昨日の夜、鈴木重子さんから「アレキサンダーテクニーク」のレッスンを受けたんですけど、すごく印象的でした。
まずは、頭蓋骨がどこで支えられているかってことを教えてもらったんですけど、「へー!そんなところだったんだ!」という驚きです。で、そこに意識を集中して頭蓋骨の位置を調整すると、いきなり頭蓋骨がフリーに動きはじめます。ほんとに力がいらない。
で、今朝、また少しレッスンを受けたんでけど、おもしろい。背骨がいい位置になると、目線がほんの少し上にあがる。で、歩きはじめると、いきなりカクンと落ちる。で、片足だけいい位置にしてもアンバランス。でも、両足をいい位置にするとみごとにバランスがとれます。
「はじめてなのによくわかりますねー」
って言われたけど、そりゃわかりますよ。それほど劇的な変化があります。
ちなみに、重子さんとふとんの上で寝転びながら、あーだこーだダラダラとしゃべっていたのですが…。
「表現」をめぐる話や「考えること」をめぐる話。すごく一致をする。もちろん、質や深さは違うとは思います。あるいは方法や方向性、これは明らかに違う。でも、違いはそんなに大きな問題とはならないのかな。
重子さんは「考える」ときに「身体」と対話しておられるのかな。うん。おもしろい。そう言えば、わたしも重子さんと話しをするときは、身体のあちこちが考える気がします。これはなかなか感じられない感覚です。
もしかしたら、そんなのもアレキサンダーテクニークと関係があるのかなぁ。
なんしか、かなり刺激的な、それもとても静かで深い刺激のひとときが過ごせました。
で、与党(自公だけではなく、政権時代の民主も)はこの3つをキチンと区別して論じているように聞こえますが。
左派の人の中には、「公助」と「共助(互助)」をゴッチャにして論じる人がおられるので、混乱が生じているように思います。
「公助を削るなんて、互助を台無しにする気かっ!」
みたいな。日本では、民間の共助(互助)システムが壊れているので、「公助」の方を「互助」と意識しているんでしょうか。
「自分は税金を支払う以外はほとんど何もしない、
政府や自治体が何かすべきだ、それが互助だ」
と言う誤解。ホントは(というか政策用語としては)、各人それぞれが何かするのが互助なんだと思うんですけど。
うわ、ミスった! ↑は17日のエントリに対する追加コメントです。
あ…。わたしは大丈夫ですよ(^^)。
たしかに、公助・互助は違いますね。ただ、例えば北欧なんかはどうなんだろ。互助の延長というかシステム化・制度化したところに公助があるんじゃないのかなぁと、漠然と感じていたのですが…。
あと、個人的には「互助」の大切さは制度とは別にあるんだろうなとは思ってします。まぁ「困ったときはお互いさま」みたいな。
そうそう。熊谷晋一郎さんの有名な言葉が頭をよぎります。「自立とは依存できる先を増やすこと」。