絵を描いたのは誰?

今日は校外で研修会。午前はウトロに関する話とフィールドワークです。
話をしてくれたのは、いつもとは違って若い人。この方、なかなかの切れ者です。
一貫して言っておられたのは、「ウトロ問題の本質は「地上げ」という「事件」ではない」ということでした。
ともすれば、
日産車体が勝手にHに売った→Hは西日本殖産に転売→地上げ裁判
というふうにとらえられがちです。あるいは、せいぜいが「戦後補償」の問題としてとりあげられるでしょうか。ところが、今回話をしてくれた方は、その背景に「宇治市京都府」もからめて話をしてくれました。
こういうことです。
「バブルがはじけて資金繰りがしんどくなった日産車体
「金儲けをしたいHたち」
そして、「朝鮮人を追い出したい宇治市京都府
この三者がそれぞれの思惑を実現しようとしたところに、ウトロ地上げ裁判の本質があるということなんです。なぜこんな話が出てくるかというと、土地を売るにあたって京都府が許可を出した、と。その許可申請書には、ウトロの土地は「休用地」と書かれていたそうな。京都府は、ウトロに住民がいることを知っていて、ウトロの土地を「空き地扱い」として売却することを許可した。これ、とんでもないことですね。
まぁ、他にもいろいろ話をされましたが、かなりインパクトがありました。
つまり、ウトロ土地問題は、戦後補償という「過去から連なる問題」ではなく、「いま・ここ」の問題としてとらえないといけないということだと、わたしは思いました。

話のあとはフィールドワークです。途中、知りあいと会って「チューハイ持ってへん?」「そんなんあるかいな!」みたいな冗談を話しあったり*1、「今度宴会しよう」みたいな話をしたり。やっぱ、わたしはウトロが好きだなぁ…。

*1:ほんとうに冗談ですってば!

フィールドワーク

東の方にある大都会*1には、これまでも何度か行きましたが、前々から行きたいと思っていながら行けなかった、街の北東部に今回こそ行くことにしました。
昨晩そんな話をSさんと話をしていたら、「吉原だったらわたしでしょう」とM姐さんが案内をかってでて下さいました\(^o^)/
10時に三ノ輪に集合。

  • 新吉原へ

まずは、「浄閑寺(投げ込み寺)」へ。
このあたり、前に『別冊歴史読本 歴史の中の聖地・悪所・被差別民謎と真相*2』を読んで、「吉原に行くなら行かなきゃ」とは思っていたところでしたが、なにせ忘れっぽいわたしのことですから、M姐さんから「行くわよ」と言われるまで思い出せていませんでした。
トコトコと歩いて行かれる姐さんの後ろをついていくと、お寺の裏側へ。と、そこに慰霊塔があります。姐さんは深々とお参りをされています*3。今はまわりの木々の葉っぱが落ちている季節ですが、夏に来ると、なんともうっそうとした中にあるそうな。「ほら」と言われて横の穴をのぞくと、いっぱいの骨壺があります。「ぎっしりでしょう?」と言われ、なるほどと納得。ただ、姐さんのおっしゃるには、「吉原の遊女は平均寿命が22歳と言われるけど、あれはウソ。亡くなった人たちの平均寿命は22歳でも*4、そうじゃない人たちの統計はない。そもそも、「商品」なんだから、そんな粗末な扱いをするわけがない」とのこと。たしかに、合点がいきます。歴史って読み方なんだよなぁ…。
で、浄閑寺をおまいりしたあと、土手通りを通って吉原に向かいます。
まずは、見返り柳。そこを折れて大門へ。このあたり、見事に昔の道が残っているらしく、土手通りからは大門は見えません。そうそう、遊郭の入り口には必ず派出所があるとのこと。吉原交番も、昔からあったということです。
ここで大通りを行くかと思いきや、横道へ。吉原のソープランド許可地と昔の吉原は、ほんの1ブロックだけずれているとのことです。なので、その1ブロックにだけ、昔の吉原の建物がかろうじて残っているとのこと*5。見てみると、たしかにおしゃれな外観です。特に、建物の角が丸くなっていて、その角に窓があります。「この窓からおねえさんが「おいでおいで」をするのよね」と姐さんがおいでおいでのまねをされます(笑)。
そこからずぅっと仲ノ町通を通って奥の方へ。江戸町から京町へと抜けていきます。途中にある「吉原神社」で吉原の変遷が書いてある紙を見せてもらいながら、吉原の歴史と地理を確認。
その後、「吉原弁財天」へ。ここは、もともとは小さな池があったのですが、関東大震災の時に逃げ遅れた娼姑達がここに避難しようとして、490人の方々が溺死されたとのこと。ただ、ここでも姐さんが一言。「でもね、吉原からは出られなかったというのはウソ。大門だって出ようと思えば出られた」とのこと。
この吉原弁財天のあたりは、もう吉原の外です。ここから浅草へと「裏道」が続いています。
わたしたちは、ここからもどって、吉原公園へ。ここはもともと「大文字楼」の跡地だそうです。そうとう広い公園ですが、「これがひとつの「お店」の広さよ」と教えてもらい、かなりびっくりです。
ここから「お歯黒どぶ」跡の道へと降ります。だいたい段差が1.5mくらい。かなりの高さです。てことは、これが周囲との高低差なわけです。もともとはまわりは田圃ばかり。そこに盛り土をしてできた街ということです。さらに言うならば、もともとはまわりにはなにもなかったわけで、この街の中に「街」としてのすべての機能があったということです。すごかったんだろうなぁ…。

