冬支度

バイクの冬支度は前にやったのですが、車の冬支度がまだでした。
月曜日に寒波が来たので、マジでこれはヤバイです。そういえば、去年は12月21日だったかに大雪でえらいことでした。ノーマルタイヤ、というよりスリックタイヤの今のままでは、タイヤを転がした瞬間に大スピンをしてしまいます。
ところで、タイヤがおいてあるのは、家から少し離れた某所。しかも、山の上にあります。しゃーないので、まずは、ジムニースタッドレスタイヤにして、その後、もう一台のスタッドレスを山の上から持ってくることにしました。
さて、タイヤ交換をしようにも、まだ左腕が完全ではありません。しゃーないので、上の子どもに手伝ってもらうことにしました。
短時間ではあるけど、ひさしぶりの子どもと二人のドライブ。勉強の話とかゲームの話とかいろいろとしながら某所へ。で、タイヤ交換開始。基本的にはねじをゆるめてねじを締めるだけですからたいしたことはないのですが、やっぱめんどくさいですし、なんといっても力がいります。けっこう上の子が役に立ちました。30分ほどで交換完了。あとは、車の後ろにタイヤを積んで帰るだけ。ま、こんな時間も大切ですわ。
家に帰ったら、パートナーがなんかバタバタしていたので、晩ご飯づくり。つくったのは、ひじきの炊いたん。あとは、冷凍食品の野菜巾着に味をつけた程度。煮含める時間がかかるだけのことですから、たいしたことはありません。そうそう残っていたうどんをつかって、焼きうどん。今回は、醤油味のみで攻めてみました。

それにしても、最近、夜、起きていられません。10時をまわるとそろそろおねむ。10時半頃にはほとんど寝かかっています。もっとも、そのほうが健康的なのかもしれませんがねぇ。

ヒビのその後

今日、レントゲンを撮ってもらいました。まぁ、ボチボチ治りかけているみたいで、三角巾もいらなくなりました。これからは、だんだんと積極的に動かしていく必要があるみたいですね。

授業にて

つい、これプリントして教室で配ってしまいました。コメントを言ってしまいました。泣いてしまいました。でも、今は泣いている時じゃないんですよね。

今、私達は泣いているときではありません。大人も子どももみんないっせいに立って、悲しみの原因を打ち破ろうではありませんか。そして光り輝く新しい世の中にしていきましょう!
山田孝野次郎の水平社設立大会でのアピールより

やっぱりここかよ!

セミナーが終わったら、やっぱり「呑み」が待っています。ちょうど埼玉から京都のほうに学会できておられた友だちと待ち合わせをして、「さて、どこに行こう…」。あとから合流するこの方*1の交通の便なんかを考えて、大阪駅近辺に行こうということになりました。となると、あのあたりで知っているのは、「新梅田食堂街」しかありません。
友だちとふたり、フラフラとガード下を歩いて、お店に入りました。まもなく、合流すべき人も合流してこられて、3人でしばし話。
わたしを含め、3人のフィールドが、少し重なりながらも、バラバラなので、必然的に話の内容がものすごく多岐に渡ります。頭の中を整理するのもたいへんなんですけど、さまざまな話をシャワーのように浴びながら、とてもスリリングな時間を過ごすことができました。で、気がつくと、10時半。やば…。終電に間にあわないかもと思いながら、阪急に飛び乗りました。ウトウトしながらも、なんとか乗り過ごすこともなく、最寄りの駅に到着。あぁ、帰れた…。

*1:なんか、今回のセミナーでのわたしの推薦人だそうで^^;;

