今でなくてよかった?

で、なんとなくテレビを見ているうちに「深いぃ話」にチャンネルをあわせてみたのですが…。
なんか、スポーツ女子の話で、文系&個人スポーツ系のわたしには理解不可能なことがやりとりされてて、なんだこりゃ?と。
そのうち出てきたのが、欽ちゃんがつくった野球チームゴールデンゴールドの片岡監督。女性監督として男性たちを束ねるという話です。話がジェンダーまみれです。なんかもう、イヤになります。もちろん、個人として「すごいな」とは思います。が、片岡さんがすごくならざるを得ない背景にあるジェンダーについてはまったく不問です。まさに「ジェンダーの個人モデル」です。「社会モデル」は一片も出てきません。
そんな話に辟易しながらふと思ったのが「こわいな」ってことです。それは、小学生中学生の頃の片岡さん、今なら多分「トランス男性」にカテゴライズされてるんじゃないかな。そして、そのカテゴライズは、片岡さん自身を束縛する。
番組の結論は「女性監督として辞めたいと思ったこともあったけど、欽ちゃんの「可愛がられる監督になれ」という言葉を思い出して、やり直した。今は女性としてできることがあるということがわかって、女性である自分を好きになった」みたいな話で、これはこれで「なんだかな」なんだけど…。
もしも片岡さんがトランス男性にカテゴライズされ、自分もそうやって生きてたら、この感情はどうなったんだろう。そう思うと、周囲が自分の「普通」を問うことなく勝手にカテゴライズすること、あるいはカテゴリーを安易に提供することの怖さが、しみじみとやってきました。

そりゃ、いじめはなくならんわ

テレビをつけてみたけど…。
木曜日なのにケンミンショーがない(;_;)。もう、スペシャルはいいよ。どうせ、芸人が格下の芸人をいじるだけだろ。そんなのテレビで見てる子どもたちが、「格下」と思う子どもをいじるのは当たり前だよな。そりゃ、いじめはなくならないよ。
と思ったら、森友学園の保育園が閉園かもというニュース。まぁ、閉園してもらうのはまことにけっこうなんだけど、やり方がこわい。だって「保育士は3人いればいいと思ってた」という認識でずっとやってこられたのに、問題が表面化し、さらに権力にたてついた瞬間、掌を返したように閉園までもっていく。維新も日本会議も切り捨てです。これ、権力による制裁としか思えない。「歯向かうとこうなるぞ」と。
制裁の怖さはどこにあるかというと、制裁を受けたものじゃなくて、その姿を「次に歯向かうもの」への見せしめにして、歯向かえなくするところです
芸人のいじりもこわいけど、これはもっとこわいな。
そりゃ、学校のいじめがなくなるはずがない。

去年を越えられない

ここ数年は「新入生オリエンテーション」はどこぞの大会議室を使って1日でやってたけど、今年(から?)は1泊でやることになりました。おかげさまで、担当教員は年度末からえらいことになってます。
で、去年からはじめた「最初の人権学習」。今年もすることにしました。てか、ここ数年「ないこと」にされていたので、去年反撃の狼煙をあげて、それまでカリキュラム的にあった「新採オリエンテーション」に加えて「新転任オリエンテーション」「新入生オリエンテーション」「教育実習生オリエンテーション」で人権の時間を確保したんですよね。
で、会場へ。
みんな神妙な感じです。初々しいな。
まずは支店長の話。そして、会場の方の歓迎のあいさつ。番頭格おふたりの話。番頭格のおふたりは、けっこうあっさり気味です。その前に伸びた分のリカバリーのためにネタあわせをしておられたのは、ここではさすがと言っておきましょう。
その後、おべんとタイムの前のインフォメーションで「家から持ってきたお弁当」なる発言。あー…。まぁ、家から持ってこない子がすごく多い状況だろうから、みんな気にしないだろうけど、中には絶対に心の中でツッコんでる子、いるだろうなぁ。なぜにいらないひとことをつけるのかなぁ…。