  • 山谷へ

続いて、山谷へ。
ちょっと道がわからないので、Sさんが吉原交番で聞いてくれました。ていねいに教えてくれたとか。
「日の出会商店街」をずぅっと行って、吉野通りへ。吉野通りの手前あたりから、なるほど、今風のドヤ街になってきます。つまり、2000円〜2200円位のホテル&「冷暖房完備・全室カラーテレビ」の文字&コインランドリーがポツポツという感じですか。そこを左に折れてしばらく歩きます。有名な喫茶店「バッハ」の前を通り、「いろは会商店街」を曲がります。前には日本基督教団日本堤伝道所があります。救援物資らしきものをおろしておられました。友達、あの中にいたかもなぁとか思いながら、しばらくそのあたりをブラブラ。「城北労働・福祉センター」を見つけたので、前の掲示を見てみると、「こりゃ公共の仕事がないわ」。前にはってある各種ビラをしばし読んで、再び吉野通りへ。
吉野通り沿いに、どう考えても2階建てなのに窓が縦に4つ並んでいる建物があります。あれはたぶん、いわゆる「蚕棚」なのかな?てなことを考えながら、南千住駅の方に向かいます。
それにしても、ずいぶんと静かな街です。まぁ、「寒いから」というのと「土曜日だから」というもあるのかもしれませんが、なんか、地域的にものすごく広いのもあるのかなぁ。釜が崎だと、すごく狭い地域に密集しているので、もっと密度が濃い感じがするのですが…。あるいは、すごい高齢化しているのも原因だろうか…。はたまた、仕事がないので山谷ですら生活ができない?

  • 小塚原刑場跡へ

山谷から泪橋交差点を越えて、常磐線の歩道橋を渡るとすぐに、「小塚原刑場跡」があります。ここは、回向院別院からさらにわかれて「延命寺」になっています。中には「首切り地蔵」があります。ここに有名な「腑分け」にかかわる掲示物があったのですが、杉田玄白なんかの名前は載っていても「えたの虎松のおじいさん」の名前は載っていないんですよね。ふぅむ…。

  • 回向院へ

ここからガードの下をくぐり抜けると、回向院へ。ここには解体新書のレリーフがあります。その説明文には「虎松のおじいさん」の名前はありませんでしたが、「腑分けに立ちあった」とあります。てことで、「杉田玄白達がやったのではなくて、いつもやられている「腑分け」という行事に立ちあった」というニュアンスは伝わるかな。
奥には、吉田松陰とかいろんな人たちのお墓がありました。でも、わたし、日本史に詳しくなくて、ぜんぜんわかんない(;_;)。
あ、「吉展地蔵」はわかりましたよ。「吉展ちゃん事件」が石川一雄さんへのえん罪の遠因になったというのを知ってたので。って、知識が偏っているなぁ…。

