。何をやってもムダという気すらしてしまいます。
でも、授業の現場にいない人たちは、「大きな変化」は自分の力ではどうしようもないことなので、とりあえずできること=「授業時数確保」に走ってしまった。そのために、休みをへつったり、行事をへつったり、帳尻あわせのような「年間授業時数」ができあがってきました。
さらに問題なのは、一定以上の学力を持っている生徒の通う学校よりも、底辺校といわれる学校の方が、より学力の地盤沈下が激しいということです。そこでは、「本当に」誰も望んでいない「授業時数確保」が声高に叫ばれてしまう*2
もちろん、教員の側にも問題はあります。テストと成績提出の間が短くなると文句を言い*3、その間が長くなると文句を言い*4、その間をウロウロしてきたのはたしかです。しかし、根本的なところに届く論議を、少なくても学校内ではやれなかった。
てなことで、今日なんかにもダラダラと授業をしなくちゃならないハメになってしまっているという…。まぁ、グチを正当化しているだけか…(笑)。

*1:なぜかわたしが担当しているクラスの授業が成立していた。これは、ひとえに生徒がえらい!

*2:いわゆる進学校では、生徒や保護者の側から必要にせまられた形で「授業時数確保」が行われます。そこでは、0時間目や7時間目、8時間目なんかもあります。転勤したくねぁ〜

*3:採点・成績処理が過密スケジュールになる

*4:テスト前の本当に必要な授業が減って、テスト後のいらない授業が増える

コミュニティのこと・補足

「女性のコミュニティ」という話。
う〜ん、「闘う」という場面でのコミュニティって、自分の意識では希薄でした。どちらかというと、社会制度的につくられるものと、無意識につくられるコミュニティのほうが大きかった。
もちろん、個々の人をとりあげれば、「コミュニティに依存しない」「コミュニティをつくらない」「コミュニティを越えて生きている」という人はたくさんおられます。でも、おしなべて考えると、やはり「コミュニティがある」ということを意識せざるを得ないんです。これは、女性だけじゃなくて、男性にもある。もちろん、他のわけ方をすれば「◯◯のコミュニティ」というのがあるわけです。たんにそれだけのこと。ただ、わたしは「女性であることの実感」みたいなことを尋ねられたので、性別によるわけ方をとりあげただけのことです。
で、「女性のコミュニティ」ってどういうところにできるのか。まずはじめに思いつくのは、社会的・意図的につくられるもの。たとえば、トイレやお風呂や宿泊の部屋。もちろん、そうではないところも多々あるし、個人的に「どうでもいい」という人がいることは承知しているけど、やっぱり存在しています。で、そこにはそこの作法があるようです。これは、そこに入ったことのない人にはわからないことなんじゃないかなぁ。となると、そこに「わかる人とわからない人」という線引きができてくる。ここで、意図せずにコミュニティがつくられてしまいます。
あと、やはり「性別による線引き」っていうのは、おそらく世間の中で唯一「あってよいとされる線引き」なんじゃないでしょうか。それ以外のことについては、大義名分としてはたいてい「あってはならない線引き」というふうに言われる。なので、そのあたりに無批判な人は、やはりその線引きの両側にコミュニティをつくってしまう*1
で、「線引きをなくす」と言うより、「線引きの向こうに越境したい」と考えていたわたしにとって、「こちら」にいることは、あんまり居心地がよくなかったんですよね。で、それが「むこう」に行った時に拒否られるかなぁと思っていたら、あんがい大丈夫だった。で、行ってみると*2けっこうフィットする。で、「居心地がいいなぁ」というふうに感じた。こんなところじゃないかなぁと思っています。
でも、きっと「ほんとうの女性のコミュニティ」というのは、別のところにあるんでしょうね。それは、たぶんわたしなんかのまったくわからないところであり、まったく入ることのできないところに。でもね、まぁ、いいんです。だって、とりあえず、居心地のいい「場所」に、いまいるし…。

*1:ここらあたりで疲れてきた(笑)

*2:実はその奥にさらにあるかもしれないけど

なぜ語るのか

話を聞いたあと、Hさんから「なぜ語らなければならないんですか?」という質問を受けました。「んじゃ、昼ご飯を食べに行きましょうか」と誘って少し話をしました。
いや、隠してもいいんです。でも、「なぜ語るのか」という問うならば、同時に「なぜ隠すのか」「なぜ隠さなきゃならないのか」という問いも成立するはずです。でも、こちらの問いについては、なぜかあまり真剣に論議がなされていないというか、自明のこととして放っておかれてきたんじゃないかと思ったりします。
実は「隠す」ことと「語る」ことはコインの裏表(まぁそのまんまですが)かなぁという気がします。いずれにしろ、大切なこと。「隠す必要のないこと」って、たぶんそんなに大切なことじゃないです。大切なことだからこそ、「隠さなきゃならない」。でも、そここそを理解してほしいからこそ「語りたい」。そして、その間で葛藤するんだと思うのです。
あぁ、そう考えると「語ることのできる社会」ができたら「葛藤」もまたなくなるのか。でも、葛藤が「今ある自分からの脱皮」をつくりだすんじゃないかなぁ。とすると…。
う〜ん、続く…。

