今日は数学科の飲み会。お店はみんなの手というカフェです。
ここは、福島からの避難者の人たちのコミュニティで、その活動の一環でカフェをしておられます。
ちなみに、食事はとても安くてしかもおいしい!さらに、8人で行ったけど、飲み放題にするかどうかは個人単位で選べるという、もう、普通では考えられないお店です。
てのはおいときまして…。
当然のことながら、わたしの暴言癖が出てくるわけで、今日の暴言は「体育館を講堂にしよう」です。
うちの職場は体育館が都合3つありまして、それはそれでとても充実しているのですが、全校で落ち着いて座って集まれる場所がない。例えば椅子に座ろうと思うと自分たちで並べなくてはなりません。これ、かなりの労力なので、結局やらないんです。
でも、全校で集まるときに「椅子に座る」ってとても大切なんです。
もちろん、床に直接は非人権的ってのもありますが、それだけでなく、おしゃべりとかもしなくなるし、それに伴って怒られることもなくなって、したがって大きな声で話す必要がなくなって、だから静かな環境を保障できる。すると、すごく落ち着いた雰囲気になる。
ところが、みなさん「そんな、全校で集まる機会って、何回あるねん。それよりは体育館として使ったほうが効率がいい。講堂はムダ」と言われるんですね。
ま、もっともな意見です。でも、そのムダがとても大切なんだと思うのです。キチキチの遊びのない効率的なところと、多少のムダが保障された余裕のあるところ。どちらが子どもたちにとってよりよい環境か。
そう考えると、例えばクラブ指導で土日もすべて詰まってしまっている状態は、子どもたちや教員にとっていいのか?あるいは土曜活用の掛け声のもと、土曜日も授業するって、果たしていいことなのか?
ここで、子どもの権利条約にある「余暇を過ごす権利」を思い出します。
「児童の権利に関する条約」
第31条
1 締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。
2 締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。
「余暇」。つまり「余った」「ヒマな時間」を過ごす。いまの学校って、その対極にあるような気がします。「余った」「ヒマ」な時間はムダ。そして、ムダな時間を「有効」に使うべく、クラブや授業を放り込んでいく。
しかし、なぜ「児童の権利に関する条約」では、「余暇を過ごす権利」が必要としたのか。おそらくは、長い人類の歴史の中で、世界中の人の叡智を集める中で「必要」と考えられた。だからこそ、この条文がある。
そう考えた時に、世界の叡智の結集を知らず、自分(たち)の限定された価値観でものごとを考え、判断することの危険性を、強く感じます。
例えば、吹奏楽部が「今度の水曜日の昼休みに講堂で演奏会をしまーす。聞きに来てください!」。そして、講堂からお昼に吹奏楽部の音が漏れてくる。例えば、書道部が「今度の木曜日の昼休み、書道ライブをやりまーす!見に来てください!」。例えば将棋部が「今度の火曜日の放課後、公開で対戦しまーす!対局の解説つきです!」こんなことが、どこかのホールを借りて学校の外であるのではなく、日常的にあることの豊かさ。
「スポーツにしか使えない」体育館よりも、実はるかに豊かなことができると思うんだけどなぁ…。