最近、少し興味を持って「当事者研究」にかかわる本を読んでいます。そんななかで出会った綾屋紗月さん(と熊谷晋一郎さん)の本。
いやぁ、みんなが「すごい!」っていうのがわかります。すごいです。よくぞ自分の中で起こっていることをあそこまで詳細に分析することができるなと。そしてそれを表現できるところがすごい。それも「きちんとした表現」と「わかりやすい表現」と「美しい表現」と。幾通りにも、繰り返し表現される。
でも、読み進みながら、何とも言えないデジャヴ感がありました。なんだろう…。
あぁ!これだ!
それは、わたしが考える授業です。
もちろん綾屋さんとは比べものにならない貧弱なものではありますが、やっていることは似ている。
例えば、ある問題が目の前にあります。
その問題を見るとき、わたしの目はどう動くのか。どこに最初に注目するのか。それはなぜなのか。他の問題はどうだろう。もしも同じならなぜ同じなのか。もしも違うのならなぜ違うのか。そして、同じものはあるのだろうか。
それらをまとめあげていく過程で規則性は見いだせるのか。仮に見出したとして、その規則性を理解するためには、どんなスキルが必要なのか。そのスキルの習得のためにはどんな練習が必要なのか。
そんなことを、いつも考えています。それが、わたしにとっての数学の授業です。
それはスキーも同じです。
ある斜面において、ある技術で滑るとき、自分はどんなバランスをとっているんだろう。そのバランスを支えるための筋肉はどうなっているのか?骨格はどうなっているのか?関節はどうなっているのか?それを常にイメージしています。それは滑る時だけじゃないです。お風呂の中で、あるいは普段歩いているときに。自分の体重は足の裏のどこに何パーセントくらいかかっていて、それを支えるための筋肉の緊張と骨格の方向を意識する。
で、それを伝えるためには、具体的に身体をどう動かす運動を練習課題として提案すればいいのか。もしもそれで伝わらなければ、同じことをもう一回やるのか別のことをやるのか。
それが、わたしにとってのスキーのレッスンです。
数学が解けること、スキーができることと、それを教えることができることは、まったく違います。解けること滑れることは「なんとなく」でいいです。でも、教えるためには「なぜ?」という問いを常に意識し、分析し、まとめあげ、伝えるということをしなくちゃならないと思います。
そうやって生きているわたしの感覚と、綾屋さんの文章に、ほんの少しだけど似てるなって思うところがありました。
まぁ、こんなことは、たぶん「教える者」であれば誰もがやっていることだろうし、偉そうに言う話では、もちろんないです。
でも、誰もがやっていることを意識化し、分析し、まとめあげ、伝えるという…。あり(笑)?