教員の仕事・まだまだ続く(笑)

ともくりさん、ども。mixiの方に「こっちでいろいろ書いています」と書くべきだと思ったまま、家に帰ると爆睡する毎日が続いているので、書けていません。すみません。あと、mixiは限定された人しか読めないので、こちらのほうで紹介するのは適していないと判断したので、こちらのほうでは出典をはっきりさせませんでした。

で、本来はコメントで書いていく必要があるかと思うのですが、まぁ、日記の主の特権*1で、本文にします。てか、ネタがないので助かっていたりして(笑)。

ともくりさんの書かれた文章の中には「すべての教員は〜」という書き方はありませんでした。ただ、その後のコメントの中で、教員ではないのですが、「すべての〜」に近いニュアンス(あくまでも「近い」です)がありました。そのあたりが直接の引き金になったかと思います。
あと、前にも書いたように、「自嘲」によって批判をかわす手法もあるのですが、それは少なくともともくりさんの場所やこの場ではやめようと思ったのです。

わたしがなぜあのような文章を書き、その後これほどしつこく書き続けているか、自分でも不思議なのですが(笑)、書きながら整理をしていきますね。

現在、システムをいじることによって教育の内容を「充実」させようという動きがあるように、わたしは思います。その動きの原動力になっているもののひとつは、巷で言うところの「教員の指導力不足」というものかと思います。そのあたりから、巷での教員への批判がどんどん正当化されていったような気がします。
一方、教員からの他の教員への批判も多々あります。曰く「◯◯をやらない教員がたくさんいて…」。「どうも◯◯な教員が多くて…」。たしかにそれに同意するところもたくさんあるのですが、なんとなく自分の中ですっきりと落ちきらないところがあるんです。

教員に限らずですが、だれしも、たくさんの切り口を持っていると思うのです。ある人は、そのなかのある特定の切り口では批判されるべき内容を持っているかもしれないけど、他の切り口ではとてもすぐれている、そんな方も、たくさんおられます。にもかかわらず、巷の教員への批判も教員からの教員への批判も、ある特定の切り口からなされることが多く、その言及が「教員の資質全体」あるいは「教員の資格」にまで発展することが多いように思うのです。もちろん、「決定的な切り口」はあるのでしょうけど、それもまたひとつではないように思います。「決定的と思っている切り口」同志が、時として正面から対決してしまうことすらあるかと思います。
なので、「特定の切り口からの批判」を聞くにつけ、なんとも言えない居心地の悪い違和感を、いつも感じてしまいます。

ところで、先に書いた「システムをいじること」によって、学校教育の方向がはたしてどっちの方に行くのかということについて、わたしは漠然として危機感を持っています。というか、すでに変更ははじまっていて、そのことによって、教員の雑務の増加や学校と社会の関係の変化、子どもをとりまく社会のありようの変化など、さまざまな弊害が出はじめているように思えてなりません。
こうした状況を前にしたとき、「従来の批判のありよう(これをわたしはステレオタイプな批判と考えています)」ではないやり方から立て直していかないと、やばいんじゃないかというふうにいま感じています。

あと、「すべての大人がかつて〜」というところですが、わたしも同意できるところはあります。ただ、それが「感情的な批判が巻き起こる」につながっていくところに大きな問題があるように思います。
わたしはかつて小学校の頃教員からひどい仕打ちにあったこともまた、わたしにとっての「経験」であり「財産」であると最近思います。その経験があったからこそ、わたしは違う大人でありたいし、違う教員でありたいと思っています。ただ、それがはたして「いい方向」に向かっているかどうかは、やっぱりわかりません。
ちなみに、団塊の世代が、自分たちの子ども時代への反発からつくってきた社会のありよう、あるいは子育ての方法があるみたいですね。でも、「結局それは失敗したんじゃないか」みたいな話もあります。ひとつの時代から、次の時代へのバトンタッチって簡単には評価できないし、時間がかかることだなぁと思います。

おそらく、根本的にわたしは「楽観主義者」であり「性善説」なんだろうなぁと思います。前にも書いたかもしれませんが、「人はいつでも学びうる」「人はいつでも変わりうる」と思っているのです。「レッテル貼り」はそうしたわたしの価値観とはまったく逆行するものと思います。だからこそ、わたしもしたくはないし、わたしへのレッテル貼りも拒否をしたい。
このあたりの問題意識が根底にあって、ともくりさんのところの日記とコメントが引き金になって、いつのまにか、このあたりの話にしてしまいました。まぁ、冷静になると、日記とかコメントって「愚痴」の部分があるので、「ネタにマジレス」な気もしますので、迷惑かけたなぁとは思うのですが…。

