謝ったり意見を言ったり

今日はとある事情で5時過ぎに起きて、6時前に家を出て、職場に着いたのは6時半過ぎ。さすがに職場にはあまり人がいません。が、いる。こんな時間に出勤してるのはおかしいよ。
始業まで2時間弱あるので、いろんなことができます。まずはブログか(笑)。その次は…。センセにメールかな。この間センセにメールしたけど、あれ、完全におかしかったです。なぜおかしかったかというと、脳みその励起状態があまりにも長く続いていて、完全にトリップしてました。たぶん読んだセンセも「こいつ、おかしい」って思われたんじゃないかな。返事がありません(笑)。
てことで
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先日は、わけのわからないメールを送ってしまい、すみませんでした。完全に脳みそがオーバードライブしていました。
論文の目的ですが、とても大切なことをまず言わなきゃならないことがすっかりとんでいました。
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というメール。
やはり深呼吸が大事です。てことで、3を再びリライトしようと思ったけど、アカン、雑務が先です。
なにせ今日は午前に授業が3コマ+午後は研究授業の参観&合評会です。研究授業なぁ、しかも合評会なぁ、しかも本店からえらいさんが来るのかぁと思うのですが、しかたないです。ノルマです。

今日の授業は、実は楽(笑)。ほとんどプリントです。なので、3・4・5をチラチラ読みながら、質問に来た子に教えるなど。
午後の研究授業は、いつもの通り前から見ます(笑)。はじめは違和感があるかもしれないけど、気配を消すのは得意なので、すぐに慣れるでしょう。それにしても元気な教員やな。
合評会では全員がひとこと言うらしいので、
「感想が2つと質問が2つと意見が2つあります」
と前置きして
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感想1、生徒がマスクしてるとあくびが見えないからやりにくいね
感想2、ずっとしゃべってたね
意見1、数学って、教員が知ってることに気づかすわけで、それってたんにもったいぶってるだけやんって自己嫌悪に陥りながら授業してるねん。さっさと結論言えばいいのにね。それでも「気づき」を生徒に経験させたいなら、その授業のどこに「気づき」を設定するかが大切なんとちゃうかなぁ。問題を解くための「発想」なのか、その発想をふまえた「解き方」なのか、はたまた他のところなのか。
意見2、ずっと「この問題は難しい」と言い続けてたけど、「これ、わかれば簡単」という言い方もあるよね。対象にもよるけど、どっちがいいのかな。
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みたいな話。まぁどーでもいい話です。てか、数学なんてわからんし(笑)。だから数学教員らしくないことを言わなきゃね。
合評会が終わったらリハビリ。
その後家に帰って、帰りに買ったあん肝を蒸してみたり。これ、うまそうだわ。
おっと、zoomの取材の時間です。30分ほど学部生さんと話。さぁ、おべんきょだ!1時間ほどおべんきょして、さぁビール…。アカン、仕事持ち帰ってたの、忘れてた(;_;)。まぁええか。9時前まで仕事して、ようやくビールです。
と、メールチェックしたら、せんせから返事が来てました。
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そのぐらい、頭がぶっ飛んで書き直しが進むと、きっと良い論文になります。
楽しみにしています。
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さすがやo(^^)o。

