まぁ、タイトル通り。でも、ほんとうはなにも変わっていない(笑)。
カテゴリー: 考え
なんでもありやな…
ついったをウォッチしていたら、「大津市教育長殴られ軽傷 殺人未遂容疑で大学生逮捕」なんていうニュースがありました。まぁ、教育委員会不要論が権力側から出てくる昨今ですから、それに乗っかって出てきたのかな。それにしても単純や…。
きっとこの大学生
「自分は正しい」
と思っているんだろうなぁと。「正義の味方」ってヤツでしょうか。
かつての正義の味方には「葛藤」があったんだけど、今の正義の味方はどうなんだろう。見てないからわからないけど…。それにしても、もう、なんでもありやなぁと。
まぁ、すべてを「悪か善か」「敵か味方か」で判断する昨今だからなぁ…。てか、そんな時代がめぐってきたんだろうなぁ…。
「日常」ってなんだろう
起床5時半。やかんふたつとフライヤーに点火。トイレに行ってからコーヒー豆を挽きつつ、お茶っ葉をお茶パックにつめる。揚げ物はコロッケと春巻。もう一品を電子レンジに放り込む。コーヒーを淹れて、だし巻きをつくりおえたころには、FMは天気予報をはじめる。パートナーを起こしに行って、ついでに今日着る服を持って降りる。朝のコーヒーとパンを食べながら、パートナーと少し話。
6時25分に家を出る。いつものバス停にはいつもの人がいる。いつも横断する道にはいつも通りすぎるバスが通る。いつもの場所に自転車を置いて、いつもの電車に乗る。
乗り換えのホームでは、いつもの場所の先頭に並ぶ。滑り込んできた電車のいつもの座席に座る。まわりをみると、名も知らぬいつもの人たちがいる。
職場まではいつもの道を歩く。
いつもの時間に職場に着いて、同僚といつものように挨拶を交わし、パソコンに火をいれる。職員朝礼があり、校門の立ち番があり、授業がある。
仕事が終わったら、駅に向かい、家に帰る。
お風呂にはいって、ビールを呑んで、晩ごはんを食べて、ちょっとテレビを見て、食器のかたづけを手伝って、歯を磨いて寝る。
これが日常です。
朝が来て、昼が来て、夜が来る。そして陽は昇り、陽は落ち、そして陽はまた昇る。季節はめぐり、再び季節がめぐって来たとき、ひとつ歳をとる。
ただその繰り返し。
わたしの意思のおよばないところに日常がある。
登下校中に知らない生徒とあいさつをする。授業中にうれしいことがある。小さなひとつひとつのできごとを、日常の中から見つけ、そこに感情の変化を探す。日常の中に非日常を見つける。
イレギュラーを起こしてみる。いつも立って電車を待っていたところを、しゃがんで待ってみる。風景が変わる。非日常になる。
イレギュラーがやってくる。飲み会がある。人と会う。会議がある。交流会がある。おべんきょがある。お座敷がある。原稿がある。非日常がやってくる。
しかし、それらも繰り返されるなかで、次第に馴染みのある風景になり、日常へと組み込まれていく。日常が次第にふくれあがる。ふくれあがった日常に「差違」をつけるために、日常のひとつひとつに「エントリ」をつける。でも、それら「エントリ」は非日常のふりをした日常でしかない。
「エントリ」はふくれあがり、時としてはじける。あるときは「エントリ」を消し、あるときは消えていく。その瞬間は非日常になる。しかしやがて、そこにあらわれる日々も、やはり日常でしかなくなる。
バランスがとれていることが日常ではない。バランスが崩れることが日常であり、バランスを保ち続けることが日常となる。
おそらく、だれもが考え、すでに解決してしまっているであろう「日常」について、いまごろ考えているわたし。
遠くの理解者、近くの理解者
とにもかくにも、昼間は淡々と仕事。
実は耐震工事の関係で荷物の整理をしなくちゃならないのですが、日常業務をしながら荷物の整理は、とっても難しいです。まぁ、単にやる気が起こらないだけのことなんですがね(笑)。
それでも、夕方には目がちぎれそうな感じがしたので、仕事は完全にストップ。定時にあがりです。
