昨日のシンポの何がおもしろかったかですね。
まずは「旧世代に新世代がもの申した」というところですか。
矢吹さんをはじめ、会場にも「旧世代」の人はたくさん来られていました。それに対して、熊谷さんは一貫して自ら(の世代)を「牙を抜かれたわたしたち」と表現してこられました。つまり、ある程度システムができ、スタイルもできた後の世代ということになるでしょうか。そこでは、スクラッチから運動を起こすのではなく、既存の運動にとらわれながらも「そのままでは行き詰まる」という中で、「修正しながら運動をつくる」のか、はたまた「既存の運動を壊して新たにつくり直す」のかみたいなことを考えざるを得ない。ところが、前者をとれば旧世代からは「修正主義」とかいわれかねないし、後者をとれば「おまえらにはわかっていない」と怒られるし(笑)。
で、それだけじゃないですよね。熊谷さんは自分が小児科医をしているという、自分自身のステータスを十分に理解し、それを可能にしてきた運動の歴史も、これまた十分に理解をしておられます。そういう熊谷さんが話をしたところに、とてもおもしろさを感じたわけです。
で、内容ですね。
まずおもしろかったのは「手足論」≒「自己決定論」への疑問の呈示です。
スピードが速すぎてtsudaることはできませんでしたが、こういうフレーズがありました。
究極の自己決定は、例えばお風呂に入った時にこう言われるわけです。
介「どこから洗いましょう」
当「じゃぁ、手から」
介「右手ですか、左手ですか?」
当「じゃぁ右手から」
介「親指からですか、それとも小指からですか?」
当「じゃぁ小指から」
介「指先からですか、つけ根からですか?」
当「もう、どっちでもええわい!」
(笑)
つまり、ある程度自己決定をしなくてすむ状態が一番居心地がいい。ところが、その自己決定をしなくていいシステムが、障害を持っていない人を基準につくられていることが問題であるという話です。なるほどなぁと思いました。
では、どうすればいいのか。そこで、「世界認識」「身体認識」「身体論」が出てきます。
身体と世界の境界線は、おそらくそこに「ずれ」があるから認識できるという感じでしょうか。で、そのずれの中で、身体と環境をチューニングしていく。そうする中で、少しずつ自分の身体の範囲を認識できるようになるし、一方世界認識も獲得できていくという感じ。そうやって身体や世界を認識したとき、次に問題になるのが「介助者との関係」になるわけです。これが「手足論」と絡まってくるところかな。
ここで、介助者との関係についても「チューニング」という言葉が出てきます。
当事者と介助者の世界認識が一致してくると、何も言わなくても介助者は
「あ、あの段差は無理だな」
とかわかってくる。
一方、当事者って障害を持っていない人は万能と思ってしまうわけですよ。そうすると、坂道で車いすを押してもらっている時、後ろからなんとなくあえぎ声が聞こえてきたら
「あ、健常者も万能じゃないんだ」
という当たり前のことがわかってくるわけです。
こうやって、両者の世界認識が一致すると、おそらくは「不要な自己決定」が必要なくなる関係ができてくる。そうした時に、介助者は「手足」となるということのようです。
つまり、なにげなくやればいいことはなにげなくやればいいし、そこをいちいち意識化してやることこそが不自由であるということ。
で、最大におもしろかったのが、「痛み」についての話でした。
これ、もともとは「2次障碍」についての文脈だったので、はじめはあまり興味がなかったのですが、聞いているうちに
「おぉ!」
という感じになりました。
まず、痛みには「急性疼痛」と「慢性疼痛」の2種類ある。で、前者は原因が治ればなくなる。でも、後者は、そもそも原因(患部)がない。
じゃぁ、慢性疼痛ってどういう時に感じるのか。それは、ざっくりと言ってしまうと、身体の「変化」であるということです。
つまり、障害が重くても、その症状が一定していればそれほど「痛み」はない。でも、症状が軽くても、その症状に変化があり、その変化が不安を呼び起こす時に「痛み」が起こる。その時
「どこが痛い?」
と聞かれても
「とにかく痛い」
としか答えられないというんですね。
となると、たとえば生まれながらのCPの人と、中途障碍のALSの人を比較した時、どちらが「痛い」かというと、これは