「熱と光を求めて ―水平社創立の思想に学ぶ―」とか

今日は午後から某人権教育研究会の大会です。とは言え、例年は分科会にわかれるのですが、今回は全体会の講演とレポート発表です。どうなることやら。
とりあえず、授業変更して、しかも2コマ目は最後の10分を他の人にお願いして、駅まで走ってなんとか大会に間にあいました。
記念講演は駒井忠之さん。タイトルは「熱と光を求めて ―水平社創立の思想に学ぶ―」です。ちなみに、駒井さんとは6年前にご一緒させていただきました。
話の内容は…。おもしろい!
水平社といえば朝治さんだったりするわけですが、駒井さんもすごいなぁ。曰く
「水平社創立宣言の中には「差別」という言葉は1回も出てこない」
「「人間」という言葉が10回でてくる」
なんていう話は、なんで気がつかなかったんだろうと。でも、それに気づくことが研究者なんでしょうね。
あと、結論がおもしろい。簡単に言うなら「差別しちゃいけない」という否定ではない語り方をどのようにしていくかということです。それが水平社創立宣言の「差別」という言葉がないという話とつながるわけです。じゃぁなんだというと、そこで出てくるのが「カミングアウト」だったりするわけです。このあたり、渋谷で話した内容とも関係が出てきます。
もちろん、水平社創立宣言の「穢多であることを誇りうるときが来たのだ」という、カミングアウトする側の問題もあります。ただ、駒井さんの話でおもしろいなと思ったのが、筒井康隆の断筆に寄せて書かれた坂田明さんの「長谷川きよしさん」にまつわる話だったりします。視覚障害の長谷川きよしさんに「ここ、暗いから気をつけろよ」と坂田さんが言う。すると長谷川さんが「オレ、小さい頃から暗いの得意なんだ」と返す。そういう関係ですね。ちょうどこの間の「オレ、inpairment」って話とリンクするかな。
で、大切なのは、そういう話って、実は最初に「ボケ」ないとあかんわけです。で、いわゆる被差別の側にある人にボケるのはけっこうハードルが高い。じゃ、なぜハードルが高いかというと、そこには差別被差別の関係が横たわっている。もう少し正確に言うと、「ボケ」側が越えなきゃならない「差別の社会構造」があるわけです。このあたりが「本名を呼び名のる」って話と結びついてくるのかな。
そんな感じの、いろんな刺激のある話でした。
当然のことながら、終わってから控え室に突入。あいさつさせていただきました。

後半はレポート。
中学校のレポートですが…。がんばってはるのはわかります。てか、すんごいたいへんだったんだろうな。でも、保護者と本人しか出てこないレポートは人権教育研究会のレポートじゃないんだよな。なので「クラスの日常会話の中でAさんの話題って出ましたか?」という質問をしようと思ったのに、あててもらえませんでした。やれやれ。
高校のレポートは、本来はサポーターとして発現しなきゃならなかったんだろうけど、ついつい「指摘」にまわってしまったり。まぁセクシュアリティネタなんでしかたないです。にしても「悩みを抱えている」という感覚なんだよな。うーん。
大会が終わってから、何人かの人に「中学校のレポートに何を質問しようとしてたのかがメッチャ知りたかった」と言われて、思わず内心笑ってしまいました。そんなにわたしの質問が気になるのか(笑)。そんなことを考えるみなさんが考える質問と同じですよ。なので、「クラスの日常会話の中でAさんの話題って出ましたか?って聞こうと思いました」って言ったら「だよねー」って顔されました。みんな気になってたんだ。
たぶん、それどころじゃない、ものすごくしんどい状況の子に「寄り添った」実践なので、もしかしたら「クラスとかいう話じゃない」ってことなのかもしれません。いや、たぶんそうだったんでしょうね。でも、それでもそこに活路を見いだすのが人権教育なんだと思うんですけどね。

ということで、大会も終わったので、京都駅までもどって「当事者研究系」の人たちと、今年度も無事ペーパーを出せたことを祝って呑み。よく食べよく呑みよくしゃべり、メッチャ楽しい時間を過ごしました。
さて、明日はがんばろう。

