今日は、某人権教育研究会の夏季研です。
てことで、集合時間は8時45分。マジかと思いながら、会場へ。なんだかんだと準備をしていたら、開会の10時になってしまいました。
午前は分科会。今回の夏季研は、わたしなりに気合いを入れています。
とにかく京都「府」の在日外国人教育は遅れています。とりわけ、日本語指導が必要な生徒へのとりくみは、完全に個々の学校に委ねられていて、それらを共有したり継承したりするしくみが一切ありません。まぁ、全外教京都がそれをやらなきゃならないんですが、全外教京都がイベントをしても「仕事」にはならないから、みんな来てくれません。かと言って、某人権教育研究会のレポートに上がってくるかというと、そういうしくみもない。そんな中で誰がしんどい思いをしているかというと、生徒たちです。なので、わたしの最後の仕事は在日外国人教育と決めました。もっとも、どこまでやれるか知らんけど。
で、今日の分科会では日本語指導を経験した/しているふたつの学校から実践報告をしてもらうよう画策しました。ほんとうはあと2校出してほしかったんだけど、うやむやのままに出してもらえませんでした。でも、この2校が出してきたことは大きかったですね。片方の学校は、いろいろ人的資源をかけながら、支援をしています。ただ、それでもダメだった経験があって、その経験を生かせて新たなとりくみをしておられることがわかりました。まぁ、もともと生徒を大切にする文化のある学校なので、それができるのかな。もっとも、他にもいろいろレアケース的なものはありますがね。もうひとつの学校も、生徒を大切にする文化があるのですが、なにしろ生徒を支援する学校を支援してくれるしくみがない。その中でやってきた、「試行錯誤」を、かなり詳しく報告してくれました。
この2本のレポートに対して、いろいろな質問や意見が出たし、さらに京都府国際センターの堀江さんがさまざまな指摘をして下さって、感謝です。まぁ結論は、「経験の共有と継承をするためにも、外教組織をつくらないとダメ。そしてその保障を府教委がやらないとダメ」という、あたりまえの話なんですけどね。でも、そこへ持っていくためにも、大切な一里塚だったんじゃないかな。
午後は記念講演です。が、その準備がえらいこってす。なにしろサテライトをつくらなきゃならないので、2会場をzoomでつながないといけません。それをひとりでやると、けっこうめんどうです。あれやこれやとやっていたら、講師の方から「もうすぐ着くよ」という連絡が入ったりして、なかなかてんやわんやな昼休みでした。1時間半休みがとってあってよかった。
で、記念講演。講師は原田琢也さん。演題は「人権教育の今後を考える-「特別な教育的ニーズ」をめぐって-」です。
原田さんとはじめてお会いしたのは「関西インクルーシブ教育研究会」という、謎の研究会でした。ここで京都市の中学校教員から大学教員になられたと知って「へー」と思いました。さらに、原田さんの論議がおもしろいんですね。どう考えてもルーツが同和教育にあります。この研究会はインクルーシブ教育がテーマだし、自分は専門外なので、なかなか発言ができませんでしたが、いつだったか発言をしたら、原田さんもわたしの「お里」がわかったようで、それ以来、少し気にかけてくださっているような気がします。そんな、原田さんの論議で教わったのが「特別な教育的ニーズ(SEN)」と「原学級保障」です。特に前者を知って、「在日外国人もSENがあるんだから、インクルーシブ教育で扱えるじゃん」と思ったのは大きかったですね。
ということで、今回の講演では、あたかも「インクルーシブ教育」を扱っているように見せかけて、それを特別支援教育にとどまらないところまでもっていくということを意図したいなと思いました。
で、内容です。トピックスは「同和教育の軌跡」「現在の社会と教育をめぐる状況」「日本のインクルーシブ教育制度の課題」「事例の紹介」「これからの人権教育を基盤にした学校づくりの方向性」の5つです。