あと、研修のことを樹村さんが書いておられますね。
現在、新規採用の人については、1年間指導教員がつきます。ただ、これ、双方にとってかなり過重なんですよね。研修ノートという交換日記をされるみたいですが、それを書くために、新採の人も指導教員も、たとえば教材研究をする時間がなくなったり、生徒と話をする時間がなくなったり。あと、その指導教員の教育観(笑)に指導内容が多分に左右されてしまうので、はたして現在のあり方がいいかどうかについては、評価がわかれるかなぁと思います。
教育委員会も、別に管理することだけを目的としているわけじゃなくて、それなりに研究はしているんですよね*2。でも、おそらく、「これ」という絶対的にいい方法が見つかっていないんじゃないかと思うんですよね。

*1:m(__)m

*2:このあたりが、15年くらい前のわたしとの最大の違いだったりします(笑)

教員の仕事・まだまだ続く(笑)” に2件のコメントがあります

  1. やっぱり、「専門家と一般人のありがちな対立」に見えます。一般人は、わかりやすい一般論と自分の身の回りの経験(だけ)から、わかりやすい改革(システム改変とか)を求める。専門家は、そうではなく地道な改良をすべきだと思っているのに、そゆのって素人にはわかりにくいので、一般人はそれでは納得しない…
     こんな風に抽象化すれば、私の前の勤務先でも良くあったし、世間でも良くありますよね、そういうの。一般道を整備して欲しいと地元民が請願したら、高速道路が出来ちゃったりするのが、そう。先の郵政改革なんかも、その流れかも。
     で、専門家の妥当な意見であっても、一般人から分かりにくいままだと、押されてしまうのは、もうしばらく止められない気がします。

     また「教員の指導力不足」ですが。それだけではなくって「従来押さえつけられてきた子供の多様性が顕在化してきた」ことの方が大きいんじゃないかしら。なので、新たなシステムが求められているように、素人である私は感じます。

     次に研修。なんかまだ話が通じていない気がします。要するに、私が書いたような研修は、存在しないっていうことで良いですか?お書きになっているようなことは、私の言う研修の後の段階ですよね。
     私がイメージしている研修は、例えば最初の1年は教材作り試験作り生徒の提出物添削などをやらせる。2年目は、他の教師の授業を各種見学しレポートを書かせる。3年目は、他の教師立ち会いの下で教壇に立たせる(仮免許講習みたいな)。全部合格したら、4年目からいつきさんがお書きになっているような研修に移行する、という(1年目と2年目は半年ずつだったかも)。
     すっごくコスト(経済コスト&社会コスト)がかかるので、まぁ当分無理でしょうけど、教育は世の柱。これだけコストをかけても、私は良いと思うんですけど(コストをかけずにシステムだけ変えようとすると、いつきさんのお書きになっているように、人にばかり負担がかかって良くない)。実際、上記のようなことは、大手予備校の一部では実施済みだとか(つか、それを見て受け売りしてます)。

  2. まぁ、樹村さんの文章を読みながら頭を冷やすと(笑)、たしかに「ありがちな対立」なのかもしれませんね。

    ただ、最後にお書きになっているように「教育は世の柱」なんで、「専門家(?)」であるわたし(たち)も、きちんと返していかなくちゃなと思います。と同時に、わたしにとっては専門でないことに関しても、ステレオタイプのレッテル貼りを避けていくことをしなくちゃと思うのです。大切なのは、どの場面でも、そういう対話を紡ぐことかなと思います。

    子どもの多様性もさることながら、親の多様性が…。子育てをしない親、教育に一家言持つ親、学校とは逆行する考えを持つ親、もちろん協力的な親…。その多様性への対応のような気がします。なんというか…。直感ですが、子どもたちのありようが「集団」とか「層」から「バラバラ」になってきたというふうに感じます。

    あと、研修ですが、「ない」です。これも樹村さんが書かれているとおり、それだけのコストがかけられないということだと思います。
    ブレアでしたっけ「1に教育2に教育3に教育」というふうに言ったのは。実際、イギリスではものすごい教育改革をやりました。あの事例とか、フィンランドの学校教育のあり方って、ずいぶんと参考になるんだけどなぁ…。
    このあたりは、また説明できるレベルまで理解したら、日記に書きますわ。

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