昼食後は救護班長の話。そして、検非違使チーフの話と進むわけですが、全員男性。ジェンダーバランスが悪い。
で、ジェンダーバランスを崩すべく(笑)、わたしの出番。ですが、ダメですね。去年の話を越える話を考えられないです。てことは、今年のオリジナルじゃないから力がない。致命的です。とりあえず、ひとつだけ追加かな。

幸せを計算に例えるとどうなるかな。
人によっては「割り算」と答えるかもしれません。つまり、100の幸せを10人でわけるとひとり10だけど、20人でわけるとひとり5になる。
でも、わたしは「足し算」と考えてるんです。幸せな人が増えれば増えるほど、幸せの合計は増える。そして、量が質へと変化するとき「掛け算」になるかもしれない。

まぁ、「量が質へと変化」のくだりはしゃべりませんでしたけどね。
まぁ、4月の終わりに「人権とはなにか?」の授業をこの子らにする予定なので、それで勘弁してもらおうかな。

家に帰って、子どもたちに「人権とはなにか?」のプレゼンを見てもらったら、それなりに好評でした。
その後、なぜか映画「スティーブ・ジョブズ」を見るはめになってしまい(笑)。

クレージーな人たちがいる
反逆者、厄介者と呼ばれる人たち
四角い穴に 丸い杭を打ちこむように
物事をまるで違う目で見る人たち

彼らは規則を嫌う 彼らは現状を肯定しない
彼らの言葉に心をうたれる人がいる
反対する人も 賞賛する人も けなす人もいる
しかし 彼らを無視することは誰もできない
なぜなら、彼らは物事を変えたからだ
彼らは人間を前進させた

彼らはクレージーと言われるが 私たちは天才だと思う
自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが
本当に世界を変えているのだから

Think different.

あー、刺さるわー(笑)。
まるでわたしの「複素数」の授業の導入だな(笑)。

自分も歩いた道

考えてみると、トランスジェンダーとして生きはじめて17年くらい。自分がトランスジェンダーとわかってからなら20年。ずいぶんと長くやってきたなぁと、あらためて思うわけです。
で、あたりを見渡すと、ようやく自分のことに気づき、ようやく自分の生き方を生きていこうと決意された方もおられるわけです。そんな人の姿を見ると、20年前の自分を思い出します。
たしかにあの頃はしんどかったです。これからどう生きていくのか、わからなかった。理解者は近いところにはいないと思っていました。だから、遠くの人とやりとりすることで、なんとか自分を保ってた。
でも、少しずつ少しずつ、「ありたい自分」と「あることができる自分」が近づいてきて、そして「遠くの人」も増えていく中で少しずつ「近くの人」もあらわれてきて。そんなふうにして、現実の中で生きられるようになってきました。あの頃はとほうもない長い時間をかけた気がしてたけど、今振り返ると、ほんの数年のできごとでした。
いま、渦中にいる人も、きっとあと数年して、自分なりの生き方を見つけられて、ふと振り返った時に「あー、がんばってたなぁ」と、「あの頃の自分」に痛さを感じながらも優しく見つめるようになるんだろな…。

身の上話

今日はstn21のミーティングでとある居酒屋へ。まぁ、決めなきゃならないことは決めたのですが、このミーディング、基本的には当事者ばかりなのでおもしろいです。で、決めなきゃならないことを決めたあとは雑談になるんですけど…。
それぞれがそれぞれのことを話しているのを聞いていると、不思議な感覚に襲われました。

わたしは、基本的には「誰もがその人の人生における当事者」って思ってます。ただ、マジョリティは「他者との違い」がなかなか感じられないので「自分にはトピックがない」って思いがち。それに対してマイノリティは「他との違い」をより強く感じさせられているから「語る言葉」を持たされる。
なんか、「語る」ということについては、その程度の違いしかないんじゃないかと思うのです。
で、例えば当事者であり非被差別者の人が自分の経験を語ると、それは「身の上話」と呼ばれるんですよね。それに対して、当事者であり被差別者の人が自分の経験を語ると、それは「カミングアウト」だったり、時として「講演」だったりするわけです。
でも、当事者の被差別者の話を「身の上話」として捉えると、案外おもしろいかもしれないです。というのは、さまざまなバイアスをはずしていくと、それは他に代えがたい「個の経験」に結びつくはずで、そこに「ステレオタイプ」が紛れ込んているとすると、その語りは「ステレオタイプに取り込まれた語り」であることが明らかになってしまうからです。逆に当事者の非被差別者の話を「ステレオタイプに取り込まれない個の語り」として聞くことができたら、それはその人が自分を見つめる手法なんかも含めて、すごく学ぶことがあるんじゃないかなと。