まずは「同和教育の軌跡」です。これは新採教員に聞かせたい。「今日も机にあの子がいない」からはじまる同和教育の軌跡、なかでも「差別の現実から深く学ぶ」ことの大切さを、あらためて感じさせられました。うーん、やっぱり「人権教育だより」に連載しようかなぁ。でも、その時間、あるかなぁ。続いて「現在の社会と教育をめぐる状況」。新自由主義の中で「自己責任化」されるシステムが、とてもよくわかりました。そしてそれが「しんどい子ら」の自己責任へとつながっていく。そこに差別と貧困の共通するものがあります。そして「日本のインクルーシブ教育制度の課題」です。
そもそもインクルーシブ教育はサラマンカ宣言で謳われていて、そこには「万人のための教育」と「統合主義」があげられています。ところが、日本のインクルーシブ教育は「障害のある子」に対しておこなわれるため、結果として「分離教育」となります。そしてこれを「インクルーシブ教育」と名づけている。さっぱりわかりません。まぁそんなあたりについてていねいに話していただきました。そして、「事例の紹介」。
まずはイギリスのロンドン・ニューアム区の事例。ここ、なんか『ハマータウンの野郎ども』に出てきそうなところらしいです。そういうところでおこなわれるインクルーシブ教育は、当然障害のある生徒に特化したものにはなりません。というよりも、イギリスは「障害のある生徒」とは捉えず「特別な教育的ニーズのある子」ととらえる。だから、移民の子どもなんかも特別な教育的ニーズを持つわけです。あと、おもしろいなと思ったのがLDです。これ、Learning Disabilityの略と言われますが、イギリスではLearning Difficaltyなんですね。とにかく障害を使わない。次にあげられたのが、オーストラリアのクイーンズランドです。ここはアボリジニの生徒がメッチャいるらしいです。原田さんの話でおもしろいのは、そういう移民の子どもやアボリジニの子どもへのとりくみを話されることで、いわゆる「障害」の話をあまりされません。それは、わたしからのニーズを受けとっていただいたからということもあるでしょうが、もうひとつは、移民の子どもやアボリジニの子どもに相当する子が日本では「発達障害」とされてしまう可能性が高いんですよね。おそらくそのことを念頭に置いてはなしをされたのかなと。で、アボリジニの子どもに対してやってることが、まんま同和教育です。専門のスタッフが、バスに乗って家をまわって子どもをたたき起こして、学校に着いたらスポーツやって朝ごはん食べて、それから教室に送り出す。なにかあったら、専門のスタッフに連絡があって、さまざまな対応をする。クイーンズランドの場合、そういう専門のスタッフを財団がつくっていたりするのがいいですね。まぁでも西成高校の「となりカフェ」みたいなものかな。そして、日本においても大空小学校とか松原高校の事例をほんの少し紹介されました。
最後に「これからの人権教育を基盤にした学校づくりの方向性」です。ここで再び同和教育が出てきます。そして、「特別な教育的ニーズは、本当に障害から来ているのか?」と問いかけられます。まさに「差別の現実から深く学ぶ」ということばは、その子の困難をその子に帰せず、社会の問題へとパラダイムを変換することを意味しています。そのことと、インクルーシブ教育は結びつく。そして、それは「あるべき学校」をめざすものではない。わたしも「理想の社会なんてない」って思っています。それを、原田さんは「人権教育を基盤にした学校づくりも、飽くなき挑戦であり、ゴールのない旅。私たちはその旅の途中にある。これからも楽しみながら旅を続けたい」と締めくくられました。カッコイイ!
とにかくおもしろかったし、若手教員に聞いてほしい内容でした。ありがとうございました!
さぁ、あとは片づけだ。そして帰ってビールだ!
