子どもとつくる貧困とひとりぼっちのないまち

今日は某人権教育研究会の夏季研究大会です。まぁ、自分の役割が役割なので、ちょいとリハビリがてら参加しようかと。てことで、パートナーの運転の車で会場まで向かうことにしました。ちなみに、会場はこないだまで入院していた病院のすぐ近くで、ついでに「お勘定」もすませてしまおうかと。
ただ、問題は服装なんですね。前回も「どん引き→騒然」となったけど、今回はもっとハードル高いしなぁ。なにせ、総括○○○○とか、某校○とかも来るしなぁ。てか、うちの新採も来るよなぁ。
でも、ここは根性決めてスカートで行きましょう。いや、単に「締めつけが緩いから楽」というだけのことなんですけどね。
で、会場に行って同僚と会うと、やっぱりどん引きされました。ま、しゃーないです。不徳の致すところでございます(笑)。

で、今日の講演は山科醍醐こどものひろばの村井啄哉さんです。村井さんとはこの時にはじめて出会って、なんとなく意気投合して、でも、それ以来会っていない人なんですね。なので、今日は存分に話を聞けるなと楽しみにしていました。
話の内容は、「こどものひろば」の発足当初からの歴史や、それからの変遷、さらには「子どもの貧困」にかかわる話です。「貧」に焦点をあてるのではなく「困」焦点をあてるとか、ボランティア大学生の組織化の話とか、既存のネットワークの利用とか、ほんとうに参考になる話がいっぱいありました。
が、たぶん、これ、わからない人にはさっぱりわからないでしょうね。というのは、村井さんの持っている力というか魅力というのは、おそらくは教員が持つべきと思われている方向とは斜め60度くらいずれているからです。例えば、ボランティア大学生を募るとする。たいていの組織は「やってほしいこと」があってボランティアを募る。なので、その「やってほしいこと」に合致しない大学生は来ないし、来ても定着しない。ところが村井さんは「集まった人がやりたいと思ったことを支援する」というスタンスです。いや、もしかしたら「支援」もしないかもしれない。でも「やりたいこと」のためなら、工夫をします。それを見守る感じ。すると、活動が広がっていきます。活動が広がった分だけボランティアも来るし、利用者も来る。ただし、お金もかかり仕事も増える。この最後のところを村井さんは担っておられるんですね。これ、すごいことです。すごく「ええかげん」な言い方をしておられますが、それもまた魅力ですね。
それから、話を聞いていると、まさに同和加配がかつてやっていたことを彷彿とさせます。あの頃は法律の後ろ盾のもと、お金と人が会った。それがないところで今、子どもの貧困のことが論議されている。おそらく「いろんなご託はいらんから、金と人をよこせ!」という気持ちだろうけど、それを自分のスキルで集めているんですね。
ということがわかるかどうかが、村井さんの話がわかるかどうかの分水嶺なのかな。で、もしかしたら、一般的なというか「教員らしい教員」にはわかりにくいところなのかもしれません。

ま、そんなこんなで、とてもおもしろい話が聞けました。
今日は体調あきませんから、また秋になったら呑みましょう。

リライト開始

今回はこないだ送ったおべんきょ結果のリライトです。
あの時、「一度組み立てたものをバラす「決意」」と「そのバラしたものを再度組み上げる「やる気」」を経験しましたが、それをもう一回やらなきゃなりません。
とりあえず、リライトのための「コメント」をじっくりと何度も読み返します。難しい…。書いてあることがわからん(;_;)。でも、何度も読み返す中で、「タクティクス」が浮かんできます。「ここはバラす」「こう組みかえる」「これを入れる」「これは抜く」。少しずつ少しずつ考えて、なにをどこと一緒にするのかしないのか。筋が通るのか通らないのか。そんなことを試行錯誤しながら考えます。
と、突然「いままでの完成稿」にはなかった考えが浮かびます。「あれが抜けてたのかぁ」。それを抽出することで、別のものが浮かび上がってきます。
とてもしんどいけど、やはりおもしろい。おもしろいけど、ものすごくしんどい。でも、この山は絶対に登り切ります。