底が抜けてるな

今日は午後から会議です。なので、午前はすっぱり年休とっておべんきょです。昨日から読みはじめた本、なかなかおもしろいです。ただ、ほんとはもっと前に読んでなきゃならない本だし、今ごろ本を読んでたら間にあわない気がするけど、どこでどう使うかを考えながらの読書なのでよしとしましょう。
で、午後の会議では多様性ワークの実演をしてみるなど。おもしろがってくれる人がいたのがうれしいです。そうそう、世界人権宣言のスライドを他校の人が使うとか。これもうれしいです。
かつて、20年くらい前は、1年生の1学期は「障害」を扱ってました。個人的には、それはそれで最先端いってるなって思います。というのは、インクルーシブ教育って、今はかなり包括的な概念なんで、障害を切り口にしながら「特別なニーズ」というとらえ方でさまざまな人権課題に対応できるんじゃないかなって思ってるからです。が、20年前はそこまでは考えてなかった。
ちなみにその前は「違いのちがい」とかやってましたが、基本的にあまり好きではないんですよね。
で、その後、紆余曲折があって、今は「人権とは」「多様性とは」って話を正面から扱うことにしました。特に後者については、3年間の人権学習のどこででも持ち出すことができるように、かなりいろんな内容を扱うようにしています。もちろん専門の方からは「うーん」と思われる内容だろうなとは思います。でも、少なくとも学校教育という専門性をあまり追求しない世界では、まぁそこそこの内容にはなってるんじゃないかなと。
それは、ひとえにわたしがいろんな人の話を聞かせていただく機会に恵まれてるからなんですね。年に1回職場の人権研修で講演を聞くのが、まぁほとんどの教員じゃないかな。そう考えると、わたしは年に10回は「仕事」で聞く機会があるし、仕事以外で講演を聞くとか、下手すると飲みながら講演以上のことを聞けるとかあります。まぁそんなのをフィードバックしてるだけのことなんですけどね。オリジナル性は少ない(笑)。

で、家に帰って少し本を読んで、ビールです。
テレビは相変わらずしょーもないです。まぁでも見るんですけどね(笑)。
で、報ステ。大統領選がトップかよ。国内の大切なことがあるだろう。てか、選挙のために感染させるリスクを気にも止めない人について、さほどのコメントもしないって。で、やっと学術会議の話題。アカンな。是々非々でしかものを言わない。そのことがすでにアウトです。
10時半に寝ちゃったけど、足立区議の「LGBTばかりになると足立区は滅びる」発言とか扱ったのかなぁ。
とにかく、ここ数年で、ほんとうに社会は劣化したな。宝塚市議の「同性愛者が集まり、HIV感染の中心になったらどうするのか、という議論が市民から出る」発言もあったな。5年前か。
もちろん、こういう差別発言はかつては当り前で話題にすらならなかったし、そもそもこういう発言が出てくるのはLGBTが顕在化したからだし、まぁそれはそれでいいことという話はあるかもしれません。が、議会でこういう発言が出て、しかもそれがアウトってわからない。「不快」としか思わない。
これ、国会議員もそうです。
「嘘をつくのは性別に限らないことなのに、ご指摘の発言で女性のみが嘘をつくかのような印象を与えご不快な思いをさせてしまった」
という発言がありますよね。この議員、前にも「生産性」にまつわる差別発言について
「誤解とか論争を招いてしまったことは大変重く受け止めている。それによって不快に思われた方とか傷ついた方がいたことについては重く受け止めている」
とか言ってました。「不快」じゃないです。差別です。なのに、差別を「不快」へとずらすことが、いまや当たり前のように行われてる。そしてそれですませてしまう社会になっている。少なくとも政治や報道の場所はそれでよしとなっている。
ほんとうに日本社会はこの8年ほどで底が抜けたな。

