人権教育の今後を考える―「特別な教育的ニーズ』をめぐって―

今日は、某人権教育研究会の夏季研です。
てことで、集合時間は8時45分。マジかと思いながら、会場へ。なんだかんだと準備をしていたら、開会の10時になってしまいました。
午前は分科会。今回の夏季研は、わたしなりに気合いを入れています。
とにかく京都「府」の在日外国人教育は遅れています。とりわけ、日本語指導が必要な生徒へのとりくみは、完全に個々の学校に委ねられていて、それらを共有したり継承したりするしくみが一切ありません。まぁ、全外教京都がそれをやらなきゃならないんですが、全外教京都がイベントをしても「仕事」にはならないから、みんな来てくれません。かと言って、某人権教育研究会のレポートに上がってくるかというと、そういうしくみもない。そんな中で誰がしんどい思いをしているかというと、生徒たちです。なので、わたしの最後の仕事は在日外国人教育と決めました。もっとも、どこまでやれるか知らんけど。
で、今日の分科会では日本語指導を経験した/しているふたつの学校から実践報告をしてもらうよう画策しました。ほんとうはあと2校出してほしかったんだけど、うやむやのままに出してもらえませんでした。でも、この2校が出してきたことは大きかったですね。片方の学校は、いろいろ人的資源をかけながら、支援をしています。ただ、それでもダメだった経験があって、その経験を生かせて新たなとりくみをしておられることがわかりました。まぁ、もともと生徒を大切にする文化のある学校なので、それができるのかな。もっとも、他にもいろいろレアケース的なものはありますがね。もうひとつの学校も、生徒を大切にする文化があるのですが、なにしろ生徒を支援する学校を支援してくれるしくみがない。その中でやってきた、「試行錯誤」を、かなり詳しく報告してくれました。
この2本のレポートに対して、いろいろな質問や意見が出たし、さらに京都府国際センターの堀江さんがさまざまな指摘をして下さって、感謝です。まぁ結論は、「経験の共有と継承をするためにも、外教組織をつくらないとダメ。そしてその保障を府教委がやらないとダメ」という、あたりまえの話なんですけどね。でも、そこへ持っていくためにも、大切な一里塚だったんじゃないかな。
午後は記念講演です。が、その準備がえらいこってす。なにしろサテライトをつくらなきゃならないので、2会場をzoomでつながないといけません。それをひとりでやると、けっこうめんどうです。あれやこれやとやっていたら、講師の方から「もうすぐ着くよ」という連絡が入ったりして、なかなかてんやわんやな昼休みでした。1時間半休みがとってあってよかった。
で、記念講演。講師は原田琢也さん。演題は「人権教育の今後を考える-「特別な教育的ニーズ」をめぐって-」です。
原田さんとはじめてお会いしたのは「関西インクルーシブ教育研究会」という、謎の研究会でした。ここで京都市の中学校教員から大学教員になられたと知って「へー」と思いました。さらに、原田さんの論議がおもしろいんですね。どう考えてもルーツが同和教育にあります。この研究会はインクルーシブ教育がテーマだし、自分は専門外なので、なかなか発言ができませんでしたが、いつだったか発言をしたら、原田さんもわたしの「お里」がわかったようで、それ以来、少し気にかけてくださっているような気がします。そんな、原田さんの論議で教わったのが「特別な教育的ニーズ(SEN)」と「原学級保障」です。特に前者を知って、「在日外国人もSENがあるんだから、インクルーシブ教育で扱えるじゃん」と思ったのは大きかったですね。
ということで、今回の講演では、あたかも「インクルーシブ教育」を扱っているように見せかけて、それを特別支援教育にとどまらないところまでもっていくということを意図したいなと思いました。
で、内容です。トピックスは「同和教育の軌跡」「現在の社会と教育をめぐる状況」「日本のインクルーシブ教育制度の課題」「事例の紹介」「これからの人権教育を基盤にした学校づくりの方向性」の5つです。
まずは「同和教育の軌跡」です。これは新採教員に聞かせたい。「今日も机にあの子がいない」からはじまる同和教育の軌跡、なかでも「差別の現実から深く学ぶ」ことの大切さを、あらためて感じさせられました。うーん、やっぱり「人権教育だより」に連載しようかなぁ。でも、その時間、あるかなぁ。続いて「現在の社会と教育をめぐる状況」。新自由主義の中で「自己責任化」されるシステムが、とてもよくわかりました。そしてそれが「しんどい子ら」の自己責任へとつながっていく。そこに差別と貧困の共通するものがあります。そして「日本のインクルーシブ教育制度の課題」です。
そもそもインクルーシブ教育はサラマンカ宣言で謳われていて、そこには「万人のための教育」と「統合主義」があげられています。ところが、日本のインクルーシブ教育は「障害のある子」に対しておこなわれるため、結果として「分離教育」となります。そしてこれを「インクルーシブ教育」と名づけている。さっぱりわかりません。まぁそんなあたりについてていねいに話していただきました。そして、「事例の紹介」。
まずはイギリスのロンドン・ニューアム区の事例。ここ、なんか『ハマータウンの野郎ども』に出てきそうなところらしいです。そういうところでおこなわれるインクルーシブ教育は、当然障害のある生徒に特化したものにはなりません。というよりも、イギリスは「障害のある生徒」とは捉えず「特別な教育的ニーズのある子」ととらえる。だから、移民の子どもなんかも特別な教育的ニーズを持つわけです。あと、おもしろいなと思ったのがLDです。これ、Learning Disabilityの略と言われますが、イギリスではLearning Difficaltyなんですね。とにかく障害を使わない。次にあげられたのが、オーストラリアのクイーンズランドです。ここはアボリジニの生徒がメッチャいるらしいです。原田さんの話でおもしろいのは、そういう移民の子どもやアボリジニの子どもへのとりくみを話されることで、いわゆる「障害」の話をあまりされません。それは、わたしからのニーズを受けとっていただいたからということもあるでしょうが、もうひとつは、移民の子どもやアボリジニの子どもに相当する子が日本では「発達障害」とされてしまう可能性が高いんですよね。おそらくそのことを念頭に置いてはなしをされたのかなと。で、アボリジニの子どもに対してやってることが、まんま同和教育です。専門のスタッフが、バスに乗って家をまわって子どもをたたき起こして、学校に着いたらスポーツやって朝ごはん食べて、それから教室に送り出す。なにかあったら、専門のスタッフに連絡があって、さまざまな対応をする。クイーンズランドの場合、そういう専門のスタッフを財団がつくっていたりするのがいいですね。まぁでも西成高校の「となりカフェ」みたいなものかな。そして、日本においても大空小学校とか松原高校の事例をほんの少し紹介されました。
最後に「これからの人権教育を基盤にした学校づくりの方向性」です。ここで再び同和教育が出てきます。そして、「特別な教育的ニーズは、本当に障害から来ているのか?」と問いかけられます。まさに「差別の現実から深く学ぶ」ということばは、その子の困難をその子に帰せず、社会の問題へとパラダイムを変換することを意味しています。そのことと、インクルーシブ教育は結びつく。そして、それは「あるべき学校」をめざすものではない。わたしも「理想の社会なんてない」って思っています。それを、原田さんは「人権教育を基盤にした学校づくりも、飽くなき挑戦であり、ゴールのない旅。私たちはその旅の途中にある。これからも楽しみながら旅を続けたい」と締めくくられました。カッコイイ!
とにかくおもしろかったし、若手教員に聞いてほしい内容でした。ありがとうございました!
さぁ、あとは片づけだ。そして帰ってビールだ!

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