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杵築藩浅黄半襟逃散一揆
朝、リハビリ診察へ。それにしても、何が悲しくて7時半に出なくちゃならんのかとは思いますが、新幹線の時間があるのでやむを得ません。てことで、診察受付開始15分前に到着。それでもすでに5人並んでおられました。すごいな。
診察前にレントゲン。そして1番の診察です。ちなみにレントゲンはこんな感じ。
完全にくっついています。次は抜釘ですね。ブロック注射でやるか全麻でやるか、考えどころです。リハビリは今月いっぱい続けるということで、診察終了。その後、リハビリの予約に行って、病院を後にしました。
車を置いて、そのまま京都駅へ。しばし待って、新幹線の中の人になりました。少し仕事しようかと思ったけど、猛烈な睡魔が襲ってきたので、そのまま昼寝。新幹線は小倉で乗り換えて、ソニックの中の人になって、降りたのが杵築駅。ここにH本さんが来てくださっています。向かうは山香の教育庁舎です。今日は杵築藩浅黄半襟逃散一揆についてのレクチャーを受けます。
被差別民の一揆といえば、真っ先に出て来るのが「渋染一揆」です。が、それよりも50年ほど前に、杵築藩で「浅黄の半襟」を強制されそうになった被差別民による一揆があったってことを、初めて知りました。
ちなみに、この一揆がおもしろい。「逃散」とあるように、隣の島原藩豊州領に逃げるんですね。それが一揆になる。でもまぁ、藩主としては、支配下の人が逃げたら「支配能力なし」ってなるから、十分に一揆なんでしょうね。
で、なぜ「浅黄の半襟の強制」となったかというと、もちろん身分の引き締めです。で、なぜ身分の引き締めをしなくちゃならなくなったかというと、村人と「穢多」の間に日常的な交流があったからです。でも、日常的な交流があるのは、当たり前ですね。だって、生活をしていたら、交流は必然的に起こります。そこで「交流するな」と。それに対して「逃げる」と。
ただ、この一揆の前に、村人が助合米を求めて島原藩豊州領に逃散をして、成功しているんですね。どうやら、その成功を知っているから「やるぞ」となった。ただ、何せ被差別民ですから、果たして自分たちが同じパターンで成功できるかどうかはわからない。でも、5ヶ月ほどかけて入念に検討して実行したとのことです。
で、この一揆、何がすごいかというと、バラバラに住んでいる人たちが、同時に移動をする。どうやって連絡を取り合ったのかわかりません。でも、それだけの組織力があったんだろうなということは、何となく想像できます。そしてもうひとつ、島原藩豊州領が100人以上の被差別民を受け入れた。そして、島原藩と杵築藩でネゴシエーションして、最終的に「お咎めなし」になったという。
こういう話を聞くと、近世って、今のわたしたちが考えているというか、習ってきたというか、そういう姿よりも、はるかに流動的というか、そういう世界だったんだろうなあと思います。
ちなみに、その後、もう一回「おふれ」が出たけど、おそらく「形だけ」だったんじゃないかという話です。てか、実は島原藩でも同じことをしようとしたけど、庄屋たちが「無理なんじゃない?」って意見具申をして、おふれを出すのを断念したんだとか。
なんか、いろいろすごい一揆でした。
あっという間の1時間半のレクチャーが終わって、H本さんの車に乗せてもらって大分市へ移動。ホテルにチェックインして、すぐに出発。もちろん「呑み」です。
どん!