なんてことを考えていると、酔いがまわりますわ^^;;

ふたつの学力があったな

「卒業生の会」の翌日は、京都の交流会です。たぶん今日も誰も来ないです。まぁ、宣伝が遅かったのもあるんだけど、なによりも連れてきてくれる人がいない。
なぜなのかな…。
もちろん、わたしがなかまをつくれない人であることは大前提としてあるわけですが、原因はそれだけではない気もします。これ、前からずっと考えていたんですけど、たぶん「受験の学力」と「解放の学力」論議にからまっているんじゃないかと思うのです。
京都の「同和」教育は、実は「学力・進路保障」を中心にすすんで来ました。もちろん、それそのものは否定するものではありません。だって、それを奪われてきたムラの子らにそれらを保障するのは当然のことですからね。でも、その一方、「自主活動」については弱いんですよね。これは、全同教大会のレポートを見れば一目瞭然のはずです。「自主活動」ってなにかというと、「つながる力」なんですよね。そして、その「つながる力」を獲得する中で「アイデンティティ」の問題とぶつかるのです。「自分とはなにか?」「つながる接点はなにか?」「なぜつながることが大切なのか?」といった問の先に「つながる力」があると思います。で、京都はこれがとても弱い。その代わりに、「教育内容」のレポートはあったりするわけです。
で、「学力・進路保障」と「教育内容」に共通しているのはなにかというと、ともに「教える」という行為であるということ、そしてそれは「教員」という仕事をする人間ととても親和性が高いということです。と考えると、例えば「体育系クラブ」もそうです。すべて「教える」です。
それに対して「自主活動」を「アイデンティティ保障」と言い換えるなら、これはどちらかというと「生徒(≒当事者)」から「教わる」行為ということができるかもしれません。なぜなら、「教員(≒非当事者)」は、そんなこと教えるなんて不可能だからです。で、これ、「教員」という仕事をする人間とは親和性が低い(笑)。ちなみに、「つながる力」「アイデンティティ保障」を、おそらくは「解放の学力」と呼んでいたんじゃないかな。
と考えると、「学力・進路保障」という「受験の学力」を軸にやってきた京都は、「教員という仕事をする人間」との親和性ゆえに、とても広範に「同和」教育にとりくんでこられたけど、それは諸刃の剣だったということです。つまり、「アイデンティティ保障」を、表面上は置き去りにしてしまった。もちろんやってた人はいるんでしょうけど、体制としてはそれをひとまず横においていた。
ちなみに、わたしは「教える」のがキライなんですよね。めんどくさい(笑)。だから、「受験の学力」にさほど魅力を感じなかった。で、どちらかというと、もがいてる子どもを見るのが好きなので「解放の学力」へと惹かれていった。でも、これは京都がひとまず横においていた内容で、そこツケがここに来てやってきた。
「もがいてる子ども」を見るのは楽しいんですよね。そこからなにが生まれてくるかをじっと見つめることはとてもドキドキします。でも、「教える」のが好きな人はそこにコミットして方向づけしようとしちゃうんです。そうすると「教員と子ども」のつながりはできるけど、子ども同士のつながりは育たなくなってしまう。ところが、教員は子どもとつながれるから、なんか自己満足しちゃうんです。だから、ますます、その「正しさ」を感じてしまう。
ちなみに、クラブも「教える」わけで、やはり教えるのが好きな人向けなんですよね。
「脱教える」を流行らせたいなぁ…。

暴れたった(笑)

