新幹線→在来線と乗り継いで、到着したのは大阪市のすぐ南側にあるS市。今朝早起きしたのは、ここで午後から組合関係の集まりがあるからなんです。
今日はかなりこぢんまりとした会なんですが、集まっている人一人一人が濃いぃんです。というか、昔からの知りあいが半分くらいかな。はじめのうちはかなり緊張して話をしていたのですが、それでも徐々にこちらの緊張も解けてきて、それにともなって聞いて下さる方々の雰囲気も柔らかくなって、最後はけっこう楽しく話を終えることができました。
にしても、最初の「ネタ」が使えないのが痛いなぁ…。
月: 2009年7月
「ありのまま生きる」ための?再び
なにが悲しゅうて起床が5時半かなぁと思いながら、なんしかごそごそ起き出して、7月16日のコメント欄をチェック。
うわっえらいぎょうさんコメントがついてる。
ってことで…。
診断書については、もちろんあった方が楽ということはわかっています。ただ、「診断書があるからやってもいい」とか「診断書がないとできない」ということに、わたしはやっぱり違和感を抱いてしまうんですね。もっと言うならば、「不可能を可能にする魔法の紙」ではないということです。
自分のまわりにたいして自分の力・言葉・行動で働きかけ、まわりに十分に理解者を得*1、それでも例えば権力による介入があった時に、その権力にたいして「ほれ」とか見せるなら、それは「使いかただよなぁ」と思います。でも、まわりに理解者がまだまだ少ない状況で、「診断書があるから」とやってしまうと、それは単なるごり押しになってしまうんじゃないかと思うのです。
あと、mizukiさんが書かれている
「わたしが職場でも『*トランス』したいのは,あなたが,職場でもTシャツを着たいのとはちがうんだ!」と言うのですが
について…。
言いたいことはわかるけど、
「それを言っちゃぁお終めぇよ」
という気がするのですが…。
かつて同和行政の正当性を主張するために
「部落の貧困と部落外の貧困には差がある。なぜなら貧困を脱却しても部落には差別が残る」
と言った部落のおばちゃんにたいして
「差別の有無についてはもちろんあるんだけど、それはそれで別に考えるべき。
貧困である状況に差はない。そこに差をつけてきたことに問題がある」
と言った前川さんの言葉を思い出すのです。
「自分には特殊性があるから許されるべき」
というのは、運動としてそういう論法を利用するのは時として有効かもしれないとは思うけど、「あくまでも論法」ということに自覚的である必要があると思います。そうしないと、「資格の絶対性」が生まれ、対話を途切れさせてしまうと思うのですが…。
あとわたしが「いつでもどこでもありのまま」と書いているのは、女装をするか男装をするかというところに力点を置いているわけではないんです。女装をしたければすればいいし、男装をしたければすればいいんだけど、それはそれで、その場にふさわしい恰好があるだろうということなんです。
例えば、ものすごく極端な話、父親の葬式の時、わたしはレディスの服を着ていて小さい頃からの知りあいはひっくり返っていましたが(笑)、「これがありのままのわたし」と言って全身ユニクロを着たりはしないわけで、やっぱり黒のパンツスーツを着るわけです。てか、スーツはそれ一枚しか持ってないんですけどね(笑)。
つまり、特定の服装やメイクや髪型やアクセサリに固着して「これがありのままのわたし、わたしらしいわたし」では通らないのではないかということなんです。で、そこにさらに「特殊性=資格の絶対化」と「診断書=権力」を持ち込むとするなら、そこに理解と共感はまず生まれないだろうと。それどころか、反発すら招きかねない。しかもそれが資格と権力によって押さえ込まれるとするなら…。
少なくともわたしはそういう方法はとりたくないですねぇ。
にしても、電車の中って時間がありますね(笑)。ついいっぱい書いてしまいます。
*1:全員ということではないです。逆に少数であってもほんとうに理解してくれる人がいるというのもありかなぁ
遅刻の言い訳
「懇親会は6時半から」と言われていたにもかかわらず、到着したのは7時前。会場についてさっそく言い訳です。
「すみません、原爆資料館に行っていて遅れました」
