料理の腕

とりあえず、今日の午前中にペーパーを出さなきゃならないので、ひたすらキーボードをパチパチ。なんとか10時過ぎに出し終えてひと息。さて、雑務だ…。
午後から出張なので、そろそろ出ようかも思ったら、メールが一通。
「素材はもらったけど、料理するのはいつきさんでしょう」
い、いや、その通りです。実は、素材をとりあえずお皿の上に並べただけなんです。ちゃんと包丁入れてないし、盛りつけもしてません(;_;)。
バレバレです。てか、わかるわな…。
てことで、料理をやり直しです。
しかし、わたし、そっちの料理のしかた、あまり知らないんですよね。それを教えてほしかったんだけど…。
でも、たぶん
「自分なりに料理してみて」
ってことなんでしょうね。
よし、やろう!

てことで、こもりん

今日はいい天気です。
こんな日は、焼肉…。もとい、ふとんを干して、家にこもります。
とりあえず朝ごはんを食べて、10時過ぎにパソコンに点火。そこから、考え考えひたすら文章を打ちます。
昼ごはんはなんとなく「もんじゃもどき」。いや、昨日の夜、たまたまスルメを見つけたもので…^^;;。キャベツのみじん切りをつくりながら気持ちをリフレッシュ。
で、食べ終わったら、またまたパソコンの前へ。途中、上の子どもにおべんとのネタづくりの司令を出してリフレッシュしながら、ひたすらパソコンと向き合います。行き詰まると、ついfacebookとかtwitterを見てしまい、「いかんいかん」と…。
おふろに入って、晩ごはんを食べたら、またまたパソコンの前へ。
そんなふうに、13時間ばっかパソコンの前に座り続けて、とうとう煮詰まりました。
えい!もうやめ!
ふとんの中に潜り込んだら、またまた「ヒント」が浮かんでくる悲しさです。寝られないじゃん(;_;)。

効果のある学校

教育の階層間格差をどう埋めていくかという論議の先に、いま「効果のある学校」とか「力のある学校」ってのが、いろいろ論じられてます。今日のおべんきょのテーマはそのあたりの話でした。まぁ、「流れ」としては当然のこととして…。
これ、絶望的とも言える「コールマン報告」のあと、「ちょっと待ったぁ!」という感じで出てきたエドモンズらによる「エフェクティブ・スクール」からスタートしてます。しかし、エドモンズさんたち、よくぞやったなぁと思いますよね。たぶん、コールマン報告って、えげつないサンプル数なんじゃないかと。で、それを整理しなおして、「少数ながらも低い階層に置かれた子どもたちであっても高い学力を保障している学校がある」って見つけ出すんですから。そのモチベーションはどこから来たのかってのが知りたいです。んー。もしかしたら「アメリカンドリームの証明」いや、「パンドラの箱の中をのぞきこもうとした?」。ま、わかりません。
で、同じことは日本でもいえて、それを大阪で調査研究しているのが「力のある学校」ってやつですね。
これ、ある意味、同和教育の正当性であるとか妥当性であるとかを証明しようとしているとも言えるんじゃないかと思います。それだけに、貴重な論考なんだと思います。
ちなみに、このあたりの話は個人的には10年位前から注目をしていた、というか注目せざるを得なかった話でして。いまもすごく興味を持っているところです。
で、センセがバクっと言われたことを、さらにバクっと言うと「これまで学級経営であるとか授業力であるとかによって学力の向上を考えていたのを、学校経営の観点から考えようとするもの」ってことのようです。ところがこれ、教育社会学のギョーカイではいろいろな論議があるようです。
というのは、同和教育の流れで言うと「おぉー!」というパラダイムの変換なんですが、学校経営学をずっとやっていた人から見ると「プッ、今ごろ」みたいな話だそうです。ま、そりゃ、その道のプロですからね。ただ、これはこれで問題でして、学校経営学でされている論議には、「力のある学校」で論じられている「背景」がない。つまり、「こうすればうまくいく」というだけのことであって、そこにある学校間格差なんかは論じられていない。極論すれば、どこぞの文教区でも生活保護世帯が山のようにある学区でも同じ論じ方になる。とすると、「学校経営学」で論じられているリソースを持たない校区の場合、実現が困難になる。となると、学校間格差が拡大する。
つまり、両方の観点が必要ってことです。でも、その両者の架け橋となるものが、いまのところない。
ま、そんなあたりでしょうか。