てことで、午前のフィールドワーク、終了。

*1:街の真ん中に大きな森があったりする

*2:だったと思う

*3:わたしは…。軽く、かな。形式的にはどうも宗教が邪魔するんですよ。でも、心の中ではおまいりをしています。

*4:でしたっけ…。

*5:それもどんどんなくなっていますが…

プチフィールドワーク

高座の後は、「地元を案内しますよ」という主催者の方のご厚意にあまえてT地区とE地区のプチフィールドワーク。
なんというか…。
関西と関東の違いというのもあるかもしれませんが、都市部と農村部という違いもあるんでしょうね。まず、圧倒的にちがうのは、地区改善事業については、解放住宅がメインではないということでしょうか。解放住宅はほとんどありません。やっぱり、土地があるんですね。
だからといって、「広々」かというと、そういうわけでもありません。E地区はほんとうに入り組んだ道がムラの中をかけめぐっています。「他の地区はね」と隣の地区にも車で案内してもらったのですが、ぜんぜん町並みがちがいます。まさに「道がある。道が狭くなる。狭くなったそこに部落がある」というフレーズを思い出させる光景でした。
「なぜこんなに狭いままなんですか?」とたずねると、ひとつは、人口の流出があまりなかったことをあげられました。でも、これは近世から近代初頭の感じでしたね。では、近代から現代に関してはというと、やはり、「行政が放置をしてきた」ということだったみたいです。
あと、やはり地域の考え方かなぁ。ムラの人の中には地域改善事業にあまり協力的ではない人もいるわけで、そういうところでは、道を拡げようにもそこの土地を買い取れないので、拡げられないなんていうこともあったみたいです。
一方、人権をめぐる活動については、ほんとうに「開かれた」方向に進んでおられるみたいです。このあたりも、「力関係」なのかな。話を聞いていると、「いいバランス感覚をしておられるなぁ」とつくづく感じました。

移動日&自主フィールドワーク

いつもの通り6時に起きて、コーヒーを淹れて、ちょっとテレビをつけてみました。なるほど、そういう結果でしたか。
しかし、みんな年金とか政治と金とか、そのあたりを論点にしているよなぁ。わたしはちゃいますね。もちろん「9条改憲」がひとつの論点。もうひとつは、戦後最も激しく行われた「強行採決の嵐」をなんとしてでも食いとめるために、今回の1票を使いたかった。後者なんて、ほとんど誰も話題にしていないのってどうよと思いますが…。
さて、今日は移動日です。行き先はなぜか佐世保
8時過ぎの新幹線に乗って、途中駅弁なんかを食べながら14時過ぎに佐世保到着。ホテルに入って緊急の仕事をひとつやっつけて、散歩です。
さて、どこに行こうかな。実は、佐世保のムラは完全に「埋没」をしているらしくて、フィールドワークなんてとうていできないらしいです。なので、わたしもまったくわからないまま、適当に見当をつけて歩いてみることにしました。まぁ、別にそこがムラであろうがなかろうが、佐世保の街を知るという意味では一緒ですからね。
それにしても、佐世保って、海から短い距離ですごい急激に登っているんですね。ほんとうに山肌にへばりつくようなところが多々あります。そんなところをあちこち歩きまわってみました。山の中腹に防火水槽があったり、突然畑があったり。ここまで水をくみ上げるって、そうとうたいへんだよなぁと思いながら、かつての生活を想像してみました。
帰りの下り道のすごいこと。ある階段には「下りは危険」とか書いた立て看板があります。そりゃそうです。はしごみたいな角度です。そこを避けて別の下り道を降りたのですが、その坂道、車はもちろん狭い&急すぎて入れません。自転車でも無理。てか、自転車であがろうものなら下る時がこわいです。あそこを登れるのは、たぶんトライアルバイクぐらいじゃないかなぁ。その坂道を、下から買い物の荷物を持ったおばさんが休み休みあがってこられます。すごいよ…。
坂道を降りたらすぐに海です。海にはお船が浮かんでいます。ただし、色は濃い灰色ね。しかも、船籍は日本のもあればアメリカのもあります。これが佐世保の海なんだなぁ…。
なんか、いろいろ考えさせられました。

