自分探しは「まんまる」で。

今日は「まんまるの会」です。ちなみに、会場の「まんまる」が移転した関係で、使い勝手とかいろいろ変わっている可能性があります。でも、とにかく行かなきゃわかりません。
「まんまる」に着くと…。お店がえらい繁盛しています。よかったのはよかったんですが、「会」がはじめられんな^^;;。ま、ええか。
てことで、2階の会議室みたいなところで今回の第一部をやることになりました。
今回のお題は…。「雨にまつわる思い出」にしようかと思ったのですが、自分でもネタが思いつかないので断念。「まんまる」の移転もあったことで「引っ越しにまつわる思い出」ってことにしました。
みなさん、けっこう引っ越しをしておられるんですね。特にトランスにとっての引っ越しは、いろんな意味を含むのかもしれないと思いました。
例えば、引っ越しを機会に、周囲の環境を変えて、少しずつ性別を移行していく。あるいは、過去の関係を断ち切るために引っ越しをして、トランスの一歩を踏み出す。みんな、最初はお金がないので、はっきり言って苦労話です。「家賃は二万円で」「トイレ・炊事場・お風呂は共同で」。みんな、そんな状態でどうやってトランスするねんというような環境で、それでも少しずつトランスをしていくんですよね。
「引っ越しのことを思い出したら、トランスはじめた時のことを思い出したよ」
なーんて話も出てくる。なるほどなぁ。ライフヒストリーを語ることは、自分史を再編成することなんだなぁ。逆に言うならそうやって自分史の再編成ができるところまでライフヒストリーを語れる。そんな人たちが集まってるんだなぁ。

で、第2部突入。
ここで、最近受診された方からの悩み相談(笑)からスタートした「診察室あるある」です。
「診察時間が短い!」
そんなこと思ったこともなかったので
「何分くらい?」
って聞くと
「5分」「いや、3分」
な、なんで…?あたしゃ、短くても15分は遊んでますよ。下手すりゃ1時間くらい…。あ、診察はしてないな(笑)。
「先生、なんにも言ってくれないんです」
「あー、あの先生、厳しいからなぁ」
みんな深くうなづいています。たしかに厳しいです。
基本的に、トランスなんて、自分がやりたいことがあってそれを実現するために扉を開けていくものだと思っています。で、扉を開けるのは他でもない自分以外にはいない。なので、「開けたい」という意志を自分が持ってない限り、誰も何もできない。
「なんか、話題を持って行ったら?」
「話題、特にないんです」
うーん…。慎重であるなら、それはそれでいいんですけど、「やりたいことがない」なら、そもそもジェンダークリニックに行く必要はないと思うんですよね。「ジェンダークリニックは自分探しの場所ではない」って話もあるわけで…。
でもま、そういう話をしながらも、「集まり方は緩く」がまんまるの会です。まぁ、自分探しは「まんまるの会」で(笑)。

正しさの主張

「正しい」と考えた瞬間、思考停止がはじまる。
思考停止した「正しさ」は、「正しさ」を主張する人の判断基準となる。すると、「自分の正しさ」に合致しない考えは「間違い」になる。「間違い」を糾すことが「相手のため」と勘違いがはじまる。それを聞き入れない人は「どうしようもないヤツ」となる。やがて「どうしようもないヤツ」はどんどん増えていく。それが、「自分の正しさ」をどんどん正当なものへと押し上げていく。自分への批判が増えてくても、「世の中は間違ったどうしようもないヤツだらけ」ってなる。
最後に残るのは「正しい自分」だけ。
幸せな世界。

あかん。
ぽえむやな^^;;。

こんなもん、見なきゃならんのか(;_;)

夕方、それなりに疲れて家に帰るわけです*1。で、お風呂に入って、ビール呑みながら晩ごはん食べて、家族でしゃべる。で、食べ終わったらテレビを見るわけです。
時は21時。NHKなんぞを見るとニュースなわけです。あのソーリが得意げにしゃべってる。うしろに援軍の人を小馬鹿にした笑顔。
そりゃね。ニュースは見たいです。それも「どこそこで事故があった」とかじゃなくて、今の日本が、今の世界がどこへ向かおうとしているのかという情報の「ある部分」を知るためにね。
でもね。報道のしかたも報道の中身も、あまりにも醜悪です。
「総理は演説をして、自分に酔ってますね」
とは、まぁその通りだなと。
別に政治屋の演説や自己陶酔の姿を見たいわけじゃない。