「ALSの人とちゃうん?」
というわけです。
これは、杉江さんに対する小泉さんの
この人も以前はわたしを差別していた可能性があるのかもと思っていた。
という言葉へのトリプルクロスカウンターになるんじゃないかなぁ。
というのと、なによりもこの話を聞きながら、わたしが思い出したのは、annojoさんの次の一連の考察です。
性同一性障害の苦痛は変化に対してである1
性同一性障害の苦痛は変化に対してである2
性同一性障害の苦痛は変化に対してである3
1. 性同一性障害の悩みは、不一致そのものより変化にある。
2. 変化は自分自身の場合と、比較するものの変化の場合とがある。
これにさらに自分がつけ加えたのが微分と積分というやつです。
変化が急激であっても、その変化を受容できるキャパシティがあれば、それはそれなりになんとかなるんじゃないか。キャパシティって、もしかしたら「風船」のようなものかもしれないと思うのです。あるいは、「シャボン玉」とか「ゴム」かな。
中に入っているものが少ない量だったら、それなりに急激な変化であっても持ちこたえられる。でも、キャパシティすれすれになった時、それがゆっくりの変化だったらそれでもまだまだ持ちこたえられるのかもしれないけど、少量であっても急激な変化(負荷)が加わった時、キャパシティを越えてしまう。
つまり、前提として、それなりの「受容量(積分)」があり、その先に「変化(微分)」があるのかな、と。
で、その「痛み」からの脱出方法がおもしろい。それは、「「知(医療)」の獲得と、それ(医療)を信じること」と言われるんです。ここでおもしろいのが「医療」であって「医者」ではない。つまり、個々の医者については信用しなくてもいいけど、医療全体は「ツール」として使おうということなんですね。
で、信じたあとどうするかというと、「怖いけど、身体を動かす」というんです。なぜなら、「動かさないとチューニングできない」からです。
つまり、常に外界と自分の身体の「ずれ」を意識し続けて、そこから自分の身体のありようを再認識し、自分の身体認識を再獲得し続けていくという感じでしょうか。
この話、もうひとつ思い出すのは、オールロマンス事件の虚構と真実で語られた前川さんの言葉なんですよね。
で、前川さんが「低位性は部落だけにあるのではない。誰かが貧困であるとするならば、その原因がどうであれ、等しく保障されるべきである」という話をされたことに対して、次のような話が出てきました。
「他の貧困はそれが解消したらそれでいいかもしれないが、部落の貧困は、解消されても差別は残る」
あぁ…。久しぶりにこのフレーズを聴いたなぁ。
まぁこれは余談ですが…。
こういう熊谷さんなんですが、
野崎さん「あえて反論を。世界への信頼感が自己決定を担保。では、世界への信頼をかけることができるのか。自分としてはイメージを崩させるものを大切にしたい。言語化できないものの存在が世界への信頼感につながるのでは。
実践的には不安を排除するわけだが、不安を排除することが信頼につながるのか。
に対しては、
破壊することに希望を持てる人は、安定を享受している。ポストモダンとかね(笑)。崩せることに希望を見いだせるのは、マイノリティであれマジョリティであれ安定を享受している人。そうではない人には破壊だけじゃなくて安定へのエネルギーが大切。
と一刀両断なわけです。まさに「旧世代vs新世代」です。
でも、よく考えてみると、熊谷さんって、「変化」が「痛み」を生み出すと言いながら、一方で、
安静にしすぎるとボディイメージが更新されないので、ますますだめの可能性がある。
いままでの自立運動を否定するのではなく、プラス、そのことを考えないとまずいんじゃないのか。いろんな人が入ってくるとシステムは壊れる。すると、牙を抜かれた私たちは考えなくてはならなくなる。システムを温存するだけではリスクが上がる。
先輩たちは「牙を抜かれた」と私たちを言うけど、新しいわたしたちを排除してはいけない。継承したものを受け継ぐためには一回崩さないといけない。
とも言っておられるんです。
このあたりがすんごくおもしろい。
で、わたしなりの結論。
熊谷さんって、バランスをとる達人なんだと思います。で、そのバランスは、「スタティックなバランス*1」ではなく「ダイナミックなバランス*2」なんだろうな。
ちなみにわたしが一番ウケたのは