夜中の会話

明日は関西医科大学の精神神経科の日です。前回行ったのが12月だったのでかなり日がつまっているのですが、何をしに行くかというと、「同意書*1」を出しにいくんです。
で、その「同意書」にはパートナーのはんこが必要なんです*2。なので、パートナーと文面をながめながら、話をしました。
前から「さっさとやったらええやん」とパートナーは言っていたのですが、やはりいざ「同意書」という形ではんこを押すとなるとそうはいかないみたいです。あたりまえですよね。「合併症」のことや「手術したあとの身体の使い方(笑)」とか「その後のライフスタイル」のこととか、いろいろ話をしました。
実は、「同意書」を出したからといって、実際にやるかどうかはわからないんです。わたしとしては、あくまでも「できる状態」をつくることが大切で*3、「やる」こととは切り離して考えたいと思っています。あと、なんだかんだと言っても「まな板」の上に乗らないと声が届かないところがあることをこの間感じてきたので、「いっちょまな板の上で踊ってみようか(笑)」と思ったというのもあります。
ライフスタイルについても、たとえばわたしが現在SRSを受けているかどうかなんて、まわりの人はだれも知りません。知っているのは家族+αくらいでしょうか。また、もしも受けたとしても、そのことも言わない限り、誰もわかりません。では、なんのためのSRSか。結局は、自分と肉体との折りあいのありようが一番大切だということです。わたしにとってのSRSはその程度のものですし、それでもやりたいということになったらそういうことなんだということです。なので、たとえSRSを受けたとしても、おそらく今と変わらないライフスタイルをとり続けるだろうと思います。

たぶん、わたしという人間のありように一番大きな変化をもたらしたのは、「トランスジェンダー」という言葉であり、「トランスジェンダーとして生きていこう」と思った時に、いまの自分のライフスタイルへの道筋がついたんだと思います。あとは、ホルモンとかSRSというのは、自分の肉体との折りあいの結果として、あとからついてくるものかなぁ。とりあえず、そのなかで、今の自分の状態がある。そんなふうに感じます。

あ、パートナーは最終的には「明日の朝押すわ」と言って、いまごろ(笑)『性同一性障害の基礎と臨床』を読んでいました*4

*1:これ、10月にもらってたんですけど、判定委員会にかけるために必要だという認識がなくって、放ったらかしにしていたんです

*2:厳密には連帯保証人ですけどね

*3:実際、「やる」となったときに動きはじめたのではどれだけあとになるかわかりません

*4:何年か前に「読んでね」って言ってたんだけどなぁ。まぁ、必要にせまられないと読まないのはお互いさまですか…

教員の仕事・補足

この間「教員の仕事」というのを書きましたけど、その後のコメントに触発されたので、補足をば…。
わたしがなぜあんな文章を書いたかというと、「辞めたい」という教員とちょこちょこ会うからです。「なぜ?」と聞き返すと「しんどい」とか「やってられない」とかいう答えが返ってきます。それも、「いい人やなぁ」「力があるなぁ」と思う人に限って、そういう答えを返してこられます。一方、新規採用の方々を見ていたら「体が持たんぜ」というくらいの研修漬け。まじめにやればやるほどその重圧は重くなってきます。
なのに、巷では「教員なんて」という批判がまかり通ります。
このギャップってどうしたらいいんだろうということなんです。
そこへのひとつの切り口が「教員をステレオタイプで見ない」ということかなぁと思ったわけです。「教員なんてみんなこれこれだ」「こんな教員しか見たことない」という言葉がよく出てきます。でも、違う教員もいます。大切なのは、「ほとんどの教員はこれこれだ」「わたしはこんな教員しか見たことがない」というふうに、断定をするときに「それ以外」の余地をどれだけ残しておくかということだと思います。
この間の文章の発端になった友だちの日記は、とても大切なことを示唆していました。それは、さまざまな子どもたちの姿や言葉に触れたとき、単に「子どもの感受性は豊か」という一言で終わらせてしまう教員がいるのではないかという指摘でした。たとえば、引っ込み思案な子どもがいるとき、「引っ込み思案だから」というレッテル貼りをするのではなく、「自分がその子どもに引っ込み思案にならざるを得ない場所しかつくれていないのではないか」ということを振り返らなくちゃならないという指摘でした。
ただ、そこからやりとりがエスカレートしていきます。そして、先にも書いた「教員批判」「指導者批判」へとつながっていきます。そこで書かれている内容を見たら、「レッテル貼りを否定しながら、でも、教員に対してレッテル貼りをしているんじゃない?」と感じたのです。
「教員」への世間の山のようなレッテル貼りの中、教員は心を閉ざしてしまうか、あるいは疲れを感じるか、あるいは「自分は違う」と心の中で叫ぶか。そして、「辞めたい」と言い、実際に辞めていく教員がいるわけです。
Oさんのコメントがありました。あのようなステレオタイプな返しは、実は、わたしはあまり好きではありません*1。でも、わたしも使うことがあります。どういうときか。それは「語りたくない相手」に対して、あるいは「いってもわからないであろう相手」に対して返すときです。ステレオタイプなもの言いや、ステレオタイプな返しは対話を切ってしまうんじゃないかと思います。そうではない対話をどう紡いでいくかということが、大切なんじゃないかと言うことを思うわけです。

*1:Oさん、ごめんね