自主フィールドワーク

研修の後は、もちろん「反省会」です*1。でも、反省会が始まるまで、まだ1時間ほどあります。
ところで、いま自分がいるところは住吉…。てことは、近くにあるものといえば…。やっぱ飛田新地ですな。
とりあえず、行ってみよう!
と、ここでひとことアドバイスをもらいました。「とりあえず、百番に行くフリをしたらいいよ」とのことです。なるほど…。まぁ、女性の友だちとわたしとで行くので、いずれにしろ「客じゃない」ことが見え見えですからm(_ _)m
阿倍野墓地の北側をブラブラ歩いて、窪地のようになった一角を見た瞬間、息を呑みました。
まわりは高層マンション街。そこに忽然と日本家屋というかなんというかな家が整然と建っています。完全な別世界です。向こうには、通天閣が見えています。階段を下りながら、飛田新地の中に入りました。まだ6時前なので、それほど人通りはありません。でも、「お店」の準備は万端整っています。お店の玄関はもちろんあけっぱなし。そこに、強烈なスポットライトがあたっています。光を一身に受けているのは、きれいに着飾った女性です。なるほど…。お店の番をしているのは、年配の女性。おもしろいのは、玄関の内側の脇におられるのですが、反対側に大きな姿見がおいてあります。こちらからその姿見を見ると、姿見には年配の女性が映っています。なるほど…。
「すごいよ、すごいよ」とつぶやきながら、ふたりで足早に身とを歩いて、あっという間にその一角を出ました。
それにしても、近くにはムラがあり、その隣には寄せ場があるという立地です。おそらくは、被差別民衆とのからみとかいっぱいあるんだろうなぁ。あと、飛田新地の中にはたぶんないだろうけど、その周辺には男娼の町とかなかったんだろうか…。いろんなことを考えながら、「反省会」の場へと向かいました。

*1:子どもの反省会はほんとうに「反省」をしますが、大人の反省会は、もちろん「交流会」の別名ですよね(笑)。

で、フィールドワーク

交流会の会場に行く途中、今回もフィールドワークをさせてもらいました。
農道を延々と走ると、ポツンと家が一軒だけあります*1。その隣には、集会所。家の横には川。それ以外、なにもなし。ここがムラとのことです。てことは、一軒一支部てことですか…。
すごいよ…。でも、ここでも活動をされているとか。ほんとうに、すごいよ…。生きていることがカムアウトなんだ…。

*1:正確には3軒あるけど、2軒は誰も住んでいないみたい…

で、フィールドワーク

朝起きると、雪が積もっていました(笑)。

今日は午後から、どういうわけかS県で漫談。
といっても、前半授業実践のレポートがあって、後半1時間ほどを担当しただけです。展開としてはまったく新しいものなので、ちょっとドキドキしましたが、なんとかつとめあげられました。
その後、車でまわるだけではあったけど、3ヶ所のムラにつれていってもらいました。
いや、ほんとうにびっくりしました。3ヶ所ともがいわゆる「少数点在」のムラなんです。1ヶ所目はそれでもちょっと大きめ。2ヶ所目は戸数が20戸くらい。3ヶ所目にいたっては、10数戸ですか。
どのムラも、いちおう地区改善事業は入っているとのことですが、いわゆる「ニコイチ」じゃなくて、「市営住宅」とのことで、すべて一戸建てです。もちろん「団地」はありません。つまり、まわりからはさとられないようにということのようなんですね。
でも、一目見たらバレバレです。いずれのムラも道は狭くて曲がりくねったまま。車からは降りずに通過しただけですが、普通車が道幅いっぱいです。ところどころ「ここ、入れないから向こうからまわるね」というところまであります。

ひとつめのムラA地区。入り口を入った瞬間に「あ、ここからムラですね」「そうです」。で、ある瞬間に「あ、ムラ、出ましたね」「はい、あの川を渡ったところで出ました」。
ふたつめのムラB地区。公民館の裏側にある空き地に車をとめて「あそこです」と指をさされました。小さな土地に、A地区と同じタイプの市営住宅が数軒並んでいます。ムラのまわりにぐるりと鉄柵があります。「え?あれ?あの柵、あれでムラってバレバレじゃないですか」「ええ」表にまわると、川が流れていて途中から暗きょのあとがあります。「昔はこの川に丸田が一本かかっているだけだったんです」「へ?」「だから、こっち側*1からは丸わかりなんですよ。でも、ムラの人たちは必死で隠していた」「んなむちゃな」
もう少し車を進めると、「このあたりはもともと女郎街でした。ここもまわりにぐるりと堀があってね、女郎さんが逃げられないようにしていたんです。B地区の人たちはその監視役もしていたということで、そのことがまわりの人たちのまなざしを一層きついものにしたんです」「…」
みっつめのムラC地区。ムラの裏側には竹藪があります。「あの竹藪ね、昔はずっと続いていて、このムラを取り囲むようになっていたんです」すると、同乗の方「ほんとうに、「藪の向こうに人がいるのかな」という感じでしたよね」「ええ、そうでしたね」「S県では各地区*2ごとに子どもたちを公民館に集めていろんな伝達をしたりするんですが、ここのムラの子らは20数年前まで、公民館に入ろうとしたら「お前らは出て行け」って生徒からも教員からも言われて、しかたなく運動場で時間をつぶしていたということです。子どもの人数が5〜6人もいたらその中には「おかしい」と言う子もいるんでしょうけど、兄弟だけだったりするとそれすらもできない。少数点在のムラには運動が起こりにくいんです」。
その後、表にまわります。すると、見たことのあるような大きな「工場」の跡があります。「このムラも現在廃品回収なんかをしているんですが、ちょっと前までは自動車解体業をやっていたんです」。それでですね。見たことがあったのは*3。でも、今は「跡地」みたいです。工場の前には山のようにいろんな種類のくず鉄があります。
ほんとうに一区画をくるりと回ったら、あっという間にムラを出てしまいました。