関あじ&刺身盛り合わせです。
めっちゃおいしい。調子に乗ってお酒を飲んで、めっちゃしゃべって。あっという間に10時です。さらにコンビニで酎ハイを買って、部屋飲み。
いかんいかん。寝なくちゃ。明日と明後日が本番です。
今日もおべんきょ
今日は朝から電車に乗って移動です。向かうは千里山にある、エレベーターがついているガッコです。ちなみに、夜の仕事はここまで来ないので、どうにも場所がわからずウロウロ。でも、教室に着いたら、ガッコのみなさんはわたしの顔を覚えてくださっていました。すごいな。
会議というか研修というか、中身がほとんどわかりません(笑)。でも、わからないということは、必要だということです。なので、おとなしく神妙に話を聞いていました。でも、たしかにべんきょになります。
ふだん、わたしは「受け入れ側」の立場です。ところがここでは「送り出し側」の会話がなされています。両方の立場のビミョーなズレがおもしろい。そんなひとときをすごして、退散。
家に帰ったら、4人のおべんきょ成果に向かいます。が、その前に昼寝してしまいました。ダメなやぁ。
それでも目が覚めてから3時間ばっかがんばってみました。
なんというか、「生徒指導」とか「進路指導」とか、これまで意識的にやってこなかったことをこの半年間意識的に考えてきたせいか、文科省の文章の意図とかがなんとなくわかるようになってきました。4人のおべんきょ成果は、それを踏まえて、なおそれに対して批判的であろうとしています。ただ、直感的にやるのと、一定程度踏まえてやるのとは違います。そのあたりの足腰の弱さを自分に対して感じていました。それが、少しマシになったかな。てことで、未完成稿をみなさんに送ってみました。迷惑やろなぁ。
東九条の歴史と現状
今日の午前はおべんきょです。とはいえ、進みません。こんなところでまごまごしてたらアカンのになぁと思うけど、そう思えば思うほど進まなくなります。かと言って「いいや」ってなると、また進みません。泥沼です。でも、いつものことです。それでも気になるところを見つけたので、それだけはメモしておきましょう。
昼ごはんは気合を入れます。
今日はプルダックタンメンです。甘旨辛いなぁ。
で、東九条へ。
今日は某人権教育研究会のフィールドワークです。フィールドワークの前の講演は前川修さん。かつて聞いた講演は衝撃的でした。いや、当時すでに「オールロマンス行政闘争」のことは知ってはいましたが、それをあらためて聞けたということがよかった。で、その前川さんが東九条について話されるのが今回です。
東九条についての講演は村木美都子さん・朴実さん・宇野豊さんと聞いてきました。ちなみに、宇野さんのスライドはいろいろあってもらいました。でも、今日の話は、また少し違うんだろうな。
てことで、講演スタート。話は1912年あたりからはじまります。へー、須原通りは土手だったんだ。よく見ると、高瀬川の川筋も違いますね。そして家が少ない。でも、土手と土手の間に家がある。なるほどなぁ。そこからどんどん家屋が増えていきますが、これが川沿いなんですね。
戦後になると火事の話が出てきます。
えーと、1100m2に23世帯…。てことは、1世帯が48m2。これを3.3で割ると、15坪かぁ。すんごい狭小住宅です。しかも、時代的には平屋だろうから、これはすごいな…。ただ、結局改善されることはなかった。改善の方向に向かったのは1990年代です。
ところが今や、東九条をアートの街にして、人が呼べるようにするんだとか。なにか方向が違います。そうじゃない。
おそらく聞いている人にも伝わったんだろうけど、質疑応答でそういう意見がいっぱい出てきました。でも、それを質疑応答で言うのもなにか違う気がしまじた。東九条の住みやすさはそんなんじゃない。ここの魅力を他の人に伝えるには、どんな質問をすればいいのかな…。
「あの、東九条って、ほんとに多文化な街だと思います。この多文化ってのは、国際色豊かってことじゃないです。ここを歩いてると、障害のある人がたくさん歩いておられます。おそらく精神障害のある人もおられます。そういう人がたくさんおられるといゔことは、そういう人が暮らせる街だってことです。そこにはおそらくそういう人の生活を支えるさまざまなネットワークがあるんだと思うんです。どんなネットワークがありますか?」
するといっぱい出てきました。なるほどなぁ。
てことで、前川さんの講演は終了。あとは自主フィールドワークです。たまたま会った知り合いの教員を少し案内してみたり。
ちょうど頃合いもいい時間になったので、さらに自主フィールドワークを続けてみようと、ほっこりカフェに入ってみたり。
そしたら、フィリピンルーツの子らが山のようにいました。あぁ、ここは希望の家を引き継いでいるんやなぁ。さらにマンモス団地の元住人もおられたり。いや、この人、昨日のお店で会って
「またゆっくり話しましょう」
って声をかけられたし。
おもしろい街だし、おもしろいカフェだし。そして、なぜか顔を覚えられてるし(笑)。
今日は泳げた!