JASEのセミナー

あたしゃ性教育なんてぜんぜん専門外なんですが、なぜかJASEセミナー*1で話をするハメになりました。いちおう、他の人がどんな話をされるのか聞かなくちゃと思っていたのですが、寝坊のおかげで午前の話はボツ。午後の実践報告を聴いて、次がわたしという状況になりました。
わたしの前の方は、障碍児の性にかかわる話。障碍をもつ子どもたちが「性」を意識化し、それと真正面から向きあうことにより、他者とのコミュニケーションがとれるようになったり、自分自身の成長をうながすことができたりしたという感じの話だったと思います。う〜ん、すごくまじめな方です。わたしとしては…。その方とのギャップがちょっとおいしいかもしれません。
で、話しはじめたのですが、案の定、よく笑っていただけました。そりゃそうだ。前の人は、けっこう涙ながらに語り訴えておられたわけで、その反動というのがありますから(笑)。
でも、むずかしいんですよね。自分自身のことだったら、まだしんどい話も「笑い」にすることがしやすいけど、子どもたちの姿を下手に笑いにしてしまうと、そりゃあまずいだろうということになりかねませんからね*2
相も変わらず、時間配分が下手な話だったけど、それなりに満足していただけたみたいで、ちょっとホッとしました。

*1:リンクはpdfファイルです

*2:でも、自分の話を「ネタ」にしたとき、同様の経験をもつ人がその「ネタ」で傷つくかもしれないという可能性を、常に考慮する必要があるっていうことをあとで指摘されましたけど…。

寝坊

今日は、ほんとうは午前中から大阪に行く予定があったのですが、あまりにもしんどいので昨日のうちに「午後にさせて下さいm(_ _)m」というお断りを入れておきました。
朝起きると、8時半。いい感じです。パートナーと上の子どもは朝からお出かけ。わたしは、10時頃に出ればいい。問題は、下の子どもです。なにが問題かというと、パートナーと上の子どもが帰ってくるのはお昼をかなりまわりそうです。てことは、昼ご飯を食べさせなくちゃなりません。ところが、下の子どもは、とりあえず出してみないと食べるかどうかわからないという、刹那的な偏食なんです。
それでもなんしかつくっておいて「これ、食べるんだよ」と用意しとかなくちゃなりません。冷蔵庫を開けても、いまひとつピンとくる食材がありません。やっとみつけたのが、うどんとキャベツ。となると「焼きうどん」かぁ…。しかし…。あ、竹輪があった。ついでだから、ふんぱつしてカスも入れてやろう。まぁ、そんな感じでお昼ご飯をつくって、大阪へ。
それにしても、8時半まで寝たのっていつ以来だろう。とても体調がいいです。

温故知新…

その後、家に帰ったら一通の封筒が来ていました。そこに、ある本のコピーが入っていました。それを転載します。

人間社会の文化の程度が低い時代には、支配者達はその動機を少しも隠そうとしなかった。部落の酋長や専制時代の国王は、もっと強大な権力を得、もっと大規模な掠奪をしたいという簡単明白な理由から、露骨にかれらの人民達を酷使したり、戦争にかり立てたりした。ところが、文明が向上し、人知が発達して来るにつれて、専制主義や独裁主義のやり方もだんだんとじょうずになって来る。独裁者達は、かれらの貪欲な、傲慢な動機を露骨に示さないで、それを道徳だの、国家の名誉だの、民族の繁栄だのというよそ行きの着物で飾るほうが、いっそう都合がよいし、効果も上げるということを発見した。帝国の栄光を守るというような美名の下に、人々は服従し、馬車うまのように働き、一命を投げ出して戦った。しかし、それはいったいなんのためだったろう。かれらは、独裁者の野望にあやつられているとは知らないで、そうすることが義務だと考え、そうして死んで行ったのである。
現にそういうふうにして日本も無謀極まる戦争を始め、その戦争は最も悲惨な敗北に終わり、国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかもしれない。しかし、そう言って安心していることはできない。独裁主義は、民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。独裁政治を利用とする者は、今度はまたやり方を変えて、もっとじょうずになるだろう。今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗してじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変えて、自分の野望をなんとか物にしようとするものが出て来ないとは限らない。そういう野望を打ち破るにはどうしたらいいであろうか。

さて、ここで問題です。この文章の出典はなんでしょう?

