昨日のエントリの続き

昨日の分の日記にはずいぶんとマスコミについて批判的なことを書きました。
で、実際に自分の場合はどうだったかというと…。
例えば、はじめて取材をされた某N局のN川さん。収録の前に何度かいらして、収録そのものも3日間。その後、放映ギリギリまで練りに練った台本を送ってこられて、最終チェックをさせくれました。そして、その後もおつきあいがあります。
最近の某A新聞(笑)のI田さん。4月から半年間かけて何度も何度も来られました。何度も何度もしゃべりました。おそらくは、本筋とは直接関係ない話もいっぱいしたし、I田さん自身のことも話されました。2回目・3回目については、ラフスケッチみたいなのを送ってこられて、ずいぶんと意見を言わせていただきました。でも、それをていねいに反映されたと思います。
他にも、突然メールをしてもきちんと対応して下さった方や、お猿の国(笑)から一時帰国の時にわざわざ会いに来て下さった方もおられます。
なんというか…。
少なくともわたしが出会ってきた方々は「一緒につくっていく」というスタンスを持っておられた方が多いんじゃないかなと思います。そういうスタンスだと、「つくる側の意図」は原形を保ちながらも少しずつ変わっていくし、それは妥協の産物ではないものでもあると思うのです。そして、わたしも単なる「素材」ではなくなり、「表現者」になれるような気がします。そんな人たちと出会ってきたから、なんとなく昨日のような「一般論」じゃない話になってしまうのが、わたしの感触なんですよね。

まぁ、甘いかもしれないです。でも、信じてみる道もあるのかな、と。

わかんないや…。

オープンに生きることと晒すこと

ある人とメールのやりとりがあった時「オープンに生きる」という言葉が出てきて、「ふむ」と思いました。
はたして自分はオープンに生きているんだろうか…。もう少し言うならば、例えばさまざまな取材に応じるって言うことは「オープンに生きる」ということなんだろうか…。
たぶんその答は「否」ですね。
取材に応じること、マスコミに顔出しをすることと、オープンに生きることって違うんだと思います。
マスコミに顔出しをすることは「さらし者になることを辞さない」ということなんじゃないかなぁ。
この世界は、ある意味「狐と狸の化かしあい」みたいなところがあるんじゃないかと思います*1。取材をする側は、「取材をしたい意図」があり、それを表現するための「素材」として対象者を「使う」。取材をされる側としては、自分に意図があったとしても、必ずしもそうはならないし、下手をするとぜんぜん違うところに行ってしまう。でもそれは当たり前です。前提にあるのは、しょせんは取材される側は「取材をする側が表現するための素材」でしかないからです。
で、さらにそれを受けとった人は、取材をした人の意図とはまた違う受けとり方をする可能性が大です。なぜなら、受けとめる人にはそれぞれの生活があり、それにもとづいて「受けとる」からです。
てことで、幾重にもねじ曲がりながら「マスコミへの顔出し」があるんじゃないかと思います。
では、なぜ「辞さない」か。それは、まさに「化かしあい」だということを前提にしての話なんだと思います。もう少し言うならば、「利用しあい」みたいな…。
てなことを考えると、マジで「オープンに生きる」こととは程遠いなぁと思います。

じゃ、「オープンに生きる」ってどういうことかなぁ。
きっとそれは、自分の生活を大切にし、自分の身のまわりの人を大切にし、そして互いに相手を認めあうような関係を、日々構築していくことなんじゃないかなぁと思います。
自分のしんどさを一方的に受けいれてもらうために「オープンにする」のは、実は「オープンに生きる」と言うこととは違う。相手のしんどさも受けとめてこそ、「オープンに生きあう」ことができるんじゃないかという気がします。そして、そういう人間関係を、自分のまわりに少しずつつくり、広めていくこと。そして、なによりも「蛸壺」に入らないこと。

そんなことを考えながら、はたして自分にそれができているだろうかと、あらためて自分に問いかけるのでありました。

*1:ちなみに、わたしはネコ(笑)

おっちゃん、ごめんm(_ _)m

朝、いつもの鳥屋さんにいきました。
奥からおっちゃんが元気に「お!かっこいい!バイク!」といつものように声をかけてくれます。続いて
「この間はご主人が来てくれて」
「へ?」
内心うろたえました。もしかしたら、前に中抜きを買いに来た時のことかな…。あのときはたしか車で…。
でも、内心のうろたえを見抜かれてはなりません(笑)。にこやかに、
「今日はもも肉とムネ肉ください」
と注文します。
で、最後に「これ、サービスな!」と、いつものようにおまけをつけてくれました。
う〜ん、これからはヘルメットをぬげへんなぁ。

ネタネタしい半日

今日は午後からは東京から来られたお客さんの対応をしなくちゃならない日でした。
お客さんは全部で4人。大きい荷物を持つ人が2人に、いろんな話をする人が1人。さらに、そのサポートをする人が1人でした。
ちなみに、管理職に「一回連れてきましょか?」と聞くと、新聞を読みながら「適当に対応しといて」なんていう返事が返ってきました。まぁそんなもんですわ(笑)。
まぁ、こういうことでもなかったら、わたしの机のまわりなんてきれいにならないだろうから、いい機会でもありましたけどね。おかげさまで、自分のデスクで仕事ができるようになりました。もしかしたら、その証拠写真も明らかになるかも…。

他にもなんだかんだで5時過ぎまでお客さんの対応。その後京都市内に移動して、さらにもうひとネタがんばって、8時頃に終了。

今回は、けっこうやらせが多い希ガス…。

いまさらだけど…

「ネタ」って鮮度が大切だなぁとは思うのですが、ほとんど腐りかかっているネタです。
「某国技」の話ですが…。
ああいうのって、死に至ったから「事件」になったけど、実際には日常茶飯事なんでしょうね。で、国技だけじゃなくて、さまざまな伝統的スポーツにおいては、「しごき」なんていうのはよくあることでしかないんじゃないかなぁと。なかでも「国技」までいったら、一歩間違うと「伝統」のもとになんでもありという話もあるんじゃないかなぁ…。
いや、なにが言いたいかというと、結局、いまや死語にされてしまっている感のある「美しい日本」の伝統っていうのは、そういうものじゃないかということなんですけどね…。

あぁ、まだあのフレーズを強調してくれる人がいたら、もっとネタネタしい感じだっただろうになぁ…。