みなさん、うなずきながら拍手です。そりゃ、これ以上の理由はないですよね。まちがっても「ベンチに座ってあんな話やこんな話をしていたから長引いた」とは言いません(笑)。
今回Kし本さんを誘ったのは、この懇親会で現場の心ある教員と話をしてほしいと思ったからなんです。
一人の生徒をめぐって、学校と医療が別方向をむいたり、時として反発しあったりするのではなく、連携を保っていくことが必要なんだと、わたしは考えています。で、誰かがその「つなぎ」をしなくちゃならない。ほんの小さな出会いが、きっと実を結んでいくはずだと思っています。そんな出会いに最適の場所が、この懇親会です。
案の定、あちこちで名刺の交換がはじまり、こS本さんを中心に輪が広がっていきます。ん〜よかったぁ…。
まぁわたしも「わたしの輪」で思いきりしゃべっていましたけどね(笑)。
今日はみなさん、懇親会の会場のホテルで泊まられるそうです。まだ時間も早いので、せっかくですから「カフェいつき」を久々に開店。4人ほど来られた方々と一緒に、長崎の夜を楽しませていただいて、11時頃に閉店。
さぁ、明日の朝はまたまた早い…。
リベンジ
ってほどのことはないのですが…。2月に長崎に来た時には、会場→中華料理屋→会場→カラオケ→飲み屋→民宿という、まぁありがちなというか、「それ、どこでも一緒やん」状態だったので、やっぱり長崎を見たいなぁと。
なので、会場を出てこS本さんから
「どこか行きますか?」
と聞かれたので
「やっぱり原爆資料館かなぁ」
とベタな返事。
いや、2月の時、某M村さんから
「わたしはちゃんと行ったよ」
とか言われていたので、いくら飲んだくれのわたしでもちょっと反省をしていたんですよね。
で、越Mさんの案内で原爆資料館の中を見てまわりました。
淡々と映し出されるビデオを見ていると、あまりにも非現実的すぎて、逆にリアリティが失われていきます。逆に言うと、それほどまでに想像を絶する出来事だったんだなぁと思います。ちなみに、当初投下候補地に京都が入っていて、最終選考の手前でなくなったということは知っていたのですが、その偶然のおかげで、今ここに自分がいることの不思議さもまた感じさせられました。
そうそう、写真が逆にリアリティさを失うのとは反対に、そこで紹介される言葉にはすごくリアリティを感じさせられました。そうか、これが言葉の持つ力なんだなぁと。
展示を見ているうちに、だんだん疲れてきます。まぁその前に2時間ほど立ちっぱなし・しゃべりっぱなしだったのもあるし、展示って真剣に見ると疲れるんですよね。で、ベンチに座ってしばし休憩。
休憩中の話は、若年層に限らないGIDのあんな話やこんな話(笑)。さらには2月のイベントの裏話。なんでこんなところでこんな話をしているのかなぁと思いながら、楽しい時間を過ごさせていただきました。
で、懇親会の会場に行こうかと思ったその瞬間、まだ見ていないものがあることに気づきました。
「あの〜、手をあげて座ってる人って、どこにおられます?」
「あ、向こうの公園です」
「やっぱせっかくだから見たいんですけど」
「じゃぁ行きましょう」
資料館の隣の公園には黒い柱が立っています。
「あれの上空400mで爆発したんですよ。いわゆるグランド・ゼロですね」
「へ〜」
同じグランド・ゼロでもずいぶんと雰囲気が違います。
やがて隣の公園にいたる階段。その階段を上りきると、こんな風景がありました。
さぁ、では懇親会の会場に行きましょう。
あぶなかった…
1時に店を出ようと思っていたのですが、つい話し込んでしまって1時過ぎになってしまいました。あわてて店を出て、会場へと向かいます。
なんでも今日は組合女性部の定期大会だとか。
会場に着いたのは1時25分。まぁ15分前だからよしとしようと思っていたのですが、実は開始は1時半だとか。って、あと5分か。あぶなかった…。
で、落ち着く間もなくお座敷開始。それにしてもみなさんよく笑って下さいます。その暖かい空気のおかげで話が転がっていきます。やはり「お座敷」って一緒につくっていくものなんだなぁと再認識をしました。
終わりのあいさつもすごく心がこもっていて、「ええなぁ!」と思わず拍手してしまいました。
ほんと、感謝です。
皿うどん、うまい!