で、京都駅へ。なんでもO府の人権関係の団体がインタビューしたいんだとか。担当のM村さんとは1月にひょんなことでお会いして、けっこうおもしろい感覚もってはるかたやなぁと思いました。でも、わたしなんかにインタビューしても、なんもしゃべることないし、あるいはすべて既出だしとは思いましたが、まぁ、しゃべっているうちに新しいことを思いつくかもしれないからいいかと思って引き受けたんですよね。
で、あとで聞いたら、実際書かれるのは社納葉子さんだとか。久しぶりやなぁと、ちょっとうれしくなりました。
で、インタビュー開始。
どうもわたしはへそ曲がりなのかな。いや、へそ曲がりなんだよな。ひとつの質問への答えを少しずらして話すクセがあるみたいです。例えば
「なにか転機みたいなものはありましたか?」
とたずねられると、
「小さな変化が少しずつあって、徐々に変わっていったから、「これ」っていうのはないですぇ」
みたいな。
でも、ひとつ話をしながら新たに気づいたことがありました。
わたしは自分がトランスであることに気づいた当初、「遠くの人」からカムアウトをしていったんですね。近くの人はやっぱり怖いですからね。で、その頃って、遠くの人は理解を示してくれるけど、一番近くにいるはずの生徒たちはわたしのことをクスクス笑ったりオカマ呼ばわりしていたんですよね。
で、いまはというと、わたしのことをあまり知らない生徒とたち、まぁ、少し遠い生徒たちは、相変わらずわたしのことをクスクス笑ったりはします。でも、一番近いところにいる生徒は、まったくそんなことがない。ちなみに、その子らには特にはカムアウトはしてません。
結局、カムアウトが重要なんじゃなくて、日常の積み重ねが大切なんやろなぁと、インタビューを受けながらふと感じたという、まぁそれだけのことだったんですが、新たな気づきでした。
そうか、ヤツらも…
なんでも東京で働いている「ボリポン人*1」がこちらに帰ってきているとかで、集合がかかりました。
集合をかけたのは、暴走機関車です。集まったのは、T国流の核弾頭とか、KよぽんとかK淵さんとかOぎちゃんとかBんちゃんとか。まぁ、いつものメンバーというか、K野さんがいないだけというか…。ちなみに、暴走機関車からは店の予約とマダンセンターの予約を頼まれていて、もうこれは完全に「やる気満々」ということですね。
で、今回は単に集まったというだけじゃなくて、なにやら報告があるとか。聞いてみると、ふむ、めでたい話です。
よかったよかったと祝いながらも、どこかに一抹の寂しさがあることも確かです。パートナーができ、子どもができ、「守るもの」ができることは、もしかしたら人を成長させることかもしれません。でも、それと引き換えに置き去りにしてしまうものもまたあるような気がします。
わたしは…。
たぶん成長しそこねてるな(笑)。わたしがクズ人間であるゆえんです。でも、そのおかげで置き去りにしなかったものがある。
さて、どっちがいいんだろう…。なんてことは考えるまでもないことか…。
そんなことをぼんやり頭の片隅で考えながら、予想通りそのまま東九条へ。みんなで合宿です。
にしても、まだ余裕で帰れる時間だったのに、なんでわたしも一緒に合宿してるんだ?
いつきのトリセツ
昨日、とあるイベントの役割分担をめぐって、ひと悶着しました。で、そのことを通していろいろ考えましたが…。まぁ、項目別にしましょうか。
- 形式的平等主義?
ひとつ、ものすごく違和感を感じたのは
「みんな役割を持っているからあなたも」
だったんです。で、その役割が必要かどうか、わたしにはわからない。というより、そのことについて話し合っていないし、わたしは不要だと思ってる。
にもかかわらず、その役割をわたしにあてようとしたのは、さきほどの言葉の通りじゃないかと。つまり
「みんな」→「あなたも」
でも、それって本当に必要なのか?みんながやっているんだから、不要(とわたしには思える)役割をつくって平等な気になることって必要なのか?