とりま送った

今攻略しなきゃならない「山」は3つです。うちひとつは難攻不落。もうひとつは登り口を間違えた感があります。あとひとつは昨日とりあえず攻めました。
が、まだまだ粗いので、心を落ち着けて攻めなきゃなりません。
とは言え、仕事はあるわけです。
今日はなんでも本店からエライ人が来られるとか。支店長が対応するのですが、わたしも対応しなきゃなりません。
授業が終わったら、さっそく呼び出しです。応接室に入るとエライ人が3人並んでおられて、その前の席に座れと。これは口頭試問やな(笑)。
いきなり
「後継者はどうする?」
と。んなもん、知らんがな。人事の問題なので、わたしにどうにかできるものじゃないです。
たぶん誰もが後継者をなんとかしなきゃと思ってるんだろうけど、そしてわたしに後継者を育ててほしいと思ってるんだろうけど、それは無理です。
もちろん、うちの職場の人たちはとてもいい感じです。人権担当になって22年。わたしが主担当になって10年以上たって、ようやく「100人の1歩」状態になってきたかな。もちろんみんながみんなそんな感じじゃないけど、そう思えるくらいにはなりました。が、「後継者」は「1人の100歩」でないとダメです。で、そんな人は、そもそもそういう人なんです。育てられるとかどうとかいうもんじゃない。
まぁそんな話を本店の人に話してみたり。なんしか、時間がないですからね。
残った時間はペーパー読み。
んー。昨日とりあえず攻めた山も、あちこち気にはなってるんですよね。こういうやりかたでいいのかどうか。ただ、一度登ってしまったものは、なかなか降りられない。なので、細かな文言をブラッシュアップ。うわぁ、誤字脱字や意味不明な文章が山のようにあります。これはひどい。「推敲力が落ちる」はそのとおりですね。
で、お家に帰って修正作業。かなり疲れてるしビールも飲みたいけど、ガマン。で、2時間ほどやって、とりま終了。あとは文献リストの再確認。と、抜けてるのやら間違ってるのやらあって、ここもひどいなと。
そんなこんなで、なんとかなったのは9時前。
さてと。ビールを飲んで、それからセンセに送ろうか…。

他のあれこれ

この間、センセから「他のあれこれをやっていると、思考力・推敲力が落ちます」というお言葉をいただいたのですが、そうもいかないのが社会人というものです。まぁ、それをわかったうえでのお言葉なんだとは思いますけどね。
てことで、今日も「他のあれこれ」なことをやりながらおべんきょ。
それにしても、わたしの「問い」って、ほんとに古い問いなんだなぁ。みんな考えてきたし、みんなそれへの答えを出してきた。ただ、もちろんその答えへの批判をみんなしてきたし、どんどん答えは更新されてる。だけど、「問い」そのものはとても古いんだなぁってことを、あらためて実感します。
じゃ、わたしがやることは意味がないのかというと、たぶんそんなことはない。「問い」から「答え」へのルートはいろいろあります。別のルートをたどれば、「答え」は同じでも新たな風景がそこにあるかもしれない。あるいは、新たな「答え」が見つかるかもしれない。ただそれを信じて自分のルートを探索するだけです。
で、読みたいペーパーがあったので、T田さんにメール。すると、夜に応援メッセージと一緒にzipファイルが返ってきました。みんな応援してくださってる。ありがたいなぁ。

そういや、昨日も「他のあれこれ」な本業の会議があって、そこで「沖縄研修旅行の事前学習」のことが話題になりました。たいていの学校では「さとうきび畑の唄」を見せてるとか。なので「何を意図して見せてるの?」と質問しました。もちろん答えは「戦争」です。まぁそれはそれでええんですけどね。でも、なぜ沖縄に基地があり、なぜ沖縄戦がありって考えると、やはり歴史をたどるしかないと思うのです。
みんな、わかってくれたんだろうか…。よくわからないから、動画をyoutubeにアップしようとしたけどやめときました。代わりにここにこっそり置いておきました。
いちおうウチナーに見てもらったときは「本土の高校生はこんなのを見てるんだ」って驚かれた動画なんだけどな。

安倍、総理をやめるってよ

てことで、安倍、総理、やめるってよってことです。
「やっとかよ」って気持ちはありますね。ただ、不思議なほどに高揚感はない。たぶん誰もがわかってるんだけど、安倍政権によってつぶされた、あまりにも多くのことをどうすれば復興できるのかってことすね。
例えば、教員ってことを考えただけでも、教育基本法改悪からはじまり、免許更新制とか、学習指導要領とか、教育予算とか、もう、ありとあらゆることが壊されてきました。これ、元にもどせばいいってことではあるけど、すべての制度を元にもどしたとしても、復興まではすんごい時間がかかります。
それだけじゃなくて、そもそもモラルとか道徳心とか、そういうものを根こそぎつぶされました。
なんか、瓦礫の山を前にしてる感じですね。
まぁでもここから立ち上がるしかないです。
もっとも、「安倍政権的なもの」は支配層にとってはやりやすいから、さらにひどくなる可能性も充分あるわけです。それをどう阻止するかですね。

