教育の階層間格差をどう埋めていくかという論議の先に、いま「効果のある学校」とか「力のある学校」ってのが、いろいろ論じられてます。今日のおべんきょのテーマはそのあたりの話でした。まぁ、「流れ」としては当然のこととして…。
これ、絶望的とも言える「コールマン報告」のあと、「ちょっと待ったぁ!」という感じで出てきたエドモンズらによる「エフェクティブ・スクール」からスタートしてます。しかし、エドモンズさんたち、よくぞやったなぁと思いますよね。たぶん、コールマン報告って、えげつないサンプル数なんじゃないかと。で、それを整理しなおして、「少数ながらも低い階層に置かれた子どもたちであっても高い学力を保障している学校がある」って見つけ出すんですから。そのモチベーションはどこから来たのかってのが知りたいです。んー。もしかしたら「アメリカンドリームの証明」いや、「パンドラの箱の中をのぞきこもうとした?」。ま、わかりません。
で、同じことは日本でもいえて、それを大阪で調査研究しているのが「力のある学校」ってやつですね。
これ、ある意味、同和教育の正当性であるとか妥当性であるとかを証明しようとしているとも言えるんじゃないかと思います。それだけに、貴重な論考なんだと思います。
ちなみに、このあたりの話は個人的には10年位前から注目をしていた、というか注目せざるを得なかった話でして。いまもすごく興味を持っているところです。
で、センセがバクっと言われたことを、さらにバクっと言うと「これまで学級経営であるとか授業力であるとかによって学力の向上を考えていたのを、学校経営の観点から考えようとするもの」ってことのようです。ところがこれ、教育社会学のギョーカイではいろいろな論議があるようです。
というのは、同和教育の流れで言うと「おぉー!」というパラダイムの変換なんですが、学校経営学をずっとやっていた人から見ると「プッ、今ごろ」みたいな話だそうです。ま、そりゃ、その道のプロですからね。ただ、これはこれで問題でして、学校経営学でされている論議には、「力のある学校」で論じられている「背景」がない。つまり、「こうすればうまくいく」というだけのことであって、そこにある学校間格差なんかは論じられていない。極論すれば、どこぞの文教区でも生活保護世帯が山のようにある学区でも同じ論じ方になる。とすると、「学校経営学」で論じられているリソースを持たない校区の場合、実現が困難になる。となると、学校間格差が拡大する。
つまり、両方の観点が必要ってことです。でも、その両者の架け橋となるものが、いまのところない。
ま、そんなあたりでしょうか。
で、ま、それはそれなんですが…。
たぶん、同和教育畑の人間は、あの「力のある学校」についての文章を読むと、これまた別の観点で「プッ」となってしまうところがあるんですね。もう少し言うなら、「みかんの汁で書かれているところ」がある。ほんとうはそれをオープンにしないといけない。
それは「「力のある学校」をつくるためには、そうとうなリソースの投入が必要である」ということです。もう少しはっきり言うなら、学校間格差を埋めようとするなら、人とモノと金をつぎ込むことが必要で、それを担保したうえでの学校経営であるということです。で、それ抜きには、単なる精神論と労働強化の問題にとどまってしまう。
おそらくは、「力のある学校」の論議をしている人たちの頭の中にはそれはあるはずです。でも、出してない。それはなぜか。
まぁ、たぶん「大人の事情」なんですかね(笑)。