全同教2日目・特別報告

今回の全同教のわたし的な最大の目玉は全体会での特別報告です。実は、Hさんも教員ではないのですが、特別報告を聞きに来られていたんです。
宮崎県同教は、いまから4年前、わたしにはじめて「語る」機会を与えてくれた組織です。報告者は、その宮崎県同教の前会長。この方は、その集まりのあいさつの時、「いつきさんが自分を語るなら、自分もきちんと自分のことを語らなくてはいかん」と、ご自分の出身について語られた方です。それまで、オフィシャルな場ではそういう話は滅多とされず、ご自分の実践を背景にした話をされていたそうです。そういう意味でははじめてだったそうな。
とにかく、今回この方の話を聞きたいと思っていました。
この方、41歳の時にたまたま参加したムラの忘年会への道を歩きながら、自分の記憶の中にこの「道」があることに気づかれます。そして、ムラのおばちゃんにそのことを告げ、自分の出身のムラの子とを話した時「あんたもわたしらと同じや」と告げられます。そこから、自分の過去の中にあったさまざまな経験の中にある、部落出身の「徴」を掘り起こしていかれます。と同時に、まわりの人間が自分に告げなかった「41年間の無言」という重みを感じられます。しかし、ご自分が自分のことを掘り起こされた時、決してまわりの人々は「隠し」はしませんでした。こうして、まさに41年目にしてご自分を取りもどしていかれます。
やがて、話は識字のおばあちゃん・おじいちゃんへと移っていきます。そして、宮崎の高校生たちの話。1996年に宮崎で行われた全奨*1の中で起こった一人の高校生の変容。わたしは、この全奨に自分のクラスの生徒をつれて参加していました。そして、やっぱりその子もこの全奨で元気をもらって、2学期に自分のことをクラスで語ったことを思い出しました。
そして、ご自分の子どもに伝えきれていなかったこと。でも、子どもたち自身が、大きくなるにつれて、自ら変わっていった姿。そして、お孫さんの名前のこと。語られる言葉の端々に「世代をつなぎ、思いをつなぐ」という思いがあふれていました。
思わず泣いちゃいました。

*1:全国高校奨学生集会

仕事のペース

で、今日、うちの主任と話をしたら…。「きのう、いろいろ考えたら寝られへんかった」とのこと。そうなんだぁ〜。性格の違いですね。うちの主任さんは、基本的には用意周到な人なんです。そこから学ぶこと、たくさんあります。でも、どうもわたしのスタンスは違うみたい。わたしは基本的には「時が来たらやる」とか「天から降ってきたらやる」という感じなんですね。なので、それまではひたすら「時」とか「天」を待っている感じなんです。
これ、案外工学部出身というのと関係あるかなぁ。卒論の実験とか、機械の順番が回ってくるまでやろうにもやれないです。わたしなんざ、テーマがテーマ*1だったんで、実験室に他の人がいる時は実験を許してもらえませんでしたから(笑)。で、いざやりはじめると、休憩を入れながらやるのが苦手。なので、仕事のペースに関して協調性とかはほぼ皆無です。てか、誰かとやろうとは思わない。
まぁ、わたしと一緒に仕事をしたい人も少ないと思うけど(笑)。

*1:「ガラスをひっかいた音はなぜ気色悪いか」みたいな

矛盾としての存在

この間、ふと考えたことがあります。
事故の翌々日、日常勤務のために学校に行こうとした時、パートナーに「あんた、そんなんで行くの。ええかげんにして」と怒られました。でも、仕事なんで、学校に行かなくちゃしかたがないんですね。で、まぁ学校に行ったわけですが…。てか、1日休みは結局なかったな…。
でも、よくよく考えてみると、犬でもネコでも、ケガをしたらじっとして動かずになおしますよね。それが、自然な姿なんですよね。でも、人間社会はそれを許してくれない。どちらかというと、動き続けるのが「普通の」ありかたです。動きがとまるとたいへん、みたいな。
てことは、社会と自然って矛盾しているんだなぁと。で、そういう社会をつくりだしてしまった人間ですが、やはり自然の影響から抜け出すことなんて不可能です。だから、「自然」と「社会」の矛盾した間を、それでもバランスをとりながら生きていくしかないのかなぁ。
結局は、バランス感覚なんですかね。大切なのは…。