それにしても、安倍政権ってなんだったんだろう。どうしても「羊つき」としか思えないんだよなぁ。

あらためて、トランス排除の言説はヘイトスピーチだな

朝、身体が重いです。当たり前か。とにかく、この暑さでガッコが溶けてしまえばいいと思いながら、出勤です。で、職場に着いたけど、溶けてませんでした。
メールチェックをして、いろいろ見てたら、Woman’s action networkのサイトへ。岡野八代さんによるエッセイを読んで、じんわりときました。なんというか、「闘ってくださってるな」という感じですね。ともに闘う人がいるってことが、これほど心強いのかと。
直接の発端はこのエッセイです。これについては、新しいことはまったくと言っていいほどありません。ただ、昨日の講演を聞きながら、ずっと「これ、TERFのことやんか」と思ってました。

TERFの人々は、おそらく差別してるなんて思ってない。逆に自分は被害者だと思ってる。それは例えば在特会もそうです。在日の「特権」によって自分たちは差別されてるというのが、あの人たちの認識です。ただ、その「特権」はもちろんフェイクニュースです。これ、例えば、関東大震災の時もそうです。朝鮮人が井戸に毒を入れるというデマが流れ、自分たちを「護る」ために朝鮮人を虐殺した。熊本大地震の時も「中国人の窃盗団に注意」というデマが流れました。
トランス女性とトイレの問題もそうです。小さい子どもを公衆トイレに行かせたら暴行されたという「情報」が流れ、それがトランス女性排除とリンクさせて語られる。
ちなみに、「なぜかTERFと呼ばれてる」もまたヘイトスピーチと同じです。ヘイトスピーチやってる人たちを「わたしたちカウンター」は「ヘイター」と呼ぶことがあります。でも、ヘイトスピーチやってる人は、自分たちがヘイトをしてるとは思ってない。だから、「なぜかヘイターと呼ばれてる」んだと思います。
だから「差別じゃない」し、「差別されてるのは自分」だし「そういう危険から自分を守る合理的な行動」と思ってる。そしてそれを信じてるから揺らがない。
ちなみに、トランス女性がターゲットになるもうひとつの理由は「線引き」なんだと思ってます。「誰が女性か」という時に、「トランス女性は女性でない」という線引きをすることによって「女性」を定義づけることが可能になる。なぜそうしなくちゃならないかというと、それは多様なセクシュアリティが現実になったからです。例えばお茶の水女子大学がトランス女性の受験を認めるというふうな形で。
仮に「女性/男性」というふたつの性別しかなければ、「男性ではない」=「女性」なので、「男は女の専用スペースに入るな」と言えば済むし、それはほとんど言わなくてもいいくらい合意されてる。ところが、多様なセクシュアリティが現実になると、「非女性」を設定しないと「女性」が定義できない。その時に、トランス女性を「非女性」と設定し、排除することで「女性」を定義する。そうすることで「差別されてる女性」を定義し、「守る」ことが可能となる。
そして、その「トランス女性」というくくりを設定することで、トランス女性内の多様性を消し去る。それは「よい朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」と同じです。つまり「よいトランス女性も悪いトランス女性も排除しろ」ということです。
トランス女性の多様性を消し去るということは、ペニスのあるなしではないです。それは、トランス女性が考えたり感じたりすることを通してなされるさまざまな言説を「ないことにする」ということです。それは相手を人間として見ないということでもあります。だからこそ、「表現の自由/人間の尊厳」は「人間の尊厳」に天秤が傾くのです。
そして、この線引きは同時に「よい/悪い」を不問にする。そのことで、「女性」内の「よい/悪い」もまた不問にされる。そのことで「女性」内の多様性もまた問われなくてすむようになる。そういう「女性」を守るためにトランス女性を排除するという具体的行為で、線引きを可視化する。
なんのためにそれをするかというと、自分は被害者で、その被害者が誰なのか「=女性」を確定しなきゃならんからというところにもどる。
まぁ何が言いたいかというと、「この間のトランス排除の言説はヘイトスピーチだ」ってことです。で、それはお互いに議論を闘わす場を保障するとか、そういう話ではないってことです。
てなことを書いても、誰も読んでないわな(笑)。