「にじまい」との交流会

本来は28日の夜から沖縄に行く予定でした。てか、「大量出血」の時は「来週だったら大丈夫だろう」と思っていたので行くつもりをしていました。が、さすがに「転院」した時点で「これは無理やな」と思ってキャンセルしちゃいました。
で、今回沖縄に行く目的はふたつありました。ひとつはもちろんR球大@N入さんプロデュースで、もうひとつが「にじまい」というサークルとの交流会でした。これはこれでとても楽しみにしていました。が、今回どうしても無理ということで、急遽プログラムを変更して、skypeで交流をするということになりました。
19時半頃、skypeがつながりました。
そこから、映画「coming out story」のことからはじまり、カミングアウトにまつわるさまざまなことを話しあいました。
ひとことで「カミングアウト」と言っても、対象が親なのか、友だちなのか、会社なのか、それとも社会全般なのかによって、位置づけが変わったり、はたまた変わらなかったりします。その「相違点」をあげていくのは簡単なんですが、「共通点」をあげるのは案外難しいです。その難しさは、同じ「カミングアウト」であっても、「トランスのカミングアウト」「レズビアン/ゲイのカミングアウト」「部落出身のカミングアウト」にも同様にあります。それらの「相違点」をあげるのはあげるのは簡単だけど、「共通点」をあげるのは難しい。
さいわい、「にじまい」にはいろんな人が集まっておられます。だからこそ「相違点」を出しあいながら「共通点」を探ることができる。そんな論議ができたかな。
約1時間半、濃密な時間が過ごせました。
でも、来年は「生身の交流」がしたいな…。

すすまない…

リライトのタイムリミットまでそんなにあるわけではないです。でも、やはり「安静状態」ではなかなか頭がまわらない。
とりあえず、できそうなところから手をつけていかないと、どうしようもありません。この鈍った脳みそをどうにか動かさなきゃ。

北風と太陽

昨日、自分なりの考察結果を述べたわけですが、その対処法に大きな間違いがあることに気づきました。それは、「膀胱内の負圧の逃げしかた」についてです。
昨日は「尿道口に力を入れて負圧を漏らさないように」と考えていました。が、よく考えると、それ、不可能です。まず、「尿道口に力が入れられるのか?」という根本的な問題。もうひとつは、「そうやって負圧を漏らさないようにしていても結局はなんらかの形で負圧を解消しなきゃならない」という問題を先送りしているだけであるという問題です。
結局何が「チクッ」とするかというと、負圧を解消するために起こる「急激な」吸気が,その要因なわけです。てことは、「ゆるやかな吸気」にすれば「チクッ」は起こらないはず。
てことで、逆に「尿道口を緩める」方向で試してみると、これ、案外いけるかもです。もっとも、「尿道口を緩める」ということができるかどうかという根本的な問題はいまだ解決されていないわけですが(笑)。

しかし、こんなくらいしか「変化」がないわけです。やれやれ…。
出血はもちろんとまってはいないのですが、「アクシデント前」とは明らかに色が違って、色がきれい(笑)です。。「アクシデント前」はもう少し黒っぽい色でした。これ、単純に「出血後時間がたってるから変色した」と考えていたんですけど、たぶんそれはちがったんでしょうね。

一通の封筒

ずっとドキドキしながら待ち続けてきた封筒が来ました。
中をあけると。おぉ!かなりうれしい!
どうやらもう一回山を登る必要がありそうです。でも、その山、登り切ります。
さてと、脳みそのモードを切り替えなくちゃ。

平常運転

そうそう、今回は、自分なりの小さなチャレンジをしています。それはこいつ(↓)を落とさないこと。スペアを「使いませんでした(笑):と返すことです。

いまのところ、順調に落とさずにすんでいますが、家から出たらどうなるのかなぁ…。
そうそう。バルーンをした状態でトイレに行くと、おしっこが出た最後に、尿道口に「チクッ」って痛みを感じるんですね。これいったい何だろうと思っていたのですが、わかりました。たぶん、膀胱からおしっこが出ることによって、膀胱内に負圧がかかる。で、その負圧に対して、バルーンと尿道の隙間から空気が入る。その瞬間が「チクッ」なんですね。てことは、これを避けるためには、尿道近辺を少し緊張させて、急激に空気が入り込まないようにすればいい。で、試してみると、なるほど楽です。
なかなかおもしろい…。