*1:「夕方か?」とか「帰ってるのか?」とかいうツッコミはなし(笑)。

コミュニケーション力

とあるところで「コミュニケーション力」についての興味深い話が書いてありました。ちなみに書いたのは20歳くらいのIさん。けっこう興味深い話を出してくる人です。
別に「若い視点で」みたいなことではないんですよね。てか、そーゆーのは大嫌いなわたしです。じゃ、なにがいいかというと、このIさん、自分が考えて迷って考えて迷ってってことをストレートに出してくれるんです。で、その迷って考えている過程を追うのがおもしろい。そのおもしろさの中で、自分も迷い考えることができる。
で、コミュニケーション力にまつわる話を読んでいて、ふと考えました。
「コミュニケーション」って聞いた時、ついオフェンシブなコミュニケーション=「話す」方について考えてしまうんですけど、ディフェンシブなコミュニケーション=「聴く」って必要なんじゃないかなって思ったんですね。
なぜこんなことを考えたかというと。
「話す」側って、まぁすごく大雑把に言うなら「その場における決定権」を持っているわけです。問題は、その「権」は、はたして「権利」なのか「権力」なのかってことです。
例えば…。
とてもその場をうまく盛り上げる人(Aさん)がいるとします。みんな楽しそうに笑いながら話をしている。たぶん、その盛り上げることができる人はコミュニケーション力の高い人なのかな。まぁ、そう仮定しましょう。でもねぇ。誰か(Bさん)が話題を出した時、その場においてその話題を採択するかどうかはAさんだったりするんですよね。で、「採択しない」となると流したり、あるいはその話題を笑うことでその場を盛り上げる。
まぁ…。明石家さんまみたいな?
で、わたしはこういうのはコミュニケーション力とはあまり思えないんですよね。というか、権力の行使であるとすら思ってしまう。
じゃあ、どういうあたりの力がコミュニケーションのために必要かと考えた時、ディフェンシブなコミュニケーション=「聴く」。もう一歩すすめるなら「聴きあう」ことかなぁと。これはどういう感じかというと、自分が権力を持ちそうになった時、その場の中心からずれて、権力から逃げるという感じ。あるいは「発話権」をどうスムーズに移行させるかみたいなところに神経を注ぐ感じ。
たぶんこれが、「とあるところ」の「続く」につながるんじゃないかなって思ったりするわけです。

んー。なんだか、とりとめがないというか、まとまりがないというか、説得力がないというか…。
ま、簡単に言うと、コミュニケーション力の高いおじさまは苦手ってことなんですけどね(笑)。

局所的満員電車

出勤途中の電車にて。
わたしはいつもベンチシートの端の席に座るのですが、隣に座る人によって、その快適さはおそろしく左右されます。
今日の人は、異様に接近してる。とにかく肩がぶつかるすれすれです。しかも、横に立ってる人はベンチシートの横にあるバーにもたれかかる…というよりも、軽く腰掛けてる状態です。なので、徐々にわたしの上空に上半身がはみ出てきます。これはきつい。ものすごい圧迫感です。局所的満員電車です。
念のために、車内の他の「端席」を見てみると、そんな思いをしてそうな人は誰もいません。
これはなぜなんだろう…。

てなことを二時間目の授業の雑談でしたりするわけで(笑)。
「あるある!」
とかいう声とか、メッチャ「わかるー」という笑顔とか、いろんなエールをもらいました。
そうそう。
女性専用車両とか、メッチャ等間隔やんなぁ」
というある子どものツッコミには笑いました。
ええなぁ(笑)。

報道ステーションにて

栃木の小学生の殺人事件。
容疑者のエスニシティは報道しなくちゃならないことなのかなぁ。てか、いらんでしょう。
個人の属性のうち、なにが報道に必要で、なには不要かということをもっともっと吟味しないといけないと思います。
なんしか、とりあえず「生まれ」はいらんやろ!

