今日は某人権教育関係の研究会の総会です。午前の総会は、まぁまぁ(^^)。
で、午後は記念講演。講師は金明秀さん。講演のタイトルは「人権教育の三課題」です。
基本的にはこのスライドの内容ですが、それを人権教育向けにリメイクされた感じです。
まず、差別の仕組みとしては、「見下し(序列化)」と「遠ざけ(差異化)」がある。で、差異化への抵抗言説としては「平等性」があり、「序列化」への抵抗言説としては「衡平性」がある。ところが、それ以外に「同化」というのがあって、それへの抵抗言説として「承認性」がある。
で、ある人権課題のとりくみをするときは、常に2方面作戦をとらないと、ひとつの反差別の言説が他の差別を引き起こす。
まぁ、そんな内容でした。非常にわかりやすかったです。
で、いろんな質問が出て、話の内容がさらに深まったのですが、わたしも質問しました。「ミョンスさん、なんでこんなこと考えるんですか?」って。で、ミョンスさんは生い立ちから少し話をしてくれました。つまり、在日の生い立ちの中には「同化志向」と「異化志向」が常に混在していて、そこが不毛な争いをする。それをどうにかできないかってことでした。
なるほどなって思いました。
例えば…。
「新渡日の子どもたちへの日本語指導」に対して、とある在日外国人教育関係のグループ(笑)は「それは同化だ!」という批判をかつて強くしていた。まぁ、いまは「母語保障も大切だよね」「日本語指導も大切だよね」となってきていますが。
あるいは、解放運動をめぐる話も似ているかと。
なんしか、ある現象に対して、一方向の抵抗言説だけで進めると、他の方向への差別につながってしまう。
で、両方やれって話ではなくて「意識する」ことの大切さなんですね。いま、自分はどの言説の脈絡で闘っているのか。それを意識化すること。
そんな話でした。
にしても、やはり「アイデンティティ・ポリティクス」ですね。承認原理。ミョンスさんはやはりここへのこだわりは強いです。それは当たり前だと思うのですが…。
わたしはもともと「パラムの会」の影響を強く受けているので、このアイデンティティ・ポリティクスについては「うんうん」と思うのですが、なかなかそうはいかないのかなぁ。
ああ、聞けなくて残念。障害の分野でよく思うことは、インクルーシブ教育が権利として大事なのはもちろんだけど、某教育運動等における「普通校・普通学校でずっと行くのが一番良い、周りの健常児も育つ」という言説に傷ついている当事者や親がけっこういること。社会を異化すると言ってるはずの運動が当事者に「同化」を迫り、そのようにできない人を軽視(or残念な例としてしか語らない)しているように思えること。ただ。こういうことを言うと実際にまずくなりかねない人間関係を私も持っていて、バレバレなのに「今回は匿名で」としてしまうのでした。みょんすさんが「自分はどの言説の脈絡で闘っているのか意識する」と言われた意味、よぅわかりますわ。