夕方、K淵さんが差し入れに来てくれました。
「動いたらアカンで」
と強く言われましたが、実は今回、あらためて5年前のブログを読み直していますが、いまよりもメチャクチャしていますね。今回の方がおとなしいと思うんだけど、どうなのかなぁ…。すると
「5年前から、確実に5つ年とってるんだから、それは自覚せんとあかんよ」
と怒られました。
そうそう。傷口からは薄いピンク色の少量の出血があります。前回は9日後に「ナプキン選び」の記述があるので、その頃まだ出血があったのかな。まぁそうやってボチボチ治っていくのでしょう。

夜、ここのアクセス数を見たら100以下でした。まだ多いくらいだけど、ボチボチと平常運転です。
まぁ、読者が少ないのは、基本的には「おもしろくない」あるいは「おもしろいと思う人が少ない」なんでしょうね。うん、そう考えると、確かにその通りだわ(笑)。
てことで、平常運転平常運転(^^)。

facebookにおけるコミュニケーションのあり方についての一考察

それにしても、「今日」の半日はローだったなと。特に「明日」書いた「今日」の分の「考え」のエントリはローだったなと。なんで自分があんなにローだったのかなと「今日の夜」考えていたのですが…。
あ、そーかと思い当たる節がありました。
それは、「同じことを何度も書いた」ところにあったのかなと。
facebookっておもしろいというか変というか。
ある投稿をする。それに対してツッコミAが入る。で、いまは「そのツッコミA」に対する「ツッコミA’」がはいるようになっています。あれ、よくないよなと。つまり、あるツッコミAに対するツッコミはAにぶらさがっていく。すると、親投稿に対してツッコミBを入れる人は、ツッコミAへのツッコミA’の存在を知らずに(読まずに)書くことがある。すると、ツッコミAに対してツッコんだ内容をツッコミBにも書かなきゃならなくなることがある。
つまり、ある話題(親投稿)についての論議を、個々の人間とやるには適しているけど、論議をシェアしてみんなで話題にするには適していない仕様な気がするのです。これ、わたしにとってはどういう感覚かというと、「公開された場所で個人間の会話を何人もの人とする」という感じになるんですね。
で、同じシチュエーションがどこにあるかというと、教室にある(笑)。

とあるホームルームのシーン。
い「あしたの持ち物は○と△と□。わかったか!あ、A、聞いてへんやろ。いま、わたしが何を持ってこいと言ったかゆーてみぃ」
A「わからへん」
い「ええか、もう一回言うで。明日の持ち物は○と△と□。わかったか!」
B「え?なんやて?もっかい言うて」
い「同じこと、何回言わすねん!ええか、明日の持ち物は○と△と□!わかったか!C!」
C「なに?聞いてへんかった」

こうなってしまう最大の要因は、公開の場であるにもかかわらず個人間で会話していることなんですね。だから、それを避けるためにはこういうふうにしなきゃならない。

とある授業のシーン。
い「○は△で□になるねん。わかった?」
A「え…」
い「Aさん、どうしたん?」
A「なんで△になるの?」
い「いまAさんがとてもいい質問をしてくれた。たぶん、そこでひっかかった人、他にもいるやろ。じゃ、そこのところをもう少していねいに説明するね。Aさん、○が☆になる。これはOK?」
A「うん」
い「☆が□になる。これはOK?」
A「なんで?」
い「あー、ここか。これはね、☆が×になるねん。ええか、ここ、みんなキモやで。しっかり聞いときや。これOK?」
A「うん」
い「で、×が△になる。OK?」
A「うん」
い「だから△が□になる」
A「なるほど」
い「みんなわかった?Aさん、いい質問してくれてありがとう」

というふうに、「個人間の会話を公開する」というふうにすればいいわけです。で、実際わたしはそういうふうに授業をしています。ちなみに、このAさんとのやりとりをしていく中で、Aさんのペースについて行けない生徒もいます。そういう生徒は隣の子に聞きながらわからないところをフォローアップしていく。それでいいんです。

で、こういうふうにやることがある程度自分の中で確立して、それに慣れているところに、「さっきのホームルーム状態」が来たのが堪えたのかな。しかも、ダメダメ先輩曰く「やっぱり血は大量に出たし、輸血したし、麻酔もしたし、傷口さわったし、肉体に何度もメスを入れてる。それだけで、体力も気力も、通常の半分以下」というところに本人が気づいていない(笑)。で、テンションだけで乗り切ろうとしてガックリ来たのかな。
ま、いずれにしろ、原因がわかれば対処法もわかる。なので、たぶんもう大丈夫です。