今日は教科の飲み会です。身も心も文系のわたしが行ってどうなるかって話ですが…(笑)。
いつもこの呑み会は楽しいのですが、今回は暴れました。というのは、わたしに燃料投下する人がいるんですよね。まぁ、いつものことですけどね。で、今日も燃料投下されたので、爆発しました。
まぁでも、なんしか日が悪い。昨日の今日ですからね。荒れるに決まってます。そんなわたしに燃料投下してどうすんねんと(笑)。
なんしか、この間、たまりにたまった怒りが噴出したら、みんな黙りました(笑)。
まぁええわ。ふだんはボヤいてるわたしですが、実は怒ってるってことを知ってもらうことも大切かな。でも、そのことで味方を減らさないことも必要かな。味方の声はたいてい小さいです。というよりも、声の小さい人が味方なんですよね。
お店を出る時に肩を抱いてなぐさめてくれた教員がいて、その時は泣きそうになりました。
味方には共感を。中間層には魅力を。そして、それ以外の人には理論武装を(笑)。

PDCAサイクルのこととか

最近上野千鶴子さんの発言が炎上していますが…。ヘタレのわたしは、SNSではなくブログに書くわけですが。
あれ、皮肉なんじゃないのかなぁ。あるいは反語表現?もしかしたら「If I were」の世界。まぁ、雑なところは多々あるんだけどね。
わたしは、この間、ずっと「右肩上がりの幻想はやめよう」と思ってます。「いつまで成長したいねん」と。「去年の身体計測の時より2%身長が伸びるのが目標」なんて、無理に決まってます。もちろん、経済と身長は違うから、ダメダメな比喩ではあるし、経済については疎いから、もしかしたら打出の小槌のように成長は可能なのかもしれないけど、でもね。
例えばPDCAサイクルというやつ。あれ、再現性が高いところにおいて「カイゼン」するためのひとつの手法なんだけど、それが教育現場にも降りてくる。教育現場なんて、再現性が限りなくないところなんですけどね。
ひとつの例として、進路達成をあげると。例えば、大学進学率をあげるという目標があったとして、同じ生徒が同じ条件で何年にもわたってチャレンジしたら、もちろん教育の成果が一定測定できるかもしれないけど、そんなことはありえないです。たぶん、一番大きな要因は入学生の学力なんで、そうなると入力変数の要素がすごく大きくて、効果の測定なんてできるはずがない。さらに、進学率の上昇をパーセンテージで設定した日にゃ、指数関数で、底は1より大だから、極限値は発散するに決まってます(笑)。
なんかね。無理なんですよ。もちろん、一定のところまでは可能なんだけど、どこかで転換点はある。そこでやり方を変えないとダメだと、わたしは思ってるんですけどね。
なーんてことをもやもや考えていたら、「なぜここに日本人」で、フィジーで学校を「立て直した」人の話が出てきて、またもやこれかと。
立て直したきっかけは部活(笑)。
いや、なかなかやり手だし、熱意も行動力もあります。とてもいい人です。
でも、部活(笑)。きっと、日本にフィードバックされる気がする。
なんか、暗澹たる気分になりますねぇ…。

これはしんどいな

巷を騒がしてるこの話ですが…。
すでに「暴力はダメ」とか「トランス男性のジェンダー観」とかいう話はいっぱい出ているので、まぁおいといて。
やはり、うちのことを振り返るわけです。
まぁ、この人は実子じゃなくてわたしのところは実子なんですけど、そこに差はあるのかないのか。わかんないです。ちなみに、わたしは血統主義はとらない立場なので、「差はない」と思いたいです。でも、血統主義をとる人にとっては差はあるのかもしれないですね。
それにしても、「特例法」に「子なし要件」があることの理由として
「ある日、突然お父さんがお母さんに変わったら子どもがかわいそう」
って話があって、それをもって「子の福祉」が理由になった経緯があります。
ちなみにかつて書いた文章にこんなことを書いてます。

