昨日、とあるイベントの役割分担をめぐって、ひと悶着しました。で、そのことを通していろいろ考えましたが…。まぁ、項目別にしましょうか。
- 形式的平等主義?
ひとつ、ものすごく違和感を感じたのは
「みんな役割を持っているからあなたも」
だったんです。で、その役割が必要かどうか、わたしにはわからない。というより、そのことについて話し合っていないし、わたしは不要だと思ってる。
にもかかわらず、その役割をわたしにあてようとしたのは、さきほどの言葉の通りじゃないかと。つまり
「みんな」→「あなたも」
でも、それって本当に必要なのか?みんながやっているんだから、不要(とわたしには思える)役割をつくって平等な気になることって必要なのか?
実はこれ、学級経営なんかで、わたし自身やってきたことかもしれません。
ただ、最近あまりとらわれなくなってきました。そこの不公平感は、結局不信感の裏返しのような気がしてならないからです。つまり「役を与えないとやらない」ってことです。そして、このような不信感からスタートしたグループは、その構成メンバーから自発性を奪ってしまうと思うからです。
「だれかこれやって」
「はーい」
これでいいとわたしは思います。いつも「はーい」の人は、どうしてもできないときは、他の人にふればいい。
「わたし、ちょっとできひんし、だれか他の人、頼むわ」
信頼感で構成されたグループであれば、いつも特定の人が引き受けていることはわかります。だから
「いつもあんたやってくれてるから、今回はわたしがやるわ」
となるはずです。
信頼感で構成されたグループでは、自分がやっていることを主張せずとも、みんなが動く。逆に言うなら、そういうグループに育っていくことが大切だと思うのです。
- 隙間は誰が埋めるのか
ひとつのイベントをするとき、現場では役割と役割の間に隙間ができることがよくあります。
この隙間を埋めるひとつの方法は、より完璧な役割分担をすることです。でも、それは無理だと、わたしは思います。
もうひとつの方法は、役割分担をゆるめて、相互に乗り入れられるようにすることです。でも、これもまた大規模になると混乱のもとになることが往々にしてあります。
もうひとつの方法は、役割のない役割をつくることです。そうすることで、その役割を担う人は、自由に隙間を埋める仕事ができるようになる。でも、そんな役割をつくるためには「仕事をしてくれる」という信頼感がなければ不可能です。
- いつきのトリセツ
で、わたしの感じた違和感は、なぜあえてわたしに役割をつけようとしたのかということです。おそらくはそこに「不信感」があると感じてしまった。つまり、「いつきは役割をつけないと仕事をしない」って言われてると感じてしまったっことです。これ、20年くらい前にさんざん言われて、たぶん過敏になってるんですね。で、つい「もうクリアした話のはずだったのに、まだそうか」と思ってしまったんですね。
わたしは、うちの職場でほとんど唯一名指しで仕事があたる人なんです。たいていは、仕事の役割分担はセクションごとに割り振られますが、「放送」だけは名指しなんです。逆にいうと、どのセクションにいても、そのセクションの仕事はわたしにはきません。
ちなみに、放送の仕事はわたしにしか割り振られません。なので、仕事上のペアはいない。常にひとりです。
こういう割り振りをしてくれることで、わたしはとても柔軟な仕事のしかたができます。他の人がいろんな役割をしてくれている裏側で、断線したコードの修理をしたり、とんだヒューズを買いにいったり、その他さまざまなトラブルに対応してきました。
ついでにいうと、一見まったく無関係な仕事(イベント)であっても、わたしは「自分がその場に必要だ」と感じたら、役割がなくても勝手にいってやってます。そして、たいていそれは結果として必要であったことがよくあります。
たぶん、わたしはジョーカーです。ババ抜きにおいては、誰ともペアを組めずに最後まで残るやっかいものです(笑)。でも、そのジョーカーがいないとゲームは成立しません。「大富豪」においては、ジョーカーはなににでもなりえます。でも、使ったらそれまで。そして、最後の一歩手前までに使わなきゃ負けちゃいます。とてもめんどくさいヤツです(笑)。
でも、うちの職場はそんなわたしに対して信頼感をもって接し続けてくれています。とても幸せなことだと思います。だから、その信頼感に応えようとも思うのです。そこには形式的な平等主義はありません。
でもなぁ…。
これって、かなりな甘えだよなぁとか、完璧にわがままだよなぁとか、いろんなことを思う瞬間もよくあるんですよね…。
自分でも自分の取り扱い方法がよくわからん…。