今日は、大阪市最南端にある、とある大学に昼から行って来ました。「1時間で自分のことを述べよ」というお題をもらっていたのですが、やっぱり無理でした。どうしたらええんやろ…。真剣に悩みます。それでも、けっこうウケたので、まぁよしとしましょうか*1。
その後、しばし校内の学食*2で歓談。そこでだんだんわかってきたことが「最近の学生さんたちの人間関係って、すごく相対的」ということなんです。いや、あちこちでこういうことは言われていると思うんですけど、やっぱり感じました。
先生たちから「いつきさんの話がわかるのは、80年代に京都にいたという共通体験があって、しかも同じ空気を吸っていたというバックグラウンドがあるからだよ」という説明があったんです。ところが、学生さんから「年代が一緒だからって、僕にはわからないです」という返しがありました。で、わたしのほうから「だって、あの頃はバイクなんてなかった。地下鉄もなかった。移動手段は、自転車か徒歩。だから、みんな大学の半径1km以内に住んでいた。だれかの家で呑んでいて、誰かを誘おうと思ったら、当時は携帯なんかないし*3、じゃんけんで負けたヤツが歩いて呼びに行ったもんです」と解説。さらに「テレビがある学生が、下宿屋の中に1〜2人。だから、テレビを見たければ、そこに行ってみるしかない。まぁ街頭テレビの感覚やなぁ」。このあたりで、またまた先生たちは大ウケ。どうやらみなさんその通りだったようで。「で、テレビを一緒に見ていたら、やっぱりいろいろ話をしながら見るじゃない」。
考えてみると、こういう生活は、学生同士だけじゃなくて、家族もそうでした。家の中にテレビは一台。親と子のチャンネル争いもあったし、やっぱりどちらかがどちらかに譲るわけです。で、しゃーないからそのテレビにつきあったりします。そういう中で、「あ、この人はこういうことに興味があるんだ」とか「あ、この人はこのことに対してこういうふうに考えるんだ」みたいなことがわかっていった。友だちや親との会話っていうのは、こういうことをベースにして行われていたんですよね。
別に、「昔はよかった」という懐古趣味に走るつもりはないのですが、でも、よかったと思います。おそらく、いまはそういう「状況」がつくる「偶然性」に頼れない時代になった。だからこそ、意図的に距離と時間と密度の相関を考えながら、関係性をつくっていく必要があるし、そういう「場」をデザインする楽しさがあるとも思います。
愛国心。長くなりそうなので、5/28の自分の日記に意見書きました。
初コメントです。
意見を書くと長くなりそうなんですが、昔読んだ小説に「国民のいない国家はありえないけど、国がなくなっても人々は存在できる」という意味のことが書いてありました。
それから、うちの学校はいろいろな国籍の人に配慮をして、入学式で国歌は流れますが、起立を強制されません。とっても新鮮でした。
> 樹村さん
なるほど。たしかに愛国心のありようっていうのはかなり変化がありますね。「仲間を大切に思うがゆえに苦言を呈する」ことの大切さを感じる時があります。そういう関係が、愛国心にかかわる話だけではなく、人間関係においても少なくなってきている気もする。
> みどりさん
どうもです〜!
うん、そうですね。国がなくなっても…。
さきほどの樹村さんのコメントにかかわることだけど、わたしはいま、苦言を呈する熱意すらなくなっているのかなぁ。やばいです。