ほんとうにショックでした。わたしが今まで見てきたムラっていうのは、たいてい都市部の大きなムラでした。でも、ぜんぜん違うムラもあるんですね。
都市部のムラと農村部のムラの違い。さらに、農村部でも富裕層のいる(いた)ムラと、そうではないムラの違い*4。まさに、小林丈広さんの言われる「部落の4類型」のうちのひとつの類型「農村貧困型」の典型を見た感じでした。ここから、「法は切れた。格差は解消した。だからあとは自助努力で…」というのは、無理ですわ。やはり、解放へ向けたとりくみが絶対に必要だと、認識をあらたにしました。
てか、こうしたムラにフィットしたとりくみをしてこなかった、わたしたちの「無知」が問われるんだろうな。

*1:ムラじゃないほう

*2:ここの「地区」はムラじゃなくて、小学校の地区割りのことです。

*3:京都府南部にも「解体の街」がありますから。

*4:このあたりのムラでは、近世の頃、農業は許されなかったとか…

フィールドワーク

今日は、浪速の近くで漫談。終わってから、友だちと一緒に呑み。呑みながら、フィールドワークについての話がちょこっと出ました。
部落なんかにフィールドワークに行く人って、たいていは「悲惨な状態」を見ることを期待していくんじゃないかと思います。ちなみに、わたしも例外ではありません。
ところで、実際に行ってみると、地区改善事業なんかで、それこそ1950年代のムラの姿なんてかけらも残っていません。そこにあるのは、巨大な団地群だったりします。しかも、ムラ中の高齢化は激しく進行しているので、歩いているのはたいていおばあちゃんやおじいちゃん。あるいは、だれも歩いていない!そんな町なので、お店も儲かりません。なので、食べ物店もぜんぜんありません。そうなってしまうと、結局、事業のあとにつくられた「遺跡」を歩くことになりますし、そこに「ムラの文化」みたいなものはほとんど感じとることはできません。
ただ、こうした現在のムラの姿ではありますが、ムラの人たちの闘いの中で勝ち取ってきた事業の「成果」でもあるわけです。そりゃぁ、実際に住んでいる人にとって、バラックに住むより団地に住む方がいいに決まっていますから。そして、その時点から30年以上経過した結果としての現在の姿でしかないわけですから。また、多くのムラでは「このままではいけない」ということで、自分たちのムラの文化をもう一度発掘しよう、あるいはつくりなおしていこうという動きがあります。浪速の太鼓集団「怒」もそういう動きの中で活動があるわけです。
ところが、これがまたフィールドワークに行く側にとっては悩ましいことなんですね。なにしろ、フィールドワークでふれることができるのは「人間」じゃなくて「場所」だけなんですよね。となると、村の中で今新しく動きはじめている「人」の息づかいは、フィールドワークでは感じられない。
で、今日話していた内容は、どうもこのあたりの食い違いが、フィールドワークに「行く側」フィールドワークを「企画する側」フィールドワークを「受ける側」の3者の中で大きくなってきているんじゃないかという話なんです。
で、わたしはというと…。
個人的に好きなのは「自主フィールドワーク」なんですね。まずはムラ中をほっつき歩く。出会った人には適当にあいさつ。そうすれば不審な目がふと和らぎます。ムラの境界は注意深く歩いていると自然と感じとることができます*1。さらに、ムラ中の掲示板やお店の看板を見ていると、どんな仕事があったのか・あるのか。いまどういうことがムラ中で課題になっていて、それに対して何をしようとしているのか。そんなことがだんだんとわかってきます。スーパーの惣菜コーナーを見たら、そのムラの食文化がよくわかります*2
そして、人の息づかいを感じとるためには、お好み焼き屋さん*3に入ります。昼時には、たいてい誰か近所の人が食事をしていたり、出前の電話がかかってきたりします。そんなところで行き来する会話を聞いていると、巨大な団地群の中の「遺跡」とはまったく違った「いま」が感じられます。
こんなフィールドワークをしてみたらどうかなぁ。

