やさぐれの翌々日(笑)

今日は「かつての生徒」と呑み。ひとりは5年前の放送部の卒業生です。こちらはまぁいい(笑)。もうひとりは、なんと28年前の卒業生。しかも担任したわけでもなく教科担当だったわけでもない。でも、とても印象的だった生徒のうちのひとりでした。
行ったのは鉄板焼き&お好み焼きの有名店。とてもおいしかった。でも、それよりもなによりも、楽しかった。
なんか、ふたりの卒業生で共通してたのは「わたしは生徒をひとりの人として見てた」ってことでした。
で、それを聞いたわたしは「へ?」って思った。だって、それって当たり前のことです。高校生ともなれば、15年なり18年なりの人生を過ごしています。その人生をどう見るかなんですよね。
教員が見ることができるのは「麸」みたいなもんです。中身はスカスカ。でも、その子の人生はそうじゃない。「生麩」のようにぎっちりと詰まっている。で、大切なのは「自分が見ることができるのは、たかが「麸」程度」ということを認識することと「「麸」から「生麩」を想像すること」だと思っています。だから、いろんな話をしたり、家庭訪問したりしながら「麸」を「生麩」へと近づけていく。そして、そうやって見ていくと、それぞれの子どもには、それぞれの人生があること、そしてその人生をつくってきた背景なんかが立ち上がってくる。そうした時、その子へのリスペクトってのは自然とわきあがってくる。だから、当たり前のこととして「ひとりの人」として対面せざるを得ない。いや、逆かな。そういうふうに対面したいから「ひとりの人」として向きあうところからはじめるのかな。まぁ、そのあたりは、ほとんど鶏・卵です。
で、そうやって見ていくと、その子の「悪いところ(笑)」はその子の背景に原因があり、その子の「いいところ」はそのご自身の力だと思うようになる。もちろん、ここで「悪い/いい」なんてあたりがすでにダメダメなんですけどね。でも、とりあえずそれをおいといて、そういうふうに見えちゃうんです。
でも、そういうふうに子どもと向きあう教員って少ないらしいです。だって、ふたりとも「そういうわたし」を覚えてくれていたということは、「他の教員とは違う」ってことですから。さらに言うならば、今回一緒に飲んだうちのひとりは、わたしが教員になった年の入学生です。つまり、なんの経験もない、青二才のわたしでした。そして、もうひとりは5年前の卒業生。で、そこに変化がないということは、もとからわたしはそういう教員だったということです。
びっくりです。だって、教員たるもの、そうやって向きあうのが当たり前だと思っているからです。当たり前のことが少数であるなら、わたしは教員らしくない教員なのか。
なんか、教員ってなんだろう。学校ってなんだろうと思ってしまいます。

まぁ、もしかしたら、学校とか教員とかって、わたしが考えているようなものじゃないのかもしれませんね。
その子の表面を見て、自分の価値観にあっていれば「いい生徒」。あわない振る舞いをする生徒は「悪い生徒」。そうやって断罪する。そして「いい振る舞い」は学校や教員の成果で、「悪い振る舞い」はその子のせい。だから自己責任。

わたしはそれは教育ではないと思うのですが、「わたし」が印象に残るのであれば、「わたし」は少数であり、「わたしではない」が多数で、それが教員であり学校である。少なくとも、それが「今」なんですよね。
わかんないです。

学校ってなんだろう。教員ってなんだろう。教育ってなんだろう。
わからなくなります。
でも、少なくとも、今日飲んだふたりが、わたしのことを覚えててくれて、しかもそれを肯定的に感じてくれていたってことは、「こんなわたしでも教員やっててもいいんだ」っていうこと。そう思わせてくれた。
それはとてもとてもありがたいなぁ。