実はこれ、学級経営なんかで、わたし自身やってきたことかもしれません。
ただ、最近あまりとらわれなくなってきました。そこの不公平感は、結局不信感の裏返しのような気がしてならないからです。つまり「役を与えないとやらない」ってことです。そして、このような不信感からスタートしたグループは、その構成メンバーから自発性を奪ってしまうと思うからです。
「だれかこれやって」
「はーい」
これでいいとわたしは思います。いつも「はーい」の人は、どうしてもできないときは、他の人にふればいい。
「わたし、ちょっとできひんし、だれか他の人、頼むわ」
信頼感で構成されたグループであれば、いつも特定の人が引き受けていることはわかります。だから
「いつもあんたやってくれてるから、今回はわたしがやるわ」
となるはずです。
信頼感で構成されたグループでは、自分がやっていることを主張せずとも、みんなが動く。逆に言うなら、そういうグループに育っていくことが大切だと思うのです。
- 隙間は誰が埋めるのか
ひとつのイベントをするとき、現場では役割と役割の間に隙間ができることがよくあります。
この隙間を埋めるひとつの方法は、より完璧な役割分担をすることです。でも、それは無理だと、わたしは思います。
もうひとつの方法は、役割分担をゆるめて、相互に乗り入れられるようにすることです。でも、これもまた大規模になると混乱のもとになることが往々にしてあります。
もうひとつの方法は、役割のない役割をつくることです。そうすることで、その役割を担う人は、自由に隙間を埋める仕事ができるようになる。でも、そんな役割をつくるためには「仕事をしてくれる」という信頼感がなければ不可能です。
- いつきのトリセツ
で、わたしの感じた違和感は、なぜあえてわたしに役割をつけようとしたのかということです。おそらくはそこに「不信感」があると感じてしまった。つまり、「いつきは役割をつけないと仕事をしない」って言われてると感じてしまったっことです。これ、20年くらい前にさんざん言われて、たぶん過敏になってるんですね。で、つい「もうクリアした話のはずだったのに、まだそうか」と思ってしまったんですね。
わたしは、うちの職場でほとんど唯一名指しで仕事があたる人なんです。たいていは、仕事の役割分担はセクションごとに割り振られますが、「放送」だけは名指しなんです。逆にいうと、どのセクションにいても、そのセクションの仕事はわたしにはきません。
ちなみに、放送の仕事はわたしにしか割り振られません。なので、仕事上のペアはいない。常にひとりです。
こういう割り振りをしてくれることで、わたしはとても柔軟な仕事のしかたができます。他の人がいろんな役割をしてくれている裏側で、断線したコードの修理をしたり、とんだヒューズを買いにいったり、その他さまざまなトラブルに対応してきました。
ついでにいうと、一見まったく無関係な仕事(イベント)であっても、わたしは「自分がその場に必要だ」と感じたら、役割がなくても勝手にいってやってます。そして、たいていそれは結果として必要であったことがよくあります。
たぶん、わたしはジョーカーです。ババ抜きにおいては、誰ともペアを組めずに最後まで残るやっかいものです(笑)。でも、そのジョーカーがいないとゲームは成立しません。「大富豪」においては、ジョーカーはなににでもなりえます。でも、使ったらそれまで。そして、最後の一歩手前までに使わなきゃ負けちゃいます。とてもめんどくさいヤツです(笑)。
でも、うちの職場はそんなわたしに対して信頼感をもって接し続けてくれています。とても幸せなことだと思います。だから、その信頼感に応えようとも思うのです。そこには形式的な平等主義はありません。
でもなぁ…。
これって、かなりな甘えだよなぁとか、完璧にわがままだよなぁとか、いろんなことを思う瞬間もよくあるんですよね…。
自分でも自分の取り扱い方法がよくわからん…。
わからなさを求める
今日は月曜日のセンセとおたふく。
いや
「日本一おいしいお好みが京都にある」
と言ったら
「食べたい!」
と言われたので、
「じゃぁ行きますか」
となったという…。他のおべんきょ仲間も誘ったのですが、みなさんおべんきょ時間だったみたいで、残念!