この特例法が出る1ヶ月前、2003年6月12日の朝日新聞に社説「苦しみに終止符を 性同一性障害」が掲載されました。この社説では、「(子なし要件があっても)法案を一日も早く成立させることを優先してもらいたい」としています。また、「子なし要件はやむを得ない」ととれるニュアンスとして「けれども子どもの立場に立って考えてみるとどうだろうか。たとえば父親だと思っていた人が、ある日から女性になる。子どもがそう言う事実と向き合い、受け入れるのに大きな困難がともなうのも事実だろう」としています。
しかし、当事者はある日突然「男から女」あるいは「女から男」に変わるわけではありません。長い年月をかけて家族と話しあい、さまざまなハードルを家族と一緒にクリアしながらトランジションをすすめていきます。そういう現実を知らず、想像で物事を考え、それが法律として成立していくことに、大きな不安を覚えます。

これを書いた背景には、わたしの家族のことがあるわけです。
別に、うちの家族が順風満帆だったわけではないです。いろんなことがありました。でも、なんとかかんとかなかよくやってます。
あの「子なし要件」へのアンチを、長い時間かけて実証してきたつもりでした。そして、そんな人は、実はたくさんおられます。
でも、それへの反例として利用される可能性がある。そして、反例はひとつでいい。
まぁ、特例法の「子なし要件」が「未成年」に「緩和」されたことで、すでに世間の関心は「手術要件」に移っているんじゃないかと思うのですが、そしてそのことはまったく正しいわけですが、そして、件の人もそこと闘っておられるわけですが、それをするためには、他のところを固めなきゃとも思うし、逆に、個人的には「子なし要件はいらねーよ」ってところに、やはりこだわりたいところなんですよね。

久しぶりにいい時間だった

いま、授業は鉄火場です。いい成績をとってる子はまぁいいんですが、一度か二度、いやそれ以上コケた子は必死です。
範囲は「対数」。わかる子にはものすごく簡単です。だって、かけ算を知らない人のためにある計算だもん(笑)。でも、わからない子にとっては撃沈もんです。なにせ、ふだん四則演算で過ごすのがやっとな子に、いきなりすべてを指数で考えろというわけですからね。ありがちな話ですが「2の3乗は?」「6!」「ちゃうで」「え?いくら?」みたいな世界なわけです。
ちなみに、これ、「2の2乗は?」という質問は答えが同じになるからダメですね。じゃ、「2の4乗は?」もダメなんです。気づいちゃうんです。さらに「3の2乗」もダメです。「2の3乗」が引っ掛けるのにちょうどいいバランスなんです、なぜか(笑)。
で、今日のお題は「3乗根6を3乗したらいくらになるか」でした。
「3乗根6はいくらなんかわからへんねん。でも、それを3乗したらわかるねん」
「そんなん、わからへんかったらわからへんやん」
「いや、わかんねん。3乗根6ってな、3乗したら6になる数やねん。それを3乗するねん」
「え…。0?」
「ちゃう(笑)」
教室内は爆笑です。が、笑ってるヤツらの影で、ぜったい「0」とか思ってるヤツがいます。幸い、この子は爆笑にめげるヤツではありません。それよりも「これがわからなかったら、今年の数学終わるし、クラブでけへん」と思ってくれるタイプです。
「そやし、「3乗したら6になる数」^3はいくら?」ってことなんやで」
「あー、ゴチャゴチャしてきたー」
「じゃ、「3乗したら6」がわからんから、?であらわそか。てことは「?^3=6」やんな」
「あ、あ、あ…」
「で、この?が「3乗したら6」なんやし…」
「あ!6!」
「やったぁ!」
クラスは「おー」とどよめいてます。
「じゃ、3乗根6を6乗したらいくら?」
「36!」
「っしゃ!カンペキや!」
と、向こうの方から
「せんせい?」
「なに?」
「こいつ、3乗根6は6の1/3乗で、それを3乗したら1乗になるから6って言ってるんやけど、それでもええか?」
「もちろんええよ」
「あ、そっちのほうがわかりやすいわ」
「そらそや。だから指数法則なんていう法則があんねん」

1年にほんの数えるほどしかない、でも、「これやってるから教員やめられない」というほど、わくわくする時間でした。だって、子どもが必死でものを考えて、もがいてもがいて、そして自分で気づく瞬間に立ち会える仕事は、ほかにそうそうありません。
と、ちょうどチャイムがなりました。
「今日はいい時間を過ごさせてもらったわ、ありがとう。じゃ、またあした!」