なぜにその相関か?とか固いなぁとか

今日は午後から前のおべんきょ場所で「伊藤悦子門下生研究発表会」です。ちなみに、去年は「中の人」に脅しをかけて、最後はひと吠えして飲みに行きましたが、ことしはどうなるかな。
今年の発表は「情報と人権」です。問題意識としては、どうやら子どもたちがどのように情報に触れ、その情報とどのように向き合い、疑問があったり間違いかもしれないと思ったときにどのように対処するのかってことを明らかにしたいという感じでした。まぁそれを基礎資料として、「情報」にかかわる人権教育を組んで生きたいという思いがあるようです。
発表そのものはおもしろかったのですが、なんかひっかかることが。それは「性別との相関」を調べられたってところです。ちなみに質問用紙の性別欄には「男・女・その他」があり、「その他」を選択した子が複数人いたのはおもしろかったですけどね。
データを見ると、情報の入口としては「会話」と「本」が優位に女子が高いんですよね。そして、インターネットの使用の仕方も「コミュニケーション」「音楽視聴」が高い。これをどう見るかですね。
わたしの頭の中にとっさに浮かんだのはこの時のおべんきょでした。レジュメをつくったのは、そのちょっと前かな。
つまり、女の子の特性として会話とか本とかコミュニケーションなんかをすると考えるのか、会話とか本とかコミュニケーションをMCDとして使用して、女の子カテゴリーをその場で構築してるのかってことなんです。もしも前者であれば、会話とか本とかコミュニケーションのしかたに危険性があるならそれを指摘してしかたを変えればいい。でも、後者だと、そのしかたを変更するということはカテゴリーの構築のしかたをかえることになるし、女の子カテゴリーのありようが変わってしまう。問題は、後者の可能性があることを理解した上で前者の立場をとるのか、その理解なしにとるのかってところかな。
まぁそんなことを考えたので発言したのですが、まぁわからんやろな。すんません。伊藤さんにも軽く流されてしまいました。
後半の発表はおとついもあった「人権教育に関する教職員の意識調査」の結果報告です。まぁいろいろ考えたことがあったけど、やはり気になるのが「人権学習をする上での課題」として「間違ったことを教えるのではないか」という不安があるってところですね。「中の人」は「だからきちんとした知識を得るために研修をして、安心して教えられるように」って結論してたけど、なんでそんなに固いんだろ。あえて間違ったことを教えるのはアカンけど、間違ってしまうのはかまわないと思うのですよね。で、間違ってたことに気づいたら、それを修正することをきっかけにして子どもたちとさらに話しこめばいい。つまり「間違っちゃってもいいよ」っていう安心感があるほうが大切なんじゃないかなと思うんですが、伝わったかなぁ。
てなことで、3時からはじまった研究発表会、4時半に終わるかと思ってたけど、6時までやってました。疲れたけど楽しかったな。吠えずにすんだし、それもよし。今年は飲み会がないから帰りましょう。

