これでええんかなぁ

今日は午後から出張です。なので、午前中はひたすら雑務。今週のうちにやらなきゃならんことがあるので、ものを考えるヒマもなく。途中、来週の人権学習の「ワーク」を提示しに行ったけど、イマイチやな。「むずかしい」とか言われたけど、めっちゃ簡単やんか。「結論がわからん」とか言われたけど「みんな違ってみんなええで終わらんわ」やって言ってるやんかと。
ま、いいです。きっと適切にやってくれたら子どもたちは考えるでしょう。
てか、絵を書いてくれた人に失礼やと思わないかなぁ…。

てのはおいといて、午後はとある支援学校で会議です。
支援学校が会議の会場になった時は、いつも学校見学をさせてもらいます。で、今回もまわらせてもらったんですが…。
支援学校を見学させてもらうたびに複雑な気持ちになります。たしかに重度な子はいます。音楽療法なんかをしておられます。それはそれでいいのかもしれないんだけど、なんかもやっとします。軽度の知的障害の子らはひたすらものづくりや物流管理の実習をしています。それはそれでいいのかもしれないんだけど、なんかもやっとします。まぁそういう場面しか見てないだけなのかもしれませんが…。
でも、高校が完全に輪切りになって、学校間格差がどんどん正確になっていく過程で、この子らは「学力」的に「松竹梅」の「下」、すなわち「進学に届かない」とされて「就職のための訓練」をする学校に入学してるんじゃないかなと。とすると、この支援学校を必要としてるのは、支援学校に通っている子らを排除したい「松竹梅」の学校ではないかと。そしてその中で一番それを必要としているのは「松」の学校ではないかと。にもかかわらず、「松」の子らは、例えば善意であっても「交流」の対象としてしかこの子らと出会えず、ほとんどの「松」の子らは将来は支援学校に通ってる子らと別の世界に生きることになる。
これでええんかなと。
そうそう。この学校の卒業生に辻戸一義さんというCPの方がおられて、その方、今俳人をされているようです。ここの学校にも出前授業をされてるとか。その方の紹介をされた時「知的障害はなかったようです」と言われて、その言葉を聞いた時「ゾッ」としました。その方、どんな思いでこの学校におられたんだろう。そして今その方は、となりの病院で生活しておられるとか。「街に出る」という選択肢はその方の前に選択可能な形で提示されたんだろうか。
そして、その方が卒業されて30年弱。いま、その選択肢は選択可能な形で子どもたちの前に提示されてるんだろうか。そして、そのことに無自覚なわたしたち教員がいるんじゃないか。
そんなことを、今回も感じさせられました。