朝、目が覚めると、外は晴れ。長期天気予想では雨だったのに、よかった。
まずは朝ごはんの準備です。メニューは素麺と、昨日の残りのカレー。となると、米も炊かねば。ということで、厨房でゴソゴソ。モーニングカレーはうまいです。
やがて海水浴に出発です。昨日泳げなかっただけに、今日はみんな大はしゃぎです。
子どもたちを見守るマダムたち。
闘いに疲れた戦士。
1時間の海水浴の時間はあっという間に過ぎました。ちなみに、ある小学生はあとで
「つまらなかった。5分しかなかった」
と言ってたんだそうな。どんだけ楽しかったんだ。
海水浴から帰ってきたら、ほぼほぼ片づけが終わっていました。ごめんなさい。それにしても、空き缶・空き瓶の量を見て、地元の人は恐怖すら感じたんだとか。まぁ、ムチャクチャですからね。
あとはシャワーを浴びて、バスに乗って、一路大阪へ。
解散したら、いつものように打ちあげです。焼き切れなかった肉で焼肉です。
こうして、この夏、一番楽しみにしていた行事が終わってしまいました。楽しかった。しかし疲れた。
そして、いつものようにKっかわくんに送ってもらって、無事帰宅。いつもすみません。
今年もキャンプ
現在、感染が爆発的に拡大中ですが、おそらくもう、どうでもいいんでしょうね。なので、今年もトランスジェンダー生徒交流会のキャンプです。
とにかく早く出発したい。となると、その分だけ早くバスを借りに行かなきゃなりません。となると、必然的に早く起きなきゃなりません。なので、起床は5時半。でもまぁ目が覚めました。
某所でYーきと合流。そこからバスを借りに行きます。久しぶりのバスの運転は楽しいです。そうそう、こうやって角を曲がったなぁ。
で、集合場所へ。しばらくすると、続々と参加者が集まってきます。初参加がこのキャンプという子もいたりして、なかなかです。
やがて全員集まったところで出発です。そんなに道も混んでなくて快適なドライブです。途中ドライバーチェンジをして、わたしはビール(笑)。で、目的地の大山町に到着。到着したらビックリです。テントとテーブルとバーベキューコンロがあって、奥の方には生ビールサーバーがあります。あまりにもいろいろおかしすぎます。
とりあえずインフォメーションしたら、子どもたちは海に移動開始。ところが、天気が悪い。というか、雷が鳴っています。えーと。海で雷は死にます。なので、引率のIっぽくんに
「安全側に振ってね」
とお願い。あと、バス車内に
「もしかしたら、海を目の前にして引き返すかもしれないよ」
とアナウンスして、みんなは出発。
が、少ししたら土砂降りの雨です。雷もすごい。あちこち落ちまくっているようです。と、「海水浴断念」のメールが来てひと安心。
帰ってきたら、焼肉の準備開始です。が、わたしはひたすらビールを呑んでいます。
と、差し入れが登場。
大粒のカキとサザエです。そこにいる大人達はどよめきます。ここからは生ガキパーリーです。うまいわ。
そして焼肉!