で、ま、それはそれなんですが…。
たぶん、同和教育畑の人間は、あの「力のある学校」についての文章を読むと、これまた別の観点で「プッ」となってしまうところがあるんですね。もう少し言うなら、「みかんの汁で書かれているところ」がある。ほんとうはそれをオープンにしないといけない。
それは「「力のある学校」をつくるためには、そうとうなリソースの投入が必要である」ということです。もう少しはっきり言うなら、学校間格差を埋めようとするなら、人とモノと金をつぎ込むことが必要で、それを担保したうえでの学校経営であるということです。で、それ抜きには、単なる精神論と労働強化の問題にとどまってしまう。

おそらくは、「力のある学校」の論議をしている人たちの頭の中にはそれはあるはずです。でも、出してない。それはなぜか。
まぁ、たぶん「大人の事情」なんですかね(笑)。

学力と階層と文化

今日のおべんきょは学力問題のまんまんなかの話です。
鍋島祥郎さんが2001年の大阪調査をもとに書かれた「誰が落ちこぼされるのか」とセンセがかつて行なった学力と生活実態調査のふたつのデータをもとに話が展開されました。
ふたつの調査、規模も手法もまったくちがいます。かたや大規模調査、かたや学校単位の小規模調査です。ちなみに、小規模調査が劣っているわけではありません。すごくきめ細かく調査を行っているのみならず、その調査結果をいかして、今もとりくみが続いています。
にしても、ムラとムラ外の学力格差は顕著にあらわれますね。というか、より顕著なのが「敏感仮説」というやつです。
「敏感仮説」ってなにかというと、例えばこんな感じです。
荒れたクラスがあるとします。しかし、だからといって全員が学力が下がるわけではない。荒れた状況とは無関係に淡々と勉強をし、学力を獲得する生徒もいます。しかし、その「荒れ」の影響をまともにくらって学力が獲得できない生徒もいます。で、「しんどい」状況におかれているほうが影響をまともにくらいやすい。つまり、敏感であるということです。
では、この「しんどさ」っていったいなんなんだろう。それは、文化階層とどの程度関係があるか。あるいは、ムラであること(鍋島さんは「身分」という言葉を使ってましたが、センセは「ムラ文化」って言ってました)とそうでないことはどの程度関係があるか。このあたりの分析が鍋島さんの論文でした。
で、結論的には、当然のことながら文化階層と学力に相関関係があるのですが、文化階層が高い層についてはムラとムラ外はあまり差がない。ところが低くなると顕著に差が出てくる。
まさに「敏感仮説」なわけです。
まぁ、考えてみると、なんかわかる気はします。おそらくはセーフティーネットの網が荒いんです。なので、どこかにほころびができると、それを補完するものが少ないので影響をまともに受けてしまう。
「誰が落ちこぼされるのか」です。
で、これ。ムラが「劣ってる」とかいう話ではないんですね。どちらかというと、「学校文化との親和性」の話です。
こう考えると、学校文化の多様性のなさって、ほんとに問題だなぁと。でも、なぜ多様性がないかというと、多様性があったら「支配層」が困る。だって、近代の学校って、序列化・選別・階層固定のための装置なんでしょうね。
そこに身を置くものとしては、どうすればその「装置」に抗い、無化できるのかなぁ。そんなことを考えるわけです。

牛歩のごとく

「おべんきょ」って、いままでのわたしの脳みその使い方とは別の使い方をするみたいです。
わたしの今までの脳みその使い方は、どちらかというと、外界からの刺激をどんどん受けとめて、それを組み合わせながら新たなものをつくりだしていく、まぁ「目のつけどころがシャープでしょ」的なやりかたをしてました(どーでもいいけどおもしろい…)。
に対して、「おべんきょ」って、正反対に近いところがあります。外界からの刺激に反応しているとブレてしまう。もちろん刺激そのものは必要なんですが、それを過剰に取り込み過ぎると、どうやらダメなようです。のみならず、集中が途切れると、まるで強力粉でつくった餃子の皮のように縮んでしまう。いかに集中を持続するか、あるいは集中を切らなきゃならない時は、いかにそこでフリーズドライするかみたいな脳みその使い方が必要になります。
でも、そうやって深く考えると、突然目の前の雲が晴れて新たな世界が開けるみたいな瞬間があります。

