わたしにできること

昨日のニュースでは、ヨーロッパでイスラエル政府のガザ虐殺に対する大規模なデモがあったという報道がされていました。でも、日本国内での集会・デモについてはほとんど報道されていないように思います。
aml経由でパレスチナに関する情報がいろいろ入ってきています。なかでも、おかまりさんが出される情報や行動提起はとても貴重です。
そんなこんなを読みながら、自分に何ができるだろうと考えてみました。
で、そのうちのひとつかなと思って、当分このブログの先頭にバナーを貼ることにしました。
http://browse.deviantart.com/?qh=&section=&q=gaza
↑ここからいただきました。
「たったそれだけかい!」
と自分でも情けなくなります。でも、なにもしないよりも、簡単なことであっても、できることをひとつでもする方がいいということを、ここ数年学んできました。
てことで…。

感想文もいろいろ

今、2学期の人権学習の感想文をまとめているのですが…。なんか疲れてくる。
1年生も2年生も、すごい強烈な体験をした人が講演者なんです*1
こういう人の講演って、感想文が3通りにわかれます。

  1. あまりの強烈さに「自分の悩みなんてちっぽけだ」というふうに書くパターン。
  2. 強烈さに触発されて「自分にもこんなのがある」というふうに書くパターン。
  3. 単に「感動した。がんばって下さい」というふうに書くパターン。

う〜ん。
1のパターンは、それはそれでいいんだけど、忘れてしまわないかなぁと思うんですよね。
2のパターンも、それはそれでいいんだけど、「ない」という子にとっては書きようがない。まぁ、人を選ぶという感じですか。
で、3のパターン。自分の中にある「しんどさ」に気づいていなかったり、あるけど出せなかったり、あるいはほんとうに別に何もなかったりする子かな。でも、こういう子が、実は一番多いんじゃないかなぁと思うのです。でも、こういう子どもたちの「気づき」や「変革」を促すことが一番大切なんじゃないかなぁと思うのです。そういうことができる話ができるようになりたいなぁ。

などと思いながら、感想文を打つんですよね。あーしんどい…。

*1:1年生は、日系ブラジル人の人。2年生は部落のおっちゃん。3年生の感想文は2学期のうちにまとめました。

トランスってなんだ?

最近「トランスって何だろう?」と考えることがよくあります。
わたしはトランスをしているのかしていないのか。
確かに、ヒゲは脱毛しました。パーマをあてるのもやめました。髪を伸ばしました。服もレディスを着るようになりました。ホルモンもはじめました。でもそれがトランスか?少なくともわたしは違うと、いつも感じています。
じゃぁ、トランスっていったいなんだろう。
それはもしかしたら友達関係というか人間関係の中にあるのかもしれないと、最近思うのです。わたしの友達や家族が、わたしをわたしの望む性別で受け入れてくれているかどうか。そこにトランスの本質があるんじゃないかなぁと思ったりもするのです。
極論すれば、ヒゲ面のくちゃくちゃ頭の「わたし」を、わたしの望む性別で受け入れてくれる人間関係があれば、そこにトランスはあるんじゃないだろうか。
じゃぁ、なんのために脱毛をし、髪を伸ばし、レディスを着るのか。
簡単に言えば、「自己満足」なんだと思うのです。だって、自分にとって楽な姿になるというだけのことですから、それは「自己満足」と言えるのではないかと思うのです。で、その内容はというと、極めてジェンダライズされた「自己認識」に、自分をあわせているだけのことです。もちろん、「できること」「できないこと」はある程度は考えていますし、「あわせる」のは「受け入れてもらいやすくする」というところも含みこんではいるのですが…。

ということは、もしかしたら、「フルタイムのトランス」って、「いつも自分の望む姿でいる」ということじゃなくて、自分の望む性別で受け入れてくれる人間関係を、日常の場においてつくること、ということなんじゃないのかな。
でもね、そういう人間関係をつくっていくと、中には、自分自身のありようを問い直してくれる人が出てくるんだよね。いや、こういう言い方はよくないですね。おそらくは、もともと自分自身のありようを問い続けている人が、「トランス」という事象と触れることによって、ひとつのきっかけを手に入れるという方がいいのかもしれない。そういう「既得権益としての性別」を問い直す人は、おそらくは「トランスの仲間」なんじゃないかなぁ。

いい線攻めたか(笑)?

