玖伊屋の朝” に9件のコメントがあります

  1. その話、どこででたのかな?と思ってました。
    玖伊屋だったのか・・・。

  2. 「人権」ってゆーコトバを自分で使ったら、それだけで相手を黙らしてしまうので、折角の対話の糸口をぶった斬ってしまう。
    そんな武器は捨てて、ビールでも持って対話した方がよほど楽しいと思うのだが。武器は使わぬが花でござる。

  3.  「それ」を武器にするまでの闘いはとても重要だったけど、武器になったとたん「振りかざす・対話の糸口を斬る」ものに簡単になってしまう…。前例ありすぎですね。「それ」と縁の切れない私は、なんぼ慎重になってもなりすぎることはない…とか思ふ。

  4.  まるで核兵器ですね→「人権」ってコトバ。威力が大き過ぎて、実際には、使うに使えない。
    (^◇^;)
    他人のために、あるいは抑止力には、なるんでしょうけど。そゆトコも核兵器みたい?

  5. > 順子姐さん
    玖伊屋というか、某秘密結社系MLというか…。
    でも、玖伊屋でも話題にはしていました。

    > Y子さん、こちゅかる子さん、樹村さん
    そうなんですよね〜
    わたしは「刀」と言っています。
    本当に抜く相手・タイミングはきちんと考えないといけない。ふだんはチラリと刃を見せて、「チン」とさやに収めればそれで十分です。
    でも、いつでも使えるように刃を研ぐ努力を続けなくちゃならないのも刀と一緒かな。

  6. 「人権」は、基本的に「平等」ですから、「人権」を盾に取ると、在職トランスしようとする公立高校教員のMtFには、皆、itukiさんと同じ待遇を与えなければいけないことになります。
    たぶん、そういう主張は現実に出てきているのだろうと推察します。

    問題はそれでうまくいくか?ということで・・・。
    いかないでしょうね。
    「人権」という概念を持ち出した時に飛んでしまうもの、具体的に言えば、個々の人間関係の積み重ねこそが、円滑なトランスにいちばん重要なことなのですから。

  7. 人権というのは先人の不断の努力によって確立されたものだから、使う側も相応の敬意を払って使う必要があるとわたしも思いますね。
    少なくとも自分が対話や信頼関係を築く努力を怠り、ただ単に相手を問答無用に黙らせるための道具として使うべきではない。

    刀の喩えは秀逸だと思います。
    刀が武士の命なら、人権はマイノリティの命、かな?w

  8.  ただ… 気になるのは、「自分は弱者の側だ」という自己規定。これは、この「刀」(人権という武器)と紙一重だと思うんですよね。で、これは、人権という刀を滅多に振り回さないヒトでも、かなりやっている気がします。かくいう私もやってそう。いつきさんも、無縁じゃないかも?

  9. わたしがいわゆるマイノリティとラベリングされる存在になって、最初に持った違和感が「マイノリティ当事者になったことで権力を与えられたorz」ということなんですよね。
    そうそう。かつて蔦森さんの講演の中に「わたしたちは弱者ではない」という言葉があったことを、樹村さんのコメントを見て思い出しました。

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