新年のあいさつ

今日は午前も午後も出張です。なので、朝は少しゆっくりめ。電車に乗って第2のふるさとへ。保小中高の合同会議です。
なんというか、保育園ってすごいなとあらためて思いました。職員一人ひとりが部落問題について自分のテーマを決めて調べて、それを互いに発表しあうとかやっておられるんですよ。すごいわ。それを聞いた小学校の教員は「うちの学校、かつては同じようなことを合宿してやってました」とか。
そういうのを聞くと、ほんとに高校ってのはチームワークとしてはダメだなって思います。まぁわたしもそのチームワークを乱す人間ではあるんですけどね。そして、その自由さが大切だってこともわかってるんですけどね。ただ、教職員の人数が多いということと、仕事が分担されることで専門化されてることのメリットも大いにあるしなぁ。そして、大学はもっとダメなんてしょうね(笑)。
午後の会議の前に隣のガッコの食堂へ。てか、食堂のあるガッコはいいなぁ。もちろん、温かいごはんを安くで食べられるってのもメリットなんですけど、それだけじゃなくて、みんなで食卓を囲んで食事ができるので、そういうところでムダ話ができるんですよね。それがいい。もっとも、ひとりでごはんを食べることになる人もいたりするってのもあるわけですが。てか、かつておべんとを持っていくことで、そういう「輪」を壊したわたしが言うことでもないか(笑)。
で、午後の会議。ここで話題になったのが「マイクロアグレッション」をめぐる話です。
どうやらきむうじゃさんの「「日本語おじょうずですね」は差別か」という問いにいまだに捕まっておられる方がいる。それはとてもいいことだと思います。簡単に答えを出したりあきらめたりするんじゃなくて、考え続ける。
ただ、考える時の立場が違う。つまり、言葉を発する側にとって、それは差別と「される」のかということにこだわっておられる。もちろん大切な観点です。が、おそらくマイクロアグレッションはそういうのではない。被差別の側が「なんとも言えない居心地の悪さ」に出会った時に、「マイクロアグレッション」という概念を手に入れることで、その居心地の悪さに名前をつけることが可能となり、説明することが可能となる。
例えば「日本語おじょうずですね」の中に込められているのは、「日本語ネイティブスピーカー=日本人」というステレオタイプなんだけど、そのステレオタイプは同時に「在日」という存在をそこから排除することによって成立している。そこに在日は反応する。で、なぜ反応するかというと、在日という存在がカテゴリー集団として与えられてきたトラウマなんですよね。それがvulnelabilityへとつながり、マイクロアグレッションへとつながっていく。それは言葉を受けとる側のことなんですよね。つまり、マイクロアグレッションがマイクロアグレッションとして存在するのは、あるカテゴリー集団に対して与えられたトラウマとの関係なんだってことを、この間考えたんです。
ま、そんな話をするのですが、言葉を発する側としては「何も言えなくなる」「コミュニケーションがとれなくなる」となってしまうんですよね。
まぁ、継続論議だな(笑)。
で、少し早く会議が終わって、少し早く京都駅に着いたので、久しぶりに角打ちに行こうかなと。考えてみたら、今年になってまだ行ってません。
「あけましておめでとうございます」
と扉を開けたら、みなさん
「おー、来た」「久しぶりやな」
と声をかけてくださいました。うれしいな。たぶんたまに来る常連としてカウントしてもらってるんだろな。てことで、いつものを注文。

せっかくなので、「主」のようなおじさまに身の上話を聞いてみたり。果たしてこの行為はカミングアウトなのかアウティングなのか(笑)。でも、カミングアウトを迫る問いに答えてくださるわけで、やはりそこにはケン・プラマーの『セクシュアルストーリーの時代』的なものがあるのかなと思ったり。
そんなこんなで小一時間で帰ろうとしたら、いつもにぎやかなおじさまがお酒をおごってくださってたらしいです。マジっすか。お代は280円!
てことで、家に帰ってお風呂→ビールだな。
と思って家族でワイワイごはんを食べているうちに、いつの間にやらデッサンの話になりました。わたし以外の家族というか、うちの母親もパートナーの母親も、メッチャデッサンがうまいんです。
「わたしは絵が苦手」
と言ったら、上の子どもが
「そんなことはない」
と言って出してきたのがこれ(笑)。


そういや、昔こんなの書いてたな^^;

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