暗くなってきたら、なぜか大山の方に車で移動。なんでも「姫蛍」がいるんだとか。暗い山道を上がると、少ないものの、たしかに蛍の光が見えます。駐車場に降りてきて、ふと上を見上げると、星空が。
さぁ、人権交流センターに帰って、もう一発呑もうかな。
思い切った
この間、ずっとどうするか悩んでいました。特に不満はない日常だけど、でも、モヤモヤしてました。というか、不満はあるけど、それはそれでなんとかやりくりしてきました。
まぁ、この不満を抱えたまま、なんとかやっていくか、それとも思い切るか。でも、なんとなく「限界かな」という気がしたので、思い切ることにしました。
幸か不幸か、今日のウトロの会議が延期になりました。なので、ヨドバシへ。機種は決まってます。
「あの、なにかご用をききましょうか?」
「機種変したいんです。P30liteからOPPOのRENO7Aに」
いや、何があれかと言って、LINEが最近固まるようになったり、常駐させておきたいソフトが勝手にkillされたり、カメラの調子がイマイチだったり、そういうちょっとした不満、やり過ごせばそれでなんとかなる不満が少しずつたまってたんですよね。XIAOMIにするかどうするか悩んだけど、最終的にOPPOにすることにしました。
「あの、UQの機種変を」
「あ、SIMフリーの方が安いですよ」
といゔことで、SIMフリーデビューです。なんか、風通しがいい感じ(笑)。
家に帰って、さっそく開封の儀。
中は黒い。
あとは写真はありません。いちおうゲーブルつないでコピー、ソフトでコピーといろいろやってくれました。が、やはり設定はそれだけではダメですね。HUAWEI同士だったらすんごい簡単でしたが、そうもいかんのか。11時くらいまでゴソゴソやって、とにかくまぁまぁ使えるようになったところでタイムアップ。
なにしろ、明日の朝が早い…。
てか、そんな日に何やってんだってことなんですが、そんな日だからやってしまうんですよね(笑)。
事前「合宿」はできなかったけど
今日は1日ゼンコーの事前ミーティングです。例年は合宿をしてましたが、マダンセンターを宿泊で使えないことと、あちこちの自治体が県外への宿泊を禁じていることで、どうしても合宿ができませんでした。もっとも、奈良県は昨日解禁になったみたいで、それは明らかに甲子園と関係があるわけで、もうどうしようもないなと。
そんなこんなで、マダンセンターヘ。
今回来てくれた高校生はふたり。ふたりしか来てくれなかったと考えるか、それともこの状況でよく来てくれたと考えるか。まぁ後者ですよね。
なんと言っても、ここ2年ゼンコーがなかったので、もう一度ゼンコーを復活させなきゃなりません。そんな思いが伝わったんでしょうね。卒業生も3人来てくれました。
しかし、ふたりの自己紹介を聞きながら感じたことは、どうすれば「交流会が楽しい」という生徒と会えるのかなってことです。もちろん、うちの生徒の中でも今まで何人か出会ったことはあります。が、なかなか出会えない。もちろん、全国なので、そんな子が集まってくると言えばそうなのかもしれませんがねぇ。でも、話を聞いているとほんとうに頼もしい。
「他のところでは言えない、ここでしか言えない話が聞きたい」
とか、交流会を知ってる子だからこそ出てくる言葉です。今年の夏が楽しみです。
あ、すでに夏か^^;。
夕方ミーティングが終わったら、京都のメンバーでしばし総括。が、飲みすぎてしまいました。
8時を過ぎたので、テレビをつけました。うーん、また明日も演説か…。
ガチの会議、のち、ガチの呑み
今日は、某在日外国人教育関係の会議です。ちなみに、いつもの場所は選挙の関係で使えないとのことで、マダンセンターを使わせてもらうことになりました。
鍵を開けなきゃと早めに行ったつもりなのに、すでに8割方集まってて驚くなど。
今日は全国大会前の会議なので、議題は盛りだくさんです。まずはレポート・司会・記録の確認。レポートはなんとか昨日そろったので、荒れることもなく。司会・記録もなんとか決まってホッ。お次は基調の検討です。ここでMりさんが大活躍。基本的にみなさん在日外国人教育界隈の人なので、説明せずとも「わかる」んですが、Mりさんは界隈の人じゃないので、いろいろ質問したり意見を言われたりします。それがいい。あらためて説明することで認識を深めることができたように思います。しかし