実は奥付によると、

文部省著作教科書『民主主義 上』
1948年10月30日文部省検定済
著作権所有 著作兼発行者文部省
発行所 教育図書株式会社

となっています。
戦争体験から学んだ文部省は、次の世代のファシズムをこのように予測をしていたということです。そして、時代はその通りになっています。
でも、その歴史を、いまならばまだ変えられるかもしれない。その望みが残っている間になんとかしなくちゃ…。

「ちがうことこそすばらしい 子ども作文コンクール」

今日は、午後大阪で「ちがうことこそすばらしい 子ども作文コンクール」の授賞式があります。なので、上川さんのお家を8時過ぎにバイバイして、一路大阪へ。
しかし、なんでこんな日程になっているんだorz。
とにかく、眠気を我慢しながらも寝られないという最悪の体調で、ようやく鶴橋まで来ました。もう、こうなったら「風月」のお好みを試してみて、ついでにビールを飲んで体調を復活させるしかありません(笑)。で、「風月」のお好みですが…。まぁ、個人的にはいまいちでした。せっかく熱々のお好みなのに、どっぷりとかけたマヨネーズとソースが冷たくて、味がさっぱりわかりません。まぁ、これはあくまでも私見ですけどね…。
ただ、急いで食べなくちゃ時間に間に合わなかったので、助かったといえば助かりました。店を出たら外に長蛇の列ができていましたから、本当はきっとおいしいんだと思います(笑)。
で、授賞式。
わたしは京都の事務局として前に立つ必要があったので、ジーンズ&パーカーからスラックス&セーターに着替えて、ついでなのでネクタイ代わりのネックレスをしてみました。で、一言言わなくちゃならなかったので、即興であいさつ。やれやれ…。
子どもたちの作文は、ほんとうにすごかったです。このコンクールは、在日外国人の子どもたちが、みずからの生い立ちや生活を振り返りながら、自分自身について自問自答しながら自己肯定をしていってほしいという思いで開催されています。そういうわたしたちの思いを凌駕するような作文が、たくさん出てきました。まぁ、ウチのガッコの生徒たちは、あの中の小学生の作文でも打ちのめされるんじゃないかなぁ*1
ちなみに、去年からは小学生だけじゃなくて、夜間中学の生徒さん達の作文も応募されはじめたのですが、こちらはただただ頭が下がるだけです。ひらがなばかりの作文を書く集中力と持続力。それが、「文字を書ける!」という喜びに裏打ちされているのがよく伝わってきます。「学び」っていうものがなんなのか、その作文を読まれているハルモニの姿から伝わってきました。「この場にいられて本当に幸せだ」と心の底から思いました。
おそらく、こうした実践の積み重ねを続け発展させていくことが、ありとあらゆる攻撃に抗することにつながるんだろうなと思いました。
ただ、一方で思ったこと。授賞式では入選した作文を、受賞した人自身が朗読をします。なかには渡日数年なために、流暢とは言えない日本語で読んでくれたりします。でも、そんなことを乗り越えて、すばらしいんですよね。当然、ハプニングが起きることもあります。
ある在日の子が、最近差別落書きや心ないひとことに直面したらしいんです。そのことを作文に書きながら、その経験を乗り越えようとしていたようです。でも、やっぱりしんどいんでしょうね。そこのところを読もうとした時、泣きはじめたんです。
ところが、その姿を見た瞬間、なんとも言えない冷めた思いが自分の中にありました。なぜか…。
実は、授賞式の最初にあいさつした時、わたしが言葉を出した瞬間、ある在日外国人(と思われる子)がひそひそ話をしているんですよね。それ、見た目が日本人とさほど変わらないような在日外国人の子どもたちが日本語が流暢じゃないことがわかった瞬間にまわりがする反応、すなわち、自分たちがやられてきたことと同じなわけです。そのことに思いが至らない。あるいは気づいていない。
さらに、差別落書きや心ないひとことなんて、わたしたちの仲間はさんざん食らってきています。大人ですら、そのことで凹んでしまう。でも、そんな思いを吐き出す場はないし、そのことに涙してくれる人間関係をつくることすら困難です。
こんな自分の思いが「ひがみ」であることは百も承知です。でも、そんな思いが自分の中からわきあがってくることもまた事実です。
かつてはそんな自分の思いを否定していたし、出してはいけないと思っていました。でも、いまはそうはしないことにしました。というより、口にしてもかまわない人間関係が、まわりの人たちと築けるようになってきたということかと思います。そういう「ひがみ」を持つ自分を認め、そんな情けない自分と折りあいをつけながら、それでも在日外国人教育運動の実践をすすめていくことが大切かな、と。
そんなことを、帰りの電車の中で、さらには京都駅前の飲み屋で今回いろいろご苦労いただいた方と話しました。