ラジオって、ネタがてんこ盛りですねぇ。
京都府の情報を流すコーナー。今日は京都府HIVへのとりくみの紹介です。
担当者の方がいろいろ話をしていたのですが、ヒットがふたつ。
ひとつは、相談業務について。
「男性同性愛者の方の電話相談をMASH大阪に委託しています」
同性愛者を「いないこと」にせず、きちんと広報しているんだなぁ。
もうひとつは、感染経路にかかわること。
「もっとも多い感染経路は性交渉です。無防備な行為を避けるようにしましょう」
さすがにセーファーセックスとは言わなかったけど、「無防備な行為」の裏返しは「セーファーセックス」かな?少なくとも、道徳(笑)の徹底で予防をしようなんていうことは言わなかったわけで。
「やるやん」と思いました。

言葉

朝、久しぶりに車で出勤です。
車の中でラジオを聞いていると、パーソナリティーが「橋下知事文科省にアカと言った」と言っていました。文部科学省は「言葉に気をつけてください」と言ったとか。
もしも「いつきはアカだ」と言われたら、わたしはどう答えるかなぁなどと考えていたんですが。
で、ニュースを検索したら、実は「バカ」だったと。ちょっとテンションが下がりました(笑)。

にしても、同じようなものですわ。
アジテーションと恫喝を繰り返すと、それがだんだん「普通」になっていくように思います。大声を聞き続けると、それがだんだんと「普通」になっていくように思います。
でも、大切なのは、小さな声に耳を研ぎ澄ますこと。アジテーションや恫喝に従うのではなく、つぶやきに突き動かされること。

そうそう、「いつきはアカだ」と言われたら「すみません、クロです」がわたしの答かなぁ。

人を動かす方法

一番簡単な方法は、「危機感をあおる」ですね。
これ、正直わたしも使わないことはない。でも、どこかに「スキ」をもぐり込ませておいて「ネタや」とわかる仕掛けを入れておきたいですね。
こわいのは、その「危機」をあおる人自身も信じている場合です。さらに、それを聞いた人が判断停止になってしまうとどうしようもありません。まぁ、こんなの歴史的にも現在も、あちらこちらに普通に存在していると思いますが…。

でも、まわりくどくても、めんどくさくても、すぐに効果が出なくても。たったひとりであっても、自分自身が納得して、内発的な動機によって動く。そんな互いの関係をつくっていきたいなぁ。

困った御仁だ

まぁ、集団なんて、うまくいっている時は「ながら*1」でもいいんでしょうけど、一度つまずくとたいへんなんですよね。
なにがたいへんかというと、「なんとかしなくちゃ」と焦りはじめる。
これ、集団のメンバーがそう思うのであれば、まだそれはそれでいいんだけど、責任者がそうなるとたいへんです。
一番マズイのは、「これが原因だ!」と断定して、そこから「改革だ!」とか思って、システムをいじりはじめる。こういう人って、対抗勢力が来ても馬耳東風…。というか、逆に燃える。しかも燃える原因が「あいつらは改革が不安なんだ!」=「俺は違う!」みたいな。しかも「よかれ」と思ってやっているわけですから、本人にはいささかの負い目もありません。こうなると、もう手に負えません。
こういう人って、簡単に言えば独裁者なので「自分はこうやって成功した」「やってみなきゃわからない」「失敗の責任は俺がとる」みたいな特攻風を吹かし、それが「いい責任者なんだ」と勘違いしてしまう。どこかで成功事例があったら、対抗意識を燃やすか無批判に取り入れるか。
まぁ、これで仮にうまくいったとしても、基本的には「偶然」とわたしは思うし、もしかしたら、そうとう無理をしているので、最終的にこけるんじゃないかなぁと思ったりもするんですね。
大切なのは、「人が変わってもやっぱり納得できる普遍性を持ち、かつ、継続することのできるシステム」をどうつくるかなんですよね。
こういうシステムをつくろうと思うと、それなりに情報も仕入れなくちゃならないだろうし、多面的に状況を分析して、リスクマネージメントをして…。要は、一人の力*2ではおそらく不可能なんだと思います。例え、自分がかつてどこかでなにがしかのことを成し遂げたとしても、場所やメンバーやシチュエーションが変われば、ほんとうはそんなものは何の役にも立たない*3
ところがですね、責任者っていつまでもいるわけじゃないです。へたすると、1年で変わるかもしれない。そうすると、勝手な思いこみ&メンバーの意向を無視して変更したシステムだけが残るわけです。
責任者本人は「志半ばに!あとは俺の意志を継いでくれ」みたいなヒロイズムにひたれるかもしれないけど、メンバーはえらいこってす。そこで生じたさまざまな問題点の修復に、そうとうな時間がかかってしまう。もしかしたら、修復不可能かもしれない。

最近、こういう事例が増えていると思うんだけどなぁ…。

*1:「〜しながら」から来ていて、まぁ「ふだん通り」とか「淡々と」みたいな感じ?