で、いろんな話をして
「へー、ほー」
という感じだったんですが…。
「文章を読んでいて、違和感があるところにオリジナリティがうまれる」
ということをめぐって、わたしの不安感を話してみました。
「つい、理解しようとして、とりあえず理解しちゃうんですよね。特にいま読んでいる文章は」
基本的に、わたしは小器用なんですね。それがたぶんジャマする。安易に理解するんじゃなくて、たとえ小さくてもいいから、感じた違和感をきちんと育てることが大切なようです。
「いっそ、ぜんぜんわからない文章を読んでみたら?」
「あー、じゃ、やっばりニーチェとか」
「そうね、でもニーチェはわからなさを主張しながら、実は「わかって!」って言ってるのよね」
どうやらニーチェはツンデレみたいです。じゃぁ、そいつ、つきあってみますか…。
とある研修会にて、わたしが古い人間であることに気づいた
今日は試験最終日だというのに、なぜか研修会がありました。いや、「なぜか」というのは、うちの職場では基本的には定期テスト中には緊急時以外には会議を入れない「約束事」があります。これ、研修を企画する側にとっては確かに厳しいんですが、採点する側にとってはありがたい。で、わたしたちの職種の特性として「状況によって立場が変わるはずなのに、常にその立場から文句を言う」というのがありました、まぁ状況依存的絶対主義(笑)とでもいう感じなわけです。
で、この「文句」を押さえるベターな方法は「より文句が出ないように約束事を決める」という、正しさとは無縁な約束事をつくるわけです。
てことで、定期テスト中には研修が入らないはずなのに、今日はあったと。
で、こういうときの対処法はみっつにわかれていて、「1、何も言わずにサボる」「2、文句を言って参加する」「3、ニコニコ参加をする」となります。で、わたしは2の立場をとります(笑)。
いや、たとえ「約束事」を破っていようと、研修を企画する側としては、「企画内容への文句は言わない」「研修に参加する」は、仁義だと思っているんです。
まぁ、それはおいといて。
今日の研修内容は「hyper-QU」なるものについてでした。
これ、生徒が20問ばっかの質問に答えることで、その時点でのその生徒のクラスでの位置がわかるらしいです。具体的には満足度が縦軸に、いじめられ度が横軸にあらわれてきます。で、子どもたちの場所を座標平面にプロットすると、クラス全体の傾向がわかるというものです。
で、クラス全体を第1象限(笑)に集めると「いいクラス」になる。そのために、全体にどういう指導をすればいいか、あるいは第2~4象限にプロットされた個々の子どもたちにどのような指導をすればいいか。後者については個人の折れ線グラフまであり、なにに不満があったりしんどさを感じているかがわかるというものです。
う~ん。
まぁ、おもしろいっちゃぁおもしろい。便利といえば便利。でもなぁ…。
これ、わたしらが担任の時、こんな心理テストを使わずにやってきたことです。どうやったらわかるかというと、生徒たちと、さまざまな隙間の時間にムダ話をしたり、ヒマがあったら教室にいりびたって子どもたちの動きをそれとなく観察したり。
まぁ、そんな時間をかけずに同じことが効率的にできるなら、それは確かに助かることではあるかもしれません。みんな忙しいし…。
でも、「人を知る」ために「人としゃべらない・人を観察しない」で、どうするねんというふうに思うわたしは、古い人間なんでしょうねぇ。
研修はさらに続きます。
子どもたちと話をするためには「oneness」「weness」「I-ness」だそうです。まぁ「傾聴・共感・自己開示」ってことでしょうか。そのために「傾聴」のロールプレイです。
わたし、ロールプレイは苦手です。というより、キライです。
無視されながら聞かれてどうだった?「フンフン」と聞かれてどうだった?
いやぁ、「フンフン」といって共感的な芝居をされたら、恥ずかしくてよそを向いちゃいますよ。
ちなみに、とあるニューフェイスの教員は
「これ、今年にはいって4回目ですよ」
と笑ってました。
検査によって知るのはいい。マニュアルで対処できるのもいい。でも、そこになにかが欠落している気がします。
というより、生徒たちと過ごすムダな時間のなかからしかできないことがあるような気がするわたしは、やはり時代遅れなのかなぁ…。
変化
おたふくでの会話。
な「いつきさん、なんか変わったわぁ」
い「そうなん?わからへんわ」
ま「うん、変わった。なんて言ったらいいかなぁ…」
な「う〜ん、ラオウがトキになったみたいな」
ま「あ!それそれ!」
い「…」
ラーメンが鳥になったのか…。
解題・原点のありよう
昨日の「オチ」があまりにも恥ずかしいので(笑)。
わたしが教員になってすぐの約30年前、職場においてほんとうに「独り」やったなと。いや、あの頃はまだマシで、トランスをはじめた頃は、ガチで「独り」やったなと。あの頃に比べたら、なんと今は恵まれていることかと思います。でも、そこに甘えたらあかんなと思うのです。
わたしが教員になってすぐの約30年前、わたしはほんとうに「未熟」だったなと。いや、あの頃はまだマシで、トランスをはじめた頃は、ガチで「未熟」だったなと。あの頃に比べたら、まぁちょっとくらいはマシにはなっているなと思います。でも、そこに甘えたらあかんなと思うのです。
「独り」のありようも、「未熟」のありようも、年齢や状況によって違うとは思います。
しかし、「独り」であることを引き受けることによって、自分が主体であることを確認できるし、「未熟」であることを引き受けることによって、自分はいたらない人間であることが確認できる。その側面において「独り」や「未熟」が原点ではなく、それを「引き受けること」という行為こそが原点になると考えたということでしょうか。
まぁ、もっとありていに言うなら、「単なるクズ」だったわたしが生ゴミ化してクサッてきたので、とりあえず喝をいれただけのことです。