教育とは

今日のおべんきょは「社会教育の理論」らしいです。とにかく、ひたすら上原専禄だらけです(笑)。
実は、というか当然のことながら、というか、わたし、上原専禄さん、知らないです。いや、きっと「知らんの…」ってあきれられるかもしれないけど、知らないものは知らないんです。なんか、すごい人みたいだなってのは、よくわかりました^^;;。

教育とは…。生活と科学をつなぐものである。
一見「あたりまえ」とも見える、単にこれだけのことなんだけど、なかなか奥が深いらしいです。
あるいは「神なき国の教育論」。ふむ。
「権利とはなにか?」「自立とはなにか?」「一人前になるとはどういうことか?」
ひとつひとつ、あたりまえのことを問うていく。答えにつまります。自分の心の中の言葉を探します。このおべんきょで最も鋭く問われたのは、実はここでした。頭の中の言葉ではなく、心の中の言葉を探す。自分の言葉で語る。自分の経験、自分の生活、そこからスタートする。
あ!
これです。「科学」からスタートしない。「生活」からスタートする。「生活」から「科学」を問う。「科学」で得た答えを自分に返す。それを生活に組み込み、さらに生活を深く問う。それをつなぐものが教育?
「社会教育」を考えることは、いつのまにか「教育」を考えることになっています。

結論は、よくわからないです。というか、言葉にはできない。でも、頭の中にいっぱいものを詰めて、思いっきりシャッフルされた気がしました。

あー
疑問…。
社会教育と運動は違う…。
それはその通りです。が、運動と闘いはまた違うはずです。
マイノリティにとって、学ぶことは生きるための力を獲得することです。そして、生きることは日常的のそこここにあるとても小さな闘いの連続でもあります。つまり、学ぶことで闘いの力を得るということに、結果的になるわけです。
その闘いを普遍化することは運動と言えるかもしれない。でも、その普遍化を拒否する。普遍化の少し手前、共有。共有の少し手前、共感。共感を再び個にもどす。そして、生活にもどす。学び考え、日常を生きる。その日常という名の闘いは、運動ではないのではないかと思うのです。
では、社会教育と闘いの関係は?
違いますよね。でも、そこは切り離せるのかなぁ…。

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