夜は、教科の友だちと新年会です。なかなかふだん数学をやっている教員同士が集まって話すことがないのですが、久しぶりに話をしたら、やっぱりおもしろいですね。たぶん、それぞれに教科の人にはそれぞれ特有の感覚があるんでしょうけど、数学は数学の独特の感覚を持っているんですね。そのことが、いろんなところに随所にあらわれて、「あぁそれそれ!」とかいっぱいありました。で、なんとなく「数学でよかったなぁ」と思いました。
2次会にあまり参加しないのも数学の感じかなぁ。でも、「カラオケに行こう」という人もいるわけで、つきあうことにしました。ひたすら「洋モン」ばかり歌う人とか、ひたすら「ハングルモン」を歌う人*1とかに囲まれて、わたしもつい70年代から80年代の歌*2にどっぷりとはまってしまいました。
あぁ、それでも気持ちのいい夜でした。
日: 2006年1月20日
ある!ある!ある!
今日は、放課後保健部の研修会で精神科の医者が講師で来られました。主として「AD/HD」「自閉症」「うつ」あたりについて話をされました。途中、ふと意識が切れることもないわけではなかったのですが、それでも全体的にはおもしろい話でした。
これはやはり、一般論として聞くというより、生徒たちや自分の子どもたちそして自分自身にあてはめて聞いてしまうからでしょうね。とくに、自閉症とかAD/HDについては、診断基準を出してこられたので、非常にわかりやすい。で、たとえば自分についてを考えた時、診断基準のうち数個は大なり小なりあてはまるところがあるわけで、「自閉症的な部分」とか「AD/HD的な部分」というのはあってあたりまえなんだろうなぁと思いました。
教員の仕事・まだまだ続く(笑)
ともくりさん、ども。mixiの方に「こっちでいろいろ書いています」と書くべきだと思ったまま、家に帰ると爆睡する毎日が続いているので、書けていません。すみません。あと、mixiは限定された人しか読めないので、こちらのほうで紹介するのは適していないと判断したので、こちらのほうでは出典をはっきりさせませんでした。
で、本来はコメントで書いていく必要があるかと思うのですが、まぁ、日記の主の特権*1で、本文にします。てか、ネタがないので助かっていたりして(笑)。
ともくりさんの書かれた文章の中には「すべての教員は〜」という書き方はありませんでした。ただ、その後のコメントの中で、教員ではないのですが、「すべての〜」に近いニュアンス(あくまでも「近い」です)がありました。そのあたりが直接の引き金になったかと思います。
あと、前にも書いたように、「自嘲」によって批判をかわす手法もあるのですが、それは少なくともともくりさんの場所やこの場ではやめようと思ったのです。
わたしがなぜあのような文章を書き、その後これほどしつこく書き続けているか、自分でも不思議なのですが(笑)、書きながら整理をしていきますね。
現在、システムをいじることによって教育の内容を「充実」させようという動きがあるように、わたしは思います。その動きの原動力になっているもののひとつは、巷で言うところの「教員の指導力不足」というものかと思います。そのあたりから、巷での教員への批判がどんどん正当化されていったような気がします。
一方、教員からの他の教員への批判も多々あります。曰く「◯◯をやらない教員がたくさんいて…」。「どうも◯◯な教員が多くて…」。たしかにそれに同意するところもたくさんあるのですが、なんとなく自分の中ですっきりと落ちきらないところがあるんです。
教員に限らずですが、だれしも、たくさんの切り口を持っていると思うのです。ある人は、そのなかのある特定の切り口では批判されるべき内容を持っているかもしれないけど、他の切り口ではとてもすぐれている、そんな方も、たくさんおられます。にもかかわらず、巷の教員への批判も教員からの教員への批判も、ある特定の切り口からなされることが多く、その言及が「教員の資質全体」あるいは「教員の資格」にまで発展することが多いように思うのです。もちろん、「決定的な切り口」はあるのでしょうけど、それもまたひとつではないように思います。「決定的と思っている切り口」同志が、時として正面から対決してしまうことすらあるかと思います。
なので、「特定の切り口からの批判」を聞くにつけ、なんとも言えない居心地の悪い違和感を、いつも感じてしまいます。
ところで、先に書いた「システムをいじること」によって、学校教育の方向がはたしてどっちの方に行くのかということについて、わたしは漠然として危機感を持っています。というか、すでに変更ははじまっていて、そのことによって、教員の雑務の増加や学校と社会の関係の変化、子どもをとりまく社会のありようの変化など、さまざまな弊害が出はじめているように思えてなりません。
こうした状況を前にしたとき、「従来の批判のありよう(これをわたしはステレオタイプな批判と考えています)」ではないやり方から立て直していかないと、やばいんじゃないかというふうにいま感じています。
あと、「すべての大人がかつて〜」というところですが、わたしも同意できるところはあります。ただ、それが「感情的な批判が巻き起こる」につながっていくところに大きな問題があるように思います。
わたしはかつて小学校の頃教員からひどい仕打ちにあったこともまた、わたしにとっての「経験」であり「財産」であると最近思います。その経験があったからこそ、わたしは違う大人でありたいし、違う教員でありたいと思っています。ただ、それがはたして「いい方向」に向かっているかどうかは、やっぱりわかりません。
ちなみに、団塊の世代が、自分たちの子ども時代への反発からつくってきた社会のありよう、あるいは子育ての方法があるみたいですね。でも、「結局それは失敗したんじゃないか」みたいな話もあります。ひとつの時代から、次の時代へのバトンタッチって簡単には評価できないし、時間がかかることだなぁと思います。
おそらく、根本的にわたしは「楽観主義者」であり「性善説」なんだろうなぁと思います。前にも書いたかもしれませんが、「人はいつでも学びうる」「人はいつでも変わりうる」と思っているのです。「レッテル貼り」はそうしたわたしの価値観とはまったく逆行するものと思います。だからこそ、わたしもしたくはないし、わたしへのレッテル貼りも拒否をしたい。
このあたりの問題意識が根底にあって、ともくりさんのところの日記とコメントが引き金になって、いつのまにか、このあたりの話にしてしまいました。まぁ、冷静になると、日記とかコメントって「愚痴」の部分があるので、「ネタにマジレス」な気もしますので、迷惑かけたなぁとは思うのですが…。
あと、研修のことを樹村さんが書いておられますね。
現在、新規採用の人については、1年間指導教員がつきます。ただ、これ、双方にとってかなり過重なんですよね。研修ノートという交換日記をされるみたいですが、それを書くために、新採の人も指導教員も、たとえば教材研究をする時間がなくなったり、生徒と話をする時間がなくなったり。あと、その指導教員の教育観(笑)に指導内容が多分に左右されてしまうので、はたして現在のあり方がいいかどうかについては、評価がわかれるかなぁと思います。
教育委員会も、別に管理することだけを目的としているわけじゃなくて、それなりに研究はしているんですよね*2。でも、おそらく、「これ」という絶対的にいい方法が見つかっていないんじゃないかと思うんですよね。