てことで、「日常モード」と「おべんきょモード」の切り替えが、わたしの場合どうしても必要になります。
てことで、昨日あたりから、ようやく少しずつモードが切り替わってきたみたいです。外界からの刺激はてきとうに流して、頭の中を「考え」で満たす。そして、必要に応じてそれを瞬間冷凍して、外界と交渉する。
そうすれば、いろんなことが少しずつでも前へ進んでいきます。「牛歩のごとく」でいい。

お休み処

とにかく、ひたすら考える日々が続いているわけです。なので、脳ミソがクタクタです。さらに「負のオーラ」もやってくる。いろんな感情が呼び覚まされます。心もクタクタです。
そんな時は「人権」についての話を聞いてリフレッシュしようかなと。
てことで「おべんきょ処」へ。
いつものメンバーがそこにはいて、和やかに笑いながら「おべんきょ」がはじまります。
内容は「学力保障」。歴史を知り、歴史を断罪せず、常に今にフィードバックする。歴史を知ることは今を知ることだってことにあらためて気づかされます。
1時間半後には、ちょいとリフレッシュしてました。

新たなステップへ

で、夜はおべんきょです。
今回は事前にペーパーを送ってあったので、サックリと指摘をもらってサックリと終わりました。
何度も同じことを指摘されているのですが、実は少しずつ自分の中で、その指摘の意味がわかりはじめています。なぜなら、文章を書きながら「ここは指摘されるな」って思えるようになってきたからです。んじゃ、指摘されないように書けばいいじゃんって話なんですけど、それができないのが「わかりはじめた段階」ってことです。
でも、とりあえず次のステップへ。
ここからがいよいよ本番、ほんとうに自分の脳みそとの闘いがはじまります。楽しみです。

台風が来てるけど

台風が来てるけど、やらなきゃならないものはやらなきゃならんわけで。土日は仕事関連はなーんにもしなかったから、今日こそやらなきゃどうしようもありません。
でも、昼にビール飲んだら眠くなって寝てしまいました(笑)。
夕方起き出して、とりあえずおフロに入って目を覚まします。と、筋書きが浮かんできました。こんなもんなんでしょうね。おふろから上がったら、とにかくパソコンに向かって書き書きです。
で、あとワンフレーズ残して力尽きました。ラフスケッチだけメモして晩ごはん。
ちょいとテレビを見て、続きを書き書きです。なんとか書き上げて、メールで送信。
さてと。今度は仕事関連の仕事です。って、なにがなんだかわからんな。なんしか、ここで仕事を進めておくと、あとがグッと楽になります。勝負どころってやつです。なので、眠気と闘いながら、なんとかかんとか区切りまでこぎつけました。
ま、ここまでやったからよしとしよう。もうすぐ1時。寝なくちゃね。明日からガチの日常が帰ってきます。

とりあえず書く

とにかくひとつ仕事が決着ついたので、次のタスクに移ります。
考える→探す→読む→考える→書く。
ひたすらこの繰り返しです。でも、これをしないことにはどうしようもない。山のいただきはまだまだ遠方にあります。たまには顔をあげて山のいただきを見たい気がするけど、それをやったら「雑念」が混じります。とにかく一歩一歩前へ進むこと。

今日もテーマ曲はドナドナ

遅々として進まぬまま、とりあえずおべんきょしにおべんきょ場所へ。未完成のペーパーを持っておべんきよ場所に行くのは、苦痛というか怖いというか。
センセ、ペーパーを読みながら
「ふんふん…」
ビビります。
「ここね。これで終わっちゃダメなのよ。ほにゃほにゃほにゃと引用したあと、ちゃんとひとこと自分の言葉を入れなくちゃ」
「これ、あなたのオリジナル?だったら、根拠を示さなくちゃ」
ズバズバと突っ込んでこられます。しかも、ことごとく「未完成」で放っておいたところです。まぁ、できたつもりのところをツッコまれるよりはマシかもしれませんが…。
最後はこちらから攻めの姿勢です。
「ここ、完全に未完成で、とくにここに入る一文をどうしても考えられなかったんです」
開き直りとも言います(笑)。
それでも最後は
「思ったよりも進んでるね」
とのお言葉。マジ、しんどかった。でも、充実してたな。