*2:いわゆる「独裁」

*3:というのは言い過ぎかな…。でも、そう肝に銘じることは大切だと思うのですよ。

なんのための改革か

今日は、職場の教職員人権教育研修会。講師は、西成高校の教頭さんです。題して「格差を越える高校−西成高校が大切にしていること−」。
すごくよかったです。
程度の差はあれ、うちの学校とそれなりに似ているところが多々あります*1。その状況をどうとらえ、そこからなにをしていくのか。「改革の中味」がともすればとりざたされますが、それ以上に、「改革」のスタートとめざす方向について、ほんとうに勉強になりました。
ともすれば、「しんどい学校」は、いかにして「いい生徒*2」を集めるかというところに腐心しがちです。でも、これって、「しんどい生徒*3」をよその学校に押しつける、あるいは、その子らの進路を中学段階で閉ざしてしまうことにつながります。さらには、今、自分の学校にいる「しんどい生徒」を放置する・放り投げることにもつながりかねません。
でも、西成高校の改革の方向は、今いる「しんどい生徒」。これからも入って来るであろう「しんどい生徒」と、今も、これからも、どう一緒に歩んでいくか。そのための「改革」なんだということです。そのために、西成高校の「今」を分析し、「これから」を展望している。そして、「何が必要か」ということをそこから導きだし、実践を積み重ねている。
もちろん、こうした方向に行かざるを得ない、「大阪」の状況*4があります。だからこそ、そこまで腹をくくれるんだろうとは思いながらも、やっぱり「すごいよ!」と思わざるを得ませんでした。

にしても、今日からはじまった「公立高校の復権*5」はどういうふうに展開していくのかなぁ…。「京都」という大豆のエキスから湯葉一枚だけを取り出した学校やからなぁ…。

*1:程度の差=さすがは大阪の「しんどい」学校です。うちの学校はまだまだ足元にも及びません(笑)。

*2:この表現そのものがダメダメなんですが、こういう言葉がまかり通るキョーイクギョーカイなんですわ

*3:こちらは、ギョーカイによっては、往々にして愛情を持って使われることが多いです(笑)。

*4:それは、「問題」と言ってもいいかもしれないですね。

*5:朝日新聞の特集ですわ

「普通がいい」か…

突然「いつきちゃん、いる?」と言って部屋に入ってきた子。
「いるよ」と言って出て行くと…。
突然泣き出しました。
しんどいことがあったんだよなぁ。
他の人から見たら、小さな小さな出来事かもしれないけど。別にその子に向けられたことではないんだけど。そしてその子自身も「あの子に悪気はないのはわかってるねん」と言っているんだけど…。
でも、しんどいんだよな。
「なんでわたしは…なんやろ」
泣きながら言った言葉が
「普通がいい。普通やったらこんなことで傷つかへんかったのに」
でした。
「そやけど、「普通やない」からいいこともいっぱいいっぱいあるんやで」
「「自分って、なんやろ」と思えることって、すごいことやと思うわ」
「その出来事を通して、きちんとつながり直してみ」
「今」は届かないことがわかりった言葉を、それでも伝えました。
いつか、「普通じゃなくってラッキー!」と笑ってくれる日を、一緒につくろうな。

ともに闘かわん!

それは依存だろう…

家に帰ってダラダラと新聞を見ていたら…。
なんか、最近死亡事故のひき逃げ(ひき逃げで死亡事故にする)が多いということが書いてありました。
識者によると、「救助活動をしたら減刑すると効果的」とか。なるほど。で、遺族会としては「より厳罰化を」とのこと。なるほど。
まぁ、それはそれとして、気になった遺族?のコメントがひとつ。
「命を大切にする教育をもっとやらないと(みたいな)」
また教育か…。
命を大切にするなんてこと、教育の課題なんですかねぇ。まぁ、極めて広義の教育には入るのかもしれないけど、そこまで行くと「教育」という必要はなくなる気がするんですよね。ここで新たに「教育」とわざわざ言っているということは、「学校教育」とか「家庭教育」という限定した話だろうし、「家庭教育」にわざわざ「教育」という言葉を使うとも思えないので、おそらくは「学校」に限定した話なんだろうなと推測できるのですが…。
んじゃ、学校がない文化圏・地域では「命は大切にしていない」のかというと、おそらくは全然違うんじゃないかな。てか、もしかしたら学校教育が行き届いているところの方が命が大切にされていなかったりして^^;;。

いつも思うんですけど、学校って「タテマエ」の世界なんですよね。で、世間は「ホンネ」。だから、学校でいくらいろいろなことをやっても「そんなこと言ってもキレイゴト。世間では通用しない」とかいう話が出てくる。
でもね、わたしは「タテマエ」は大切だと思うのです。「タテマエ」と「ホンネ」が自分の中でぶつかる時、何の躊躇もなく「ホンネ」を選択するのではなく、そこに葛藤があればずいぶんと違うと思うんですよね。その程度の「タテマエ」の強さが必要だと、わたしは思っています。
でも、現実にはどうかなぁ…。「タテマエ」の社会*1への不信感と不満感が渦巻く中で、「タテマエ」の力がすごく弱まっているように思えてしかたがない。なんというか、バランスが崩壊しているんですよね。
で、その不信感と不満感は、実は「架空の」信頼感と満足感への渇望だったりする。しかもその渇望は、それぞれの要求に従ってのバラバラな内容だったりします。その渇望感が満たされない時、信頼感はふたたび不信感へと変化する。

なんちゅうか…。
まずは、「自分がしたいことは自分でする」。
それから、「自分ができることを他の人もできるとは思わない」。
そして、「自分にできないことを他人に頼む時は、それなりの遠慮を持とう」。
自戒の念を込めて…。

っちゅう「タテマエ」の社会の話でしたわ(笑)。

*1:まぁ言ってみると学校ですかね