困った人

まぁ、仕事してると「困った人」はぼちぼちおられます。もちろん「困ってる人」じゃなくて「困った人」です。こういう人がいると、チームワークがうまくいかないどころか、仕事全体がまわらなくなって、へたすると仕事そのものがつぶれてしまうことすらあります。
まぁそんなこと…。経験したことありますねぇ…。ほんとにいままでできていたことが、ことごとくつぶれていって、その弊害は長く残ります。あの時「つくるのはみんなの合意をとったりしてたいへんだけど、つぶすのは一人のわがままでいけるんだ」って身にしみて思いました。
てのはどうでもいいんですが…。
で、その「困った人」なんですけど、たいていの場合、その本人は「困ってない」んですよね。で、まわりが困ってる。だから、本人は変わる必然性なんて感じていない。でも、困ってるまわりの人は変わってほしい。
こういう時、どうすればいいんだろう。
本人が困る時を待つ?
たぶん、それ、ない気がします。だって、今まで困らなかったから変わってないんです。
本人のパーソナリティーを強制的に変える?
基本的にまわりで困ってる人は、そういうおこがましいことは考えないものです。
配置換えを待つ?
なんか、排除してる気がするので、そういうことを考える自分に対して自己嫌悪を感じるんですよねぇ。
ほんとに打つ手がないんです。
まぁ、実は一番現実的なのは「配置換え」だったりするんですけどね。そしてそれは、一番根本的ではない解決方法だったりするんですけどね。
うーん…。

まぁ、でも、うちの職場で一番「困った人」は、わたしなんだろな…(笑)。

圧力を高めること

仕事にしろ、考えを深めるにしろ、それをするための条件はひとそれぞれな気がします。
どこかにこもって、ひたすら集中を高めて出していくタイプもいれば、例えば散歩をしながら考えるタイプもいるかと思います。で、わたしは…。
たぶん「ながら族」ですね。
身体は頭を使わない雑務をしながら、頭は別のことに振り分ける。こうすることで、頭を単独で動かすための、けっこう長い時間が確保できます。でも、頭と身体が同時に動かせる時間はけっこう限られています。
で、そうやって漠然と考えながら、考えの圧力を高めていきます。まぁ、例えて言うならば、時間がペットボトルで、考えが空気ですね。
充分に圧力が高まると、ペットボトルはロケットとして飛んでいきます。それが「言葉」みたいなイメージです。
なので、一番大切なのは、圧力を高めること。でも、これが難しい。バラバラな「考え」や頭の中にちりぢりに存在している「キーワード」を、ていねいに拾い集めて、それを、綿菓子を支えるようにふんわりと持つ。そこまでの過程がなかなかできません。
たぶん、何かが足りない。集めるために中心となる地点?でも、中心はあらかじめあるのではなくて、それは結果として存在するもののはずです。
そんなことを漠然と考え続ける以外、わたしには方法はなさそうです。
でも、それこそが圧力を高めることらしい。

遠くにあるものは実は近くにある

今日は一日出張だのなんだの。
で、午後の出張にて…。
某研究会の議案書を事務局長が読み上げているのを何気なしに聞いていると「ヘイトスピーチ」という言葉が耳に飛び込んできました。瞬間「お!とりあげるのか!」と思って文面を読むと…。なーんかイマイチです。なんだろう。踏み込み方が浅い?ふだん、ツイッターで読んでいるカウンター仲間の肉声とはまったく違う、血肉となっていない感じ?
まぁそれはしかたないのですが、どうせ取り上げるなら、もう少し自分の身のまわりに寄せなくちゃ。
で、小学校のレポートを聞いて、もやもや。
「いじめ」に関する授業実践ですが、一時間の討論を通して「いじめはよくないと思った」とみんなが考えたそうな。いや、それはそうでしょう。みんな「いじめはよくない」と思っていますよ。問題は「いじめが起こったらどうするか」いや、「いじめが起こらないためにはどうするか」という問いかけへの具体的な行動をどう見つけるかでしょう。
ま、そんなことを考えて、
「「いじめはよくないと思った」はいいんですが、その次の一歩を踏み出すためにどうしたらいいかということについて、きっとお考えがあると思うのですが、そのあたり、どうお考えか教えていただければ」
と質問。ところが、答えは
「考えていません。あれは4年の時の実践で、6年になった今も男女なかよくやっているので、それでいいと思っています」
とのこと。一気に頭に血がのぼったのですが、ガマンガマン^^;;。
で、意見発表の時間が来たので、つい挙手。