*1:読みたいという人がおられたら、ご一報下さい。

レクイエム

本当にここまで来た。あっという間だった。心の底から「怒り」がわきあがってくる。
「怒り」は国会の「中の人」に向かうだけじゃない。マスコミにも向かう。
この間のマスコミの教基法にかかわる報道は、国会内部の「与党と野党の攻防」にのみ矮小化されていた。でも、ほんとうに攻防をしていたのは、国会の外側にいる何万の人間と「中の人」の日常感覚の対立にあった。しかし、そのことは一切報道されなかった。おそらく、教基法は「ニュースとして無価値」という判断をしていたんだろう。そして、価値のある報道は松坂のことだったりしたんだろう。それが報道のあり方であるとするならば、日本のマスコミはその程度のことということだ。
もっとも小さい声を拾い上げることが「人権」だとわたしは考える。そのようなわたしの考えに基づくならば、いまのマスコミの報道は「人権」と真っ向から反する態度をとりつづけてきたと、わたしは考える。そして、それが今回の「改悪」を後押しする要因のうちのひとつになったと、わたしは考えている。
敗北感を抱きながら、渋谷に行った時、号外はまかれていなかった。スタンドに並ぶ新聞の一面は、いつもとかわらない内容でしかなかった。いじめの問題や教員の待遇の問題をはじめとして、これほどまでに「教育」に「関心」を持ちながら、その教育の基本にかかわる路線の変更にはまったく関心がない。これが、この国の教育に対する姿勢であるとするならば、すでに、この国の教育はその終焉を迎えているとしか、わたしには考えられない。
2006年12月15日は、日本の教育の「死への行進」がはじまった、その大きな一歩の日として、いつの日か記憶されることだと思う。いや、この日が「過去のこと」として記憶されるその日を、一日も早くとりもどすための闘いが、今日からはじまった。

忘年会

なぜ渋谷まで来たかというと、今日はなぜか渋谷で忘年会なんですよ。集まってきた人たちはここの人たちと、こんな人たちです。
正直言って、なんでここに自分がいるんだろうと思いながらも、まぁ、話のネタとしてはけっこうくいつきがいいかなぁということで、小遣いをはたいて参加することにしました。
まぁ、忘年会なんて言うものは、しょせんは忘年会なわけですが、なにせ、今日は怒りのモードが全開なので、あちこちで火炎放射をはきまくっていました。
でも、それはそれとして、いろんな話ができたり聞けたりしました。やっぱり、収録という限られたオフィシャルな場面だけじゃなくて、アンオフィシャルなところで話をすることって大切なんだなぁと思いました。
忘年会がお開きになったのが1時頃*1
実は、今晩の宿を取っていないんですよね。まぁ、そのあたりのマンガ喫茶で寝たらいいかと楽観的に考えていたんです。すると、忘年会の参加者のうちのひとり*2から「ウチにとまる?」というありがたいお言葉がもらえました。で、その言葉にあまえて豪徳寺へ。そういえば、今をさること3年前、聖地ウィメンズセンターでGID研究会があった夜、豪徳寺で合宿をしたよなぁと思いながら、おふたりのお家に行きました。途中、コンビニに寄って食料と飲み物をゲット。それからおふたりのお家に行って、まずはお家の作法*3を教えてもらって、再度呑み直し。といっても、そんなにのめるわけがないです。いろんな話をしながら、結局4時頃に轟沈…。

*1:だったと思う

*2:というか、正確にはワンペア

*3:自分のやりたいことは自分でしよう!みたいな