で、到着したのは長崎。
出迎えて下さったのはKし本さん*1。
「お昼はなにを食べたいですか?」
「2月14日はちゃんぽんを食べたので、今日は皿うどんを食べたいです」
てことで、長崎中華街へGO。
にしても、長崎の中華料理屋さんって、すごく格式が高い感じがします。でも、その割にちゃんぽんや皿うどんはそんなに高くないんですね。
頼んだのは細麺と太麺。細麺はいわゆる揚げそばですね。ところが、時間が立ってもなかなか麺がぐにゃ〜とならない。けっこう最後までバリッとした感じでした。太麺がこれまたいけます。たぶん、チャンポンに使ってる麺なのかな。かなり腰があって味のある麺です。お好みでソースをかけるみたいですが、そのままの味を楽しみたくて、結局なにもかけずにパクパク。
そんなおいしいものを食べながらの話が、若年層GIDにかかわるあんな話やこんな話。おいしい皿うどんと濃いぃ話でお腹がいっぱいになりましたよ。
*1:2月14日〜15日のイベント(笑)の事務局担当の方→いいでしょ〜、AJさん(笑)
たしかに長い
珍しい集まり
つくづく思うのですが、わたしは職場には友だちがいません。
わたしが一緒に呑みに行く人ベスト10をつらつら考えると*1、学校関係はだれもいない。さらに、女性(笑)ばかり。
まぁ興味が違うし、高校のジェンダーバランスを考えるとそうなるのは自明なのかもしれません。
そんな中、1年に5回ほどは職場の人と呑みに行きます*2。数え切れないほどいろんな人と呑んでいるけど、学校関係は数えられるというのが、まぁそういうつきあいしかしていないということなんでしょうねぇ。
で、今日は有志の会の飲み会。なんで有志かというと、教科のポツダム懇親会(笑)は諸事情で解体しているんですね。なので、適当に声をかけあって有志で呑みに行くということになっていまして。まぁ気楽でいいです。
で、小雨の降る中、バラバラと集まってバラバラと呑みます。
今回のルールは「一杯飲んだら500円を灰皿に入れる」です。これ、あるグループの宴会に行った時にやっておられて、すごくいいなと思いまして。アルコール組・ノンアルコール組・泥酔組(笑)といる時に割り勘をしやすいんですね。もちろん、泥酔組のみの時はこんなことしなくてもいいんですが…。
でも、やっぱり数学はいいなぁと思います。
みんなで「今年度の抱負」みたいなのを話しあったら、見事にバラバラです。で、どこか浮世離れしている。他教科の場合は、けっこう同じ大学の先輩後輩みたいなのがあったりしますが、数学の世界は比較的少ない。しかも、工学部出身者*3が数人いて、ここについては学閥なんて存在すらしないから、なんのしばりもない。
心地よく酔っぱらって、1次会で解散。
さて、明日は早いからさっさと帰って寝ましょう。
あたたたたたたたたた!
