オープンに生きることと晒すこと

ある人とメールのやりとりがあった時「オープンに生きる」という言葉が出てきて、「ふむ」と思いました。
はたして自分はオープンに生きているんだろうか…。もう少し言うならば、例えばさまざまな取材に応じるって言うことは「オープンに生きる」ということなんだろうか…。
たぶんその答は「否」ですね。
取材に応じること、マスコミに顔出しをすることと、オープンに生きることって違うんだと思います。
マスコミに顔出しをすることは「さらし者になることを辞さない」ということなんじゃないかなぁ。
この世界は、ある意味「狐と狸の化かしあい」みたいなところがあるんじゃないかと思います*1。取材をする側は、「取材をしたい意図」があり、それを表現するための「素材」として対象者を「使う」。取材をされる側としては、自分に意図があったとしても、必ずしもそうはならないし、下手をするとぜんぜん違うところに行ってしまう。でもそれは当たり前です。前提にあるのは、しょせんは取材される側は「取材をする側が表現するための素材」でしかないからです。
で、さらにそれを受けとった人は、取材をした人の意図とはまた違う受けとり方をする可能性が大です。なぜなら、受けとめる人にはそれぞれの生活があり、それにもとづいて「受けとる」からです。
てことで、幾重にもねじ曲がりながら「マスコミへの顔出し」があるんじゃないかと思います。
では、なぜ「辞さない」か。それは、まさに「化かしあい」だということを前提にしての話なんだと思います。もう少し言うならば、「利用しあい」みたいな…。
てなことを考えると、マジで「オープンに生きる」こととは程遠いなぁと思います。

じゃ、「オープンに生きる」ってどういうことかなぁ。
きっとそれは、自分の生活を大切にし、自分の身のまわりの人を大切にし、そして互いに相手を認めあうような関係を、日々構築していくことなんじゃないかなぁと思います。
自分のしんどさを一方的に受けいれてもらうために「オープンにする」のは、実は「オープンに生きる」と言うこととは違う。相手のしんどさも受けとめてこそ、「オープンに生きあう」ことができるんじゃないかという気がします。そして、そういう人間関係を、自分のまわりに少しずつつくり、広めていくこと。そして、なによりも「蛸壺」に入らないこと。

そんなことを考えながら、はたして自分にそれができているだろうかと、あらためて自分に問いかけるのでありました。

*1:ちなみに、わたしはネコ(笑)

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