実働部隊がほしい…

10月29日へ向けての買い出し、11月3日へ向けての買い出し。さらには、それらの段取り。引っ越した関係で今まで通りには行かないことも多々あります。あぁめんどくさい…。いつまでこんなことやってんだろうなぁ…。

水平社の変遷

今日は午前中は、京都府南部のムラのフィールドワークと説明。午後は、水平社博物館の館長さんの水平社に関する講演を聞いてきました。
いや、おもしろかったです。
いままで、「水平社は反権力・反天皇制で一貫していた」「被差別民による一枚岩の闘う組織」みたいな幻想があったわけですが、全然違うということがよくわかります。組織内部には、運動のあり方をめぐるさまざまな紆余曲折や、ヘゲモニーをめぐる闘争なんかがあって、けっこう泥臭い人間模様があったんだなぁと思うわけです。
でも、考えてみると「ピュアな存在」からは学ぶべきものはあまりないし、そもそもそういう運動って、信じられないですよね。どちらかというと「雑多な存在」であるからこそ、葛藤があり、苦悩があり、なにかが生まれてくる余地があるんじゃないかと思うのです。前にもどこかに書いたと思うけど、「51%の正しさと49%の間違い」という言葉があって、これ、すごく大切なんだろうなぁと思います。「絶対的に自分が正しい」と信じた瞬間に転落の道がはじまります。ではなくて、「間違いを抱えている」自分を確認しながら、それでも「とりあえずすすんでいく」というスタンスこそが大切なんじゃないかなぁと思いました。
そういえば、「人間は上に向かって堕落する」という言葉を聞いたことがあります。これを言った人は、まさに上に向かって堕落したらしいけど(笑)。

よ〜くわかった…

ところで、5年だったか6年だったか昔、わたしがトランスであることを理由に、スキーキャンプのインストラクターをクビにした某キリスト教系青少年育成団体。ところが、ここ、その後も「専門委員」はわたしに毎年委嘱をしていました。でもまぁ、クビになった理由が理由ですから、当然モチベーションは下がります。「どのツラさげて…」というのが正直な気持ちです。ちなみに、わたしをクビにした時に、「でも、勉強をしておいて下さい」というふうには話したのですが、どうも勉強した節はなし。てか、その後、トランスがらみのことには一切触れないまま、表面上のつきあいをし続ける人たちに、正直愛想が尽きていました。
こんな状態なので、委員会に出席する時なんかの態度も、当然悪くなります。そのあたりが、これまた表面上の理由でしょうが、今日送られてきたパンフレットを見ると、専門委員をはずされているのがわかりました。で、また「なんやねん、ここは」と思ったわけです。ひとこと「専門委員を今年は委嘱しません」と言えばいいのに、その連絡がありません。あたしゃ「今年の専門委員会はいつあるのかなぁ」「リーダートレーニングの講習はいつあるのかなぁ」と、態度が悪いながらも気にしていたし、日程も配慮していたわけで、そういうこっちの事情には一切無関心のようです。
ま、いいですよ。大学時代から、足かけ25年のつきあいも、今年限りですね。今年度いっぱいで維持会員もやめます。同じお金を出すのなら、某キリスト教系女性育成団体に出した方が、はるかに有意義だとも思うしね。

よ〜くわかったよ!

夕方、保険屋から電話がありました。なんでも、示談をはじめたいので、わたしの希望する過失割合を知りたいとのこと。まぁそれはいいですわ。で、その後、先日の不愉快な話をしはじめたところ、なんか話がかみあわないです。そのかみあわなさが、だんだんと不愉快になってきました。保険屋がいうには

  • 「対人」と「対物」は別で、自分たちが関係あるのは「対物」のみ
  • その「対物」も、向こうのものを直すためのもの
  • こちらのものを直すためのお金を出すかどうかは向こう次第
  • ただし、請求できるのは被害者か被害者が委託した弁護士だけ
  • 「対人」については、基本的には関係ない
  • したがって、自賠責の立て替え云々をネタにして賠償請求をおこなうことはできない

まぁ、これらは冷静になればいちいち「まぁそんなもんか」という話です。つまり、簡単に言うと、こういうことです。
保険屋は、自分が払う金にしか関与しない。
まさに、保険以上でも以下でもないということです。
当事者にとっての過失割合は「自分の修理費をどれだけ保障してもらうか」だけど、保険屋にとっての過失割合は「相手の修理費をどれだけ出せるか」なんですね。で、それがたまたま裏表の関係で一致するからたまたま自分の味方のような気がするだけのことなんですね。
まぁ、このあたりのことが電話の最中に理解できて、とたんに冷静かつ事務的な気分になれたのでよかったのですが(笑)。
で、保険屋曰く「事故というのは、野良犬に手をかまれたみたいなもんと思わないと」なるほどなぁ。そういう思いからスタートしないと腹が立つだけで、話にならんということですね。まぁ、よ〜くわかりました。