相談にのる

朝は眠いです。でも、しかたないです。
とりあえず電車に乗って出勤。今日はのんびりな金曜日です。なので、成績処理をしたり、印刷したり。
そうそう、教務部長と「入学者の学力層」のこととか「これからの評価のあり方」とかについて、しばし雑談。
かれこれ35年ぐらいかけて、京都の高校制度は小学区制から中学区制に変わりました。それにともなって、学校間格差が大きくなりました。で、そこの学校も自分の学校に学力的に高い子が入ってくるように、さまざまな「アピール」をするようになりました。いわゆる「学校説明会」ていうヤツですね。で、「今年は定員が充足した」とか「今年は定員割れを起こした」とか、一喜一憂されます。で、ますます学校説明会に力を入れるようになっています。
これ、なんかおかしいなと思っていたんですよね。で、教務部長と話をしていた。
まぁふたりが一致したのは、おそらく入学してくる子の学力層がどうなのかということと、学校説明会が成功したかどうかというのは無関係だろうということです。つまり、学校説明会の中身がどうであれ、それは学校選択にはほとんど影響がないってことです。じゃ、何が影響するかというと、前年度の入試の倍率です。みんなそれを見ながら志望校を考える。
ところが、どうも教員は、そういう「外的な要因」を嫌うようですね。つまり「自分の努力の及ばないところ」というところに原因を探りたくないようです。言いかえるなら、「自分の努力の成果が反映されたかどうか」でものを考えるようです。まぁだから、
生徒を押さえつけた→生徒はおとなしくなった→そういう層の生徒が入学するようになった→「いい学校」になった
と、単純化してしまうんですね。「そもそも、やんちゃな子どもがいなくなって、全体的におとなしくなったから、そういう子が入ってくるようになった」とか「スカートの長さのトレンドが膝丈になったから、みんなスカートを短くしなくなった」とか「ネクタイはきちんと締めた方がカッコイイというふうにトレンドが変わったから、服装がきちんとなった」というふうには考えないようです。
まぁ、そんなこんなで「無力だよな」という話でした。
だからこそ、評価のあり方を考えなきゃならなくて、わたしがいつもの暴論を言うわけです。
「チームで試験をとけばいいじゃないか。勉強苦手な子が得意な子と一緒に解けばいいじゃないか。苦手な子が得意な子を味方につけるとしたら、それは「外部の力を活用する」というスキルなんとちゃうか」
と。それに対して、教務部長は
「そうかぁ、それも学力と見るかぁ」
と言ってたので、案外「おもしろい」と思ったのかもしれません。

と、センセからメール。ちょっとというか、かなりというか、うれしかった。きっと励ましのメールだな。

午後は若い衆が「デートDV」と「就職差別との闘い」の指導案を持ってきたので、しばし相談。
何を目的とし、何を導入に使い、展開部でどうそこへもっていくかみたいな話。あるいは、そこに担任さんのオリジナリティをどう混ぜ込むかみたいな話。
なんか、デートDVとか依存とかを教えるのが難しいとかいうふうに言うんだけど、まったく難しくないと思っているんですよね。みんな「依存とは」みたいなことを教えなくちゃいけないと思っているみたいだけど、そんなの必要ないんですよね。じゃなくて、「こんなこと、あるやんか。それが依存やねん」っていうふうに、すでに経験していることに「依存」という名前をつければいいだけのことなんですよね。ちょうど、マイクロアグレッションと同じです。そう名前をつけることで、概念として理解できるようになる。
まぁそんなこんな。

てことで、定時が来たので退勤。帰り道はゲンコの最終チェックをしようかな。

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