いかに伝えるか

夕方から近くの鉄板焼き屋で呑み。
「まちづくり」の講師さん、実は共通の知人がいっぱいいる人で、しかも、なんといっても「運動バリバリ」という感じがしません。なので、つい暴投気味の話をします。すると、その暴投ぶりを楽しんで下さる。これはいい!ってことで、話はドンドン深みにはまっていきます。
ところどころで、一緒に呑んでいる人*1
「わたしら、今日、初対面やで」
とふたりして言うのですが、どうにも信じてくれないくらい、旧知の仲のような気がします。おもしろいものです。
そんな中で「いかに伝えるか」という話をちょこっとしたのですが…。
なんか、いままで出会ってきた保護者にしてもそうなんですが、みなさん「伝える」時は、結論まで言わなくちゃならないし、質問には答えなくちゃならないというふうに思っておられるんじゃないかという気がしているんです。でも、それって不可能だと思うのです。だって、「部落とは何か」という質問への答は、いまだ誰も出し切っていないからです。なので、そんなもの、放棄したらいいと思うんです。
「お前はな、部落出身やねん」
「部落ってなに?」
「まぁいろいろあるけど、知りたかったら自分で調べろ」
これではあかんのでしょうかねぇ。
自分のルーツは、自分で探すからこそ意味があると思うのですが…。

まぁ、こんな話ばかりじゃなくて、「天一は千本店がうまい」みたいなしょーもないけど大切な話もあったわけで。
さぁ、今日は終電にはならないように帰ろう(笑)。

*1:研究会の事務局長

話し込むことがやっぱり大切なんだ

今日は、人権教育関係の現地研修会。京都市内の某ムラに行きました*1
まずは、ツラッティ千本を、職員の方に案内してもらいながら見学*2。古地図がすんごくおもしろい!今の場所と比較しながら見るのもおもしろいし、描き方から当時の「中」と「外」の意識がわかるのもおもしろい。あと、屏風絵ですね。中沢新一の『僕の叔父さん 網野善彦』だったかに書いてあった気がするけど、網野善彦は屏風絵を見る時は、端っこをたんねんに見ていったとか。たしかにそうやって見ると、周辺部分にさまざまな被差別民が描かれていて、ほんとうに興味が尽きません。
その後、雨の中をフィールドワーク。今回は「まちづくり」というテーマなので、そのあたりに留意しながら歩きます。すると、今まで気がつかなかった、小さな小さなことに気がつきます。
午後からは、まちづくりについての講演と、教育をめぐる課題についての講演。
まちづくりとひとくちで言っても、膨大な時間と労力がかかるんですね。でも、自分(達)が納得できるものをつくりだすためには、その時間と労力を惜しんだらダメ。ましてや、一軒の家を建てるわけじゃなくて、そのことを通して「まち」をつくろうとするわけで、そこにはそれを仕組む側のさまざまな「しかけ」があります。そんな苦労話を聞かせてもらいました。
後者については、部落出身であることを「いつ伝えるか」「いかに伝えるか」「誰が伝えるか」ということが論議になりました。すごいと思ったのは、そういう保護者の悩みをビデオで見せて下さったこと。まず、そういう話ができるところまで話し込み、それを撮影させてもらうところまで話し込み、それを講演で使わせてもらうところまで話し込まないと、きっと実現しません。そんな話込みを通して出てきた映像であるからこそ、ほんとうに考えさせられるんですね。
まちづくりにしても、人づくりにしても、まずは話し込むこと。そんなことを感じさせられた研修会でした。

*1:ちなみに、ここのお好みはかなり「残念」な味です^^;;

*2:って、場所を言っちゃったよ