少し気づいた気がする

昨日、崇仁のことについて少し調べようと思ったら、おもしろいペーパーにつきあたりました。とても簡単に言うと、藤尾さんについて書かれたペーパーなんだけど、ふとこの時いろいろ意見を言われた方なのかなと思って確認したら、そうでした。
「なるほど…^^;;。まぁでも、あの時に、なぜあれほどまでに話をされたかはわかりました」
「(笑)ご理解頂き良かったです」
などというやりとりをしてみたり。
ただ、けっこう参考になることがあるので、「なるほどなー」と思いながら読んでました。
で、今朝は今朝で『セクシュアル・ストーリーの時代』を読んだんですけど、インタビューの読み方がなんとなくつかめたような気がしました。
まぁ簡単に言うと、わたしに対する語りと、他の人に対する語りは違う可能性があるってことかな。それはわたしが特別とかそういうわけじゃなくて、Aさんに対する語りとBさんに対する語りは違う可能性があるってことです。なぜなら、伝えようとすることが違うからですね。
「その時点」を生きているときは「先」はわからないけど、「語っている時点」は「先」を知った上で「その時点」について語る。だからこそ、そこに語り手の解釈が入るし、「その時点」についての語りは、わたしに対して「なにかを伝える」行為になる。それを分析することを通して、「その時点」を解釈する必要がある。
なんか、そんなことを考えました。まぁもちろん違うかもしれません。桜井さんとか岸さんとか、もう1回読んでみようかな。そのうえで、もう一度トランスクリプトを読むのはおもしろそうですね。
まぁただ、わたしがやろうとしてることは「ライフ・ストーリー研究」ではないってことはあるわけで、そういう意味では、やはり矢吹本が参考になるのかなぁ。
なんしか、新年度がはじまって、脳みそがどんどん動かなくなってきてたけど、少し動いたことがうれしいな。

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