いじめにとりくんだ小学校のレポートを読んだ時、「いじめはいけない」と答えた小学生を、中学や高校でどう育てていくのかということを考えました。
話は少しずれますが、数ヶ月前に神戸の朝鮮高級学校を襲撃する事件が起きました。どうやら暴徒は心神喪失だったらしいのですが、先生に対して「朝鮮人だな」と確認して暴行をふるったとのことでした。
あの事件を聞いた時、「朝鮮人に暴力を振るってもかまわない」という空気がわたしたちの社会にあるから、あの事件が起きたんだと思いました。では、わたしになにができるのか。
あの日を境に、わたしは「京都に差別はいらない」という缶バッチをリュックにつけるようになりました。「差別を許さない」という市民がいるとうこと。そういう市民の声が、この社会にあふれていれば、あの事件は起こらなかったかもしれないと思ったのです。
研究課題の中にヘイトスピーチがとりあげられていましたが、「異なる文化を持つ人等への」とあります。しかし、レイシストたちは、水平社博物館を襲い、朝鮮初級学校を襲い、デイケアセンターを襲っています。つまり、部落や子どもたちや老人、あるいはヘイトスピーチの現場では女性にヘイトが向けられています。つまり、マイノリティへの「いじめ」であると思うのです。
そして、まさに昨日の夜、高校生がツイッターでヘイトをつぶやき、多くの人が抗議するという出来事がありました。その高校生はLINEで連絡をとりあっていたといいます。もうひとつのレポート、コミュニケーションにかかわる課題でもあります。
ヘイトスピーチは遠くにある問題ではなく、わたしたちがかかわっている子どもたちの問題です。「いじめはいけない」と答えた子どもたちが、その後どう育っていくかという問題であると思います。
そのために、あの小学校のとりくみを、わたしたち中学校や高校の教員がどう引き継いでいくのかという問題なんだと思い、ひとこと発言をさせていただきました。
ありがとうございました。

まぁ、ヘイトスピーチを「いじめ」なんていうふうに表現するのは、かなりアカンやろと思うのですが、レポートにからめるための無茶です。

それにしても、たったこれだけのことを発言するために、どれほどの緊張があったことか。
なにしろ、質問も意見も誰も言わない中で、ひとり「かみついている」みたいな構図のわけです。まさに「KY」です。
でもいいんです。「AKY」であり「MKY」です。
ここで「空気」に抗うことも、ひとつのカウンターなんだと思うのです。

発言したあと、手の震えがとまりませんでした。そんな手の震えをとめてくれたのは、facebookの向こうにいる「カウンターなかま」でした。
カウンターに参加しはじめて1年ちょい。「許さない」と具体的に声をあげる人はまだまだ少数です。でも、地球上のどこかで発せられたヘイトの声が、実は身近なところにあることを感じ「許さない」と声をあげる、そんな「なかま」のつながりと力を感じました。

教わる立場

どんどん試験範囲が終わるので、これは困ったなな3年生の授業。しかたないので、文化祭の演目ぎめの話とかしてたら、ある生徒が突然井言いはじめました。
「性別って言葉、おかしいと思うんです。だって、2つにわけられるってことでしょ?でも、ほんとはいろんな性があるんですよね。例えば、自分のことをどう思うかとか、誰が好きになるかとか…」
「そんなん、どこで勉強したん?」
「テレビで見て、すごく興味を持ったんです」
「ふーん(^^)」
ついつい
「他にも「社会の性」ってのも考えられるよね。あとね、身体の性も…」
って言おうと思って、やめました。

なんだろう…。
一生懸命考えながら、自分の中から言葉を見つけて、わたしに考えを伝えようとしてたその子の姿は、「性の多様性」がその子の中に位置づいていることを感じさせてくれたんです。
だから、わたしは「教えてもらう立場」を大切にしたいと思いました。
その時の気持ちは…。
見知らぬ街で、ふいに懐かしい顔と出会えた感じ?
とてもうれしかった。