↑の続きは「おゎったぁ〜!」ですよね。
ようやく今日、終業式になりました。
担任さんはこれからもけっこうたいへんな日が続くのですが、わたしはぜんぜん別の意味でちょびっとバタバタするかも…。
ちなみに、インフルエンザ騒動で休校になったところは、まだまだ1学期が続きます。いやぁ、マジでウィルスがウチの学校にはいるのを断念してくれて助かりました。ここから1週間ほどの日程がズタズタになるところでした。
式の最中は、放送担当のわたしはけっこう時間があります。なので、EeePCを持ち込んで、どこぞの原稿書きです。2週間ほど前から最後10行ぐらいが埋まっていなかったのですが、なんとか埋めて脱稿。
昼からは、ショートホームルーム欠席過多生徒の補充です。まぁ早い話が大掃除です。彼らの存在で助かると言えば助かるわけで、かなり微妙なんですが…。
勤務時間の最後は、ほんとうの雑務を少しやって、怒濤のような一週間がゆるやかに収束に向かいました。ふぅ…。
「ありのまま生きる」ために?
なんか、こいつ*1はお座敷の演題に「ありのまま」とか書いているみたいですが、わたし(笑)はいつも「眉唾やなぁ」と思っています。
「ありのまま」とか「自分らしく」とか、そんなものはあるのか?
まぁそのあたりをぶちかましたらほめられたりするわけですが(笑)。
閑話休題。
最近学校ではトランスの子が「自分らしい服装」で通えるようになってきつつあります。といっても、しょせんは二者択一でしかないし、身体の性別の反対方向っていうことでしかないんですけどね。
で、その際キーになるのが「診断書」です。
まぁ、相談を受けたら「方便として診断書を出すとやりやすいよ」とは言いますが、あくまでも方便です。というか、学校から「診断書を提出せよ」と言われたりもするんですね。
なんで服着るのにいちいち診断書がいるねん!とわたしは思っているのですが…。
ついでにいうならば、GIDってヤツは好きな服を着るためのあるのか?とも思うわけで…。
7月3日のコメントにも書きましたけど、トランスじゃなくても、みんながみんな好きな格好をしているわけじゃないと思います。まさに、「場にあった服」を仕方なくチョイスすることも多々あると思うんですよね。そういう意味で、ほとんど誰もが「いつでもどこでもありのまま」なんかでは生きてはいないと思います。逆に言うならば、「いつでもどこでもありのまま」で生きていきたいならば、それを実現するためのリスクを自分で背負う覚悟が必要だと思います。まさに「約束事」の6番目。
6.あなたは何を捨てられる人で、何を捨てられない人なのか。
なんだと思います。
例えば、茶髪の生徒の中に「なんでわたしばっかり。他の人もやってるやん」とか言うヤツがいます。そういう子に対しては、「茶髪にするのは目立つこと。直さなかったらますます目立つ。それは自分が選択したこと。だから、それに対して注意されるのもまた、自分が選択した生き方。あくまでも抗い続けるのも生き方だし、妥協をするのもまた生き方。他の人に責任を転嫁せずに、きちんと自分で対処をせよ」と言います。まぁ、服装頭髪検査って、なんだかなぁであることは大前提としてあるわけですけどね。
脱線しました。
「トランスして生きる」っていうことは、本来は自分の身ひとつでやることなんだと思うのです。もちろんまわりと軋轢があったりもするし、時として妥協があったりもするのですが、右往左往しながら、それでも自分の力で進めていくこと。診断書の有無がどうこうとか、診断書によって免罪されるとか、そういうことではないんじゃないかと思うのです。
じゃぁGIDってなんだ?というと、最近わたしは「身体へのこだわり」に特化して考えるようになってきています。社会の問題ではない。もちろん、明確に線引きはできないんですけどね。
こう考えた時に、「いつでもどこでもありのまま」に生きるために診断書を使うということに、やっぱりどうしてもわたしは疑問を感じてしまう。
まぁ、あくまでもわたし個人の考えですけどね…。
*1:クリック注意!