「いつまでいつきさんが資料集の組版するんですか」
は笑いました。
「みんなそれ、あえて触れてません」
とコメントです。
その後、当日の運営の打ち合わせをしたり、各地の情報交換をしたり。そんなこんなで、5時半まで4時間半、休憩なしの会議でした。ハードやな。
その後皆さんと別れて、わたしはJRに乗って移動開始。今日はウトロ平和祈念館の運営メンバーのおつかれさま会です。向かったのは海雲亭。到着すると、すでに宴たけなわです。がんばって追いつかねば。と、今日のイベントを終えた事務局の方々も到着。ここからもうひと呑み。
と、ひとりひとりウトロへの思いを話すことになったりして、これはヤバイなと。わたしは長いけど細いつきあいなので、あまり大きなことはことは言えません。なので情けない話をしておきますか。
そんなこんなで、2時間限定のはずなのに、閉店間際までいて終了。しかし焼酎を飲みすぎた。帰れるだろか…。
「わたしのとりみだし方」と暴走すること
人権学習月間2日目は、2年生の人権学習です。テーマは在日外国人について。ゲストスピーカーは金和永さんです。去年までは、このテーマは三木幸美さんに来てもらっていました。でも、今年はすでに講演依頼がはいってたとのことで、断念。ならば誰にお願いしようかと。というところで、ここはふぁよんさんにお願いしようかと。タイトルはもちろん「わたしのとりみだし方」です。
てことで、午前2時間の空き時間は準備。しまった、4時間目がつまってるってことは、迎えに行けないってことじゃん。幸い、同じセクションの若い衆がいってくれることになってホッ。
授業を2発終えて、昼休み。ふぁよんさんと「久しぶりー」とあいさつして、体育館へ。さっそくセット開始です。セットは思いの外早く終わったので、少しゆっくりおべんとです。
で、いよいよ講演会。
ふぁよんさんの語り口がいいですね。幸美ちゃんの語り口は、どちらかというと言葉に力がある。それは、言葉への信頼というか確信というか、そういうのがあるからかな。それに対してふぁよんさんの言葉は瞬間の躊躇がある。それは確信がないというわけではなくて、常に自分と対話し続けてる感じがあるのかな。なので、確信を持った次の瞬間に、その言葉への疑問が湧いてくるという感じ。
そんな中で、ライフストーリーが語られます。もちろん話はひいおじいさんやひいおばあさんのところから。そういうもんですよね(笑)。続いて猪飼野の歴史。ここまではいい。ここから、なぜ自分はこの話ができる/するのか。そして、自分の立場を問い直しはじめる。
話を聞きながら、この話はどこへ行くのだろうという期待感が湧いてきます。
やがて話は「とりみだし」へと入っていきます。自分のとりみだし経験を語りながら、ではまわりはどうするのかと問う。そしてふぁよんさんは
「とりみだしにつきあう。自分もとりみだす」
とされます。
そうなんだよなぁ。それが大切なんだよなぁ。
エンディングはベトナム人のお母さんへのインタビュー。
「子どもがベトナム語を忘れていくことが悲しい」というお母さんの言葉をひきながら、インタビュー中にベトナム語でキャッキャしてるおちびちゃんの姿を映して
「この子に対して日本の教育だけをするのか、ベトナムの教育もするべきなのか?」
という問いを残してフィニッシュです。
いいなぁ。子どもたちはどんな感想を持つのかなぁ。
で、仕事へ向かうふぁよんさんを駅まで送って
「また遊ぼうねー」
てバイバイ。
その後職場にもどって脱出準備。今日行かなかったら、次に行くタイミングがいつになるかわかりません。向かう先は京都府国際センターです。
この間、少し暴走気味に走ることにしています。誰の許可も同意も得ずに、とにかく思いついたこと、正しいと思ったことをしつづけています。そのひとつのことが、この夏の研究大会で日本語指導を必要とする子へについてのレポートを集めてガッツリ話題にすることです。そこにH江さんに来ていただいて深堀をしてもらう。その謀議ですね。
ここでいろいろ情報交換。課題はどんどん明確になってきます。やらなきゃならないこともどんどん増えていきます。でもそれをやろう。H江さんも
「暴走するくらいでなきゃ動かない」
って言っておられましたからね。
結局1時間くらいいろんな話をしました。さて、ロピアに寄って合挽きミンチを買って帰ろうかな。