突破口やな

今日は第2のふるさとで恒例の会議です。なので、駅から山登り。いつも思うけど、こんなところに図書館つくっても子どもは来られないです。ちなみに、今度こちらに役場も来るとか。せめて駅からシャトルバスを出さなきゃ、メッチャ不便ですよ。まぁみんな車で来るんだろうけど、高齢者の免許返納はますます遠のくな。
で、会議。
なんか、みなさん、絶好調ですね。日の丸・君が代のこととか元号のこととか。まぁ、わたしにとっては、あるいはわたしたちにとっては当たり前のことも、仕事で人権教育に入った人には当たり前ではないってことなのかな。でもまぁ、こういうところで知ることは大切なことかもしれません。
そんな話から、議論は部落の「告知問題」へ。
今どきの親は、自分が部落であることを知っているかって話です。高校生の親なら世代的には知ってる可能性が高いかな。でも、小学生になると知らない可能性が高くなるかな。
めんどくさいのは、本人が知っているかどうかは関係なく、差別は平等に降り掛かってくるってことです。知ってない人は差別されてることに気づかないだけなんですよね。ところが知らなかったら差別されないと勘違いしてしまう。これ、たぶん、差別とイジメを同列に扱ってることが問題なんじゃないかな。あとは差別を「心の問題」としてるところか。要は、個人に対して差別する心が向けられるってことです。
ちなみに、仮にそうだとしても、本人が知ってるかどうかは関係なく差別される可能性はあったりします。なぜなら、知らないのは本人だけだったりするからです。
てことで、ぜったいに自分の出自は知ってたほうがいいと思うんだけど、なぜか「伝えない」という信念を持っておられる方がいて、そういう人が子どもに伝えなかったら、孫の世代になると伝えようがなくなってしまう。そういう状況で、伝えられるのは誰かというと、教員だったりします(笑)。まぁ、この時もそうでしたが、なんでやねんというと「そういうことやねん」としか言いようがない。でも、これはなかなか難しい。
で、今日の論議は「それをしなきゃならん」って話です。これを当事者から言われると、そうとうきついです。てか、「お前やれ」って思ってしまう。
そんな中で、ひとつの提案があって、それは「家庭訪問時に、すべての家で「部落問題をどう伝えてるか」と聞く」ってやつでした。つまり、部落の家だけ部落の話をするんじゃなくて、どの家でも部落の話をすればいい。そうすれば突破口ができる。
そこなんですよね。突破口なんです。その突破口は、オイタでもいい。そこをとらえて、とにかく飛び込んでいく。そうすれば、たいがい風通しのいい広い世界が待っている。
あー、でも、その広い世界で話題がないと、これまたきついな。その話題、勉強しただけでは身につかんからなぁ…。

案外好評だった

今日の午後は人権教育担当者の会議です。今回はうちの職場が会場なので、準備でパタパタ。
で、会議です。とにかく今年はメンバーがガラリと変わりました。残留してるのは14人中5人かな。しかも「人権教育担当、はじめてです」って人がほとんどです。まぁでも、それはとてもいいことです。もっともベテランの域に入ってて「はじめて」ってのは、これまでどういう人事体制でやってきたんやとも思いますけど、比較的若い人が多いのがいいです。ちなみに、女性も多い。とてもいいことです。
で、みなさん好奇心が旺盛というか、研究心が高いというか。ほんとに積極的に参加されてる感じが伝わってきます。
会議ではそれぞれのガッコの状況を交換したあと、人権学習の紹介をしたりします。今回はちょいと出しゃばって「世界人権宣言」のプレゼンを見せてみたり。
で、いろいろディスカッションをしてたらあっという間に終了時間。
と、ある参加者の方が「あの…」って来られました。
「さっきのプレゼンのデータをいただけませんか?」
「いいですよ(^^)」
「えっ!いいんですか!」
と、
「わたしも」
「わたしも」
ってことで、みなさんにデータをおわけすることに。
たぶんわかりやすかったんでしょうね。ある方が
「生徒になった気分で「うんうん」って聞いてました」
って言っておられましたが、子どもにわかりやすい教材は教員にもわかりやすいってことです。

ディスカッションの中で、あるベテラン教員の方が「理解したか?」みたいな話をされたのですが、理解はいらないと思うんですよね。ましてや「定着」なんてするはずがない。でも、1年生の1学期にやることに意味がある。いろんなことを感じてくれたらいい。
例えば2年生になって
「去年やったの覚えてる?」
って話たら
「ラップのやつやろ」
って返ってくることがあります。それで充分にうれしいです。

人権教育担当のおもしろさを通して、反差別を生きる人との出会いの豊かさへとつながっていけば、きっと仲間ができていく。
そんなことを感じさせられたひとときでした。