  1. あらかじめそのムラの歴史を簡単に予習する。
  2. 昼時をまたいで2〜3時間ほどフリータイム(個人行動)。
  3. 昼のビールは許可(笑)
  4. 3時間ほど散歩して帰ってきたら、情報交換会。
  5. 情報交換会のあと、地元の人からみんなが見つけたトマソン(笑)の説明を受ける。
  6. その説明を受けた後、再度散歩(個人でも全体でもOK)。
  7. 散歩のあと、夕方のビールを飲みながら振り返り。

*1:もちろん多少のブレはありますけどね

*2:「浪速ショッピングセンター」の肉コーナーには、「さいぼし」「こごり」「カス」がわんさか並んでいます。

*3:別に定食屋でもいいんですけどね・笑

大阪でフィールドワークとか

朝、1時間目の授業が終わったら、そのまま人権教育研究会の出張で大阪へ。
まずはリバティ大阪。
リニューアルされて、これで3回目かな。来るのは。でも、仲間と一緒に来るのははじめてです。まぁ、いまさらなんで「ほれ、あそこに写真があるやろ」とか、しょーもないツッコミを入れてました。まぁ、たいていの人は1枚は気づくのですが、もう1枚はなかなか気づきにくいやろうなぁ。なにせ、後ろの方で飲んだくれている写真やし(笑)。

他にも、ワークシートとか図録に載っているんですよね。はぁ…。
昼ご飯は、「浪速ならではの」ということで、「岳」に行ったんですが、なくなっていました_| ̄|◯。なんで、解放同盟の浪速支部に変わってるねん。てことで、「ニューなに和」に行きました。肉巻定食、うまかったです。つい、ごはんを全部食べてしまいました。ちょうど研究所の知りあいにあったもので、郵便配達をたのでしまったり*1、有意義な昼食でした(笑)。
午後は、太鼓集団「怒」のメンバーの話。
もともとは浪速の歴史について話を聞くはずだったのですが、講師の方が熱を出されたとかで、かわりに地元で地道な活動をしている人が話をしてくれました。たしかに、歴史を聴こうと思っていた部分については肩すかしを喰らった気がしますが、話の内容は、それはそれでよかったです。
「太鼓の作り手はいるけど、太鼓の打ち手がいない」という状況に、まずは外から疑問が来る。それに答えるようにして、だんだんと太鼓集団ができあがっていく。すると、逆に「太鼓」がアイデンティティを補強するみたいな感じ。あるいは、さまざまな差別的な状況と立ち向かっていく原動力としての「太鼓」。差別の壁を乗り越えていくための「太鼓」。言ってみれば「誇りうる文化」としての太鼓なわけです。そして、それを次の世代に伝えていく。
う〜ん。
ええ話やなぁ…。と思いながらも、「はたしてトランスに「誇りうる文化」はあるんだろうか」と思い、ちょっと複雑な気分。

*1:すんません

自主フィールドワークとか…

今日は、人権教育がらみで「ツラッティ千本」の見学と西陣のフィールドワークでした。案内してくれたのは、小林丈広さんです。この人の話は、近代史を「衛生」という観念から解き明かしていくもので、ものすごく面白いです。
今回は、とりあえず、軽〜く「町式目*1」にかかわる説明を受けたんですが、それぞれの町の「まちづくり」への考え方というのがよくわかりました。
で、その上で西陣へ。おそらく織物産業が繁栄していた時は現代の「町式目」みたいなものが不文律としてあったんだろうけど、いまや完全に崩壊しはじめていることがよくわかりました。それがいいことなのかわるいことなのか…。なかなか評価は難しいですね。
午前のフィールドワークが終わったら、午後の講演まで時間があったので、ふたたびツラッティの近辺を自主フィールドワーク。「お土居」があるのが京都の「町」の面白いところなんですけど、このあたりには残っているんですね。で、そこを境目にしてがらっと町のたたずまいが変わります。なるほどなぁ、と。
午後はふたたび小林さんの講演。実は、同じような話を5年ほど前に聞いているので、さほど新しい収穫はなかったんですけど、明治30年あたりからの部落の有力者層の流出の話は、やはり刺激的でした。まぁ、個人的には流出する気持ち、わからんわけじゃないけどね…。

*1:「これこれこういう仕事の人には家を売るな」という約束事