にしても、最初にも書いたけど、今回のfacebookの仕様変更(たぶん)は、もしかしたら個人間のコミュニケーションのためにはいいかもしれないけど、それを全体へと還元しようとするとダメな仕様変更な気がします。
なので、極力「返信への返信」は使わないようにしたいな。ま、もとの「親投稿」をした人の気持ちが最優先ではあるだろうけど。

定常化なのか、ラッコ化なのか

基本的にこの日記は、翌日に前の日を「今日」として書いています。なので、「今日(27日)」の日記を書いているのは「あした(28日)」ということになります。まぁ、一日の終わりに「今日」を振り返って日記をつける人もいるでしょうけど、わたしは一日のおわりは寝てしまうので振り返れません。なので、しかたなく「明日」のできるだけ早い時間に「今日」の日記を書こうかなと思っています。が、たまるとたいへんだったりしますがね。
で、「今日」のことを振り返りながら「明日」書いているのですが…。
一日振り返って、なにもない(笑)。
パソコンのラッコ状態も固定化されてきました。

これでモニタが床と並行に上に吊ってあったら,完全にラッコです。でも、そうできたら上体を起こさなくていいから、ぜったい楽だな。どこかにそんなことができるモニタ、ないかなぁ。
窓の外は夏…。

情報発信の方法

今日、facebook上でいろいろやりとりがあって、それを通して考えたことの一端ですが…。
おそらく、わたしが一番コアな情報発信をしている場所は「ここ」です*1。で、それは、muchan時代から10年以上続く流れの延長線上にあるわけです。
それに比べると、twitterfacebookは、わたしにとってはそんなにコアな情報発信の場所ではありません。基本的にはfacebooktwitterと連携しているだけのことで、facebook独にの情報としては、つっくみを入れるだけだし、twitterは、まさに「ふと思ったこと」をつぶやくだけで、それほどまとまった時間内容を考えているわけでもない。
なので、facebooktwitterは、わたしの情報発信源としては、ほんとうにごく一部でしかない。
ところで、わたしへのアクセスの方法は、いまやほとんどがfacebookみたいです。それは例えば「友だち申請」であったり「つっこみ」であったり。たぶん、そういうのをうまく使って情報発信をしている人がいるから*2、たぶんそうした人たちと同じような感じなんでしょうね。でも、たぶん、わたしはそういう人間じゃない。
ここにも書きましたが、たぶん、わたしの情報そのものへのアクセスの方法が

twitterfacebookって、情報を発信したり、流れてくる情報をもらうには適してるけど、そこにない情報を探しに行くには適してないな。
ブログや日記(笑)しかない時代は散々情報を探した。情報発信するにははタグ打つしかなかった。〈blockquote〉とか懐かしいなぁ(笑)。

なんですよね。そういうわたしは、「時流」からはおいていかれているのかもしれないですね。もちろん、ブログやっている人もおられます。中にはブログの更新をtwitterで報告している人もいます。実は、今回の「騒動(笑)」を機に、わたしも少し「誘導」を試みてみました。そのせいか、ここのview数は、この数日100を越しています。多い時で200行きました。でも、たぶんこれも一時のこと。そのうちいつもの50くらいに落ち着くんでしょう。
なぜわたしが「報告」しないかというと、不定期ではあっても毎日分更新をしているから、「更新しました」の報告が意味をなさないからなんです。それと、なんか照れくさいというか、そういう積極さがやっぱりイヤなんでしょうね。

まぁ、そういうやり方って、例えば「トランスジェンダー生徒交流会」と近いのかもしれません。サイトをつくるわけでもなく、宣伝をするわけでもない。そのせいで、完全に「時流」というか「メインストリーム」からは,その存在は知られてはいません。でも、来る人は来る。それと同じことです。

てことで、これからも自分の一番コアなところはここで発信をし続けます。そして、きっとそれはtwitterfacebookには書かない。
まぁ、今回の騒動で、たまたまここを見に来られた方で「おもしろそうだな」と思っていただけたら、引き続きご愛顧のほどを(笑)。
てことで、このブログの宣伝はおしまいです。

*1:いや、だから「ここ」って言ったじゃないですか(笑)。

*2:MめたさんとかKね子さんとか、他にもいっぱい