伝え方

最近、日本語がまだ堪能でない中国人に、わけあって数学の勉強を教えるというほどのものでもないけど、数学の相手をしています。
で、確率の勉強をしていた時のこと。
いろいろ説明をしながら
「あ、自分が伝えやすい方法で伝えているんだなぁ」
と、ふと思いました。
どういうことかというと、それは必ずしも「相手に伝わりやすい方法」ではないということなんです。
今、わたしが職場で相手にしている子ども達は、とりあえず日本語をある程度理解してくれます。まぁ、「ある程度」っていうのが悲しい現状なんですけどね*1。なので、内容が伝わっていなくても、言葉そのものはわかった気持ちになれるので、あまり「わからない」という表情をしません。ところが、日本語が通じない人を相手にしていると、わからない時、きちんと反応をしてくれるので、「あ、わかっていないな」ということが伝わってきます。で、
Aという方法→わかっていない
Bという方法→わかっていない
Cという方法→わかったみたい
となった時、自分が選んだA→B→Cという「伝える方法の順番」は、きっと「相手に伝わりやすい順番」じゃなくて、「わたしがやりやすい順番」なんだろうなぁというふうに思ったわけです。
まぁ、はじめから相手にとって最適の方法なんて選択できるわけないので、それでいいっちゃぁいいんですけど、相手が「わからない」と感じた時に、「次の方法」をやっぱり準備しておかなくちゃならないし、それが相手にとって伝わりやすいかどうかを常に考えてないといけないよなぁと痛感しました。

*1:とは言え、大学時代のわたしに対して、10年年上の人たちは同じ感覚を持っていただろうなぁ(笑)

見方を変えるわけではない

午後から人権教育がらみの出張。
到着したら、すでにお目当ての発表は終わりかけ。残念です。
でも、総括討論には参加できるな。
ある人が
「ポジティブシンキングで行くのもいいけど、ネガティブであることも大切。そこからポジティブになっていくんだ」
みたいなことを発言されて…。それに対する司会者のまとめが
「ネガティブも、考え方を変えたらポジティブなわけで」
違うやろ…。かなり迷ったけど、つい発言。
「いや、そうと違ごて、ネガティブな自分を見つめ、折りあいをつけ、そういうところからポジティブへと変わっていくと発言されていたんだと思うんです。単に見方を変えるというわけではないと思います」
みたいな。
でも、やっぱり自己肯定には、その前段となる「葛藤」「屈託」「挫折」みたいなものがないとあかんと思うのですが…。

「できない」ところから可能性が広がるのかな?

10月は2学期の人権学習があります。いちおう担当として担任さんたちと相談をしながら学習をつくるわけで。でも、大筋は4月の段階で提示してあって、それに従って担任さんが実行するという感じです。
で、3年生の担任さんとの話。
3年生は「結婚差別」がテーマです。2時間担任さんがしゃべらなくちゃならないので、いちおうプランを提示します。導入部については「従来型パターン」と「イレギュラーパターン」の2種類を提示しました。
「従来型パターン」は、まぁ言ってみれば部落差別の中で語られる結婚差別から入っていくパターン。よくも悪くも従来型の導入方法です。それに対して「イレギュラーパターン」は結婚制度そのものを問うところから入っていくパターン。
結婚差別についての学習をやっていて、いつも思うのは、「結婚できればいいのか?」ということです。というか、結婚制度そのもの、あるいは戸籍制度そのものを問うことなく、「結婚」について語ることができるのかと、いつも思っていました。でもそれを「担当」として教材化することは、なかなか難しいんですね。というのは、あまりにもその問題意識が共有できていないからです。いや、仮に自分が担任であれば、おそらく10年ぐらい前にはやっていたと思うのですが、それが「担当」だとできないんです。で、今回あえてチャレンジをしてみたわけで。
ところが、担任さん達から出てきた解答は、
「「結婚差別」あるいは「結婚」そのものを扱うことが困難である」
というものでした。
理由は、
「いまや子ども達の間で「従来の」結婚というもののリアリティがどれくらいあるのか」
ということだったんですね。例えば両親のどちらか、あるいは両方がいない子どももいます。両親がいたとしても実質崩壊している場合もあります。子ども達の実態が、すでに「結婚できればいい」というところにはないということなんです。
かといって、だから
「何ならできるか?」
というわたしからの問いかけには答がありません。完全に行き詰まってしまいました。

で、職場からの帰り道、ずっと考えていました。ずっとずっとずっと考えて、やがて、小さなヒントの芽が出てきました。結局「結婚」以前の問題だったんだ。ちょっと時間がかかるかもしれないけど、やってみよう…。

意外なことに気がついた

ふと我にかえってみると、「ごにょごにょ」したせいで、3/5満たしてしまった。残りのひとつも時間がたてば自動的に満たしてしまうことになってしまう。てことは、自分の意志で決定できるのは、残りひとつか。わたしにとっては、やっぱりこいつが天王山だな。

人間関係・考

仮にTさんという人がいることにしましょうか。
この仮称Tさん、ある意味、かつてのわたしとすごく似ているんですよね。

わたしにはすごく尊敬する先輩教員が何人かいます。そのうちのひとりの方とチームを組んで仕事を一緒にすることになりました。ところがこの先輩、実践面においても理論面においてもすごいものを持っておられます。目標にするにはあまりにも大きすぎる。かといって、
「自分は自分のスタンスで」
というには、その影響力がまた大きい。
自分のスタンスを変えて仕事にとりくみはじめるんだけど、そうなると自分のパフォーマンスが出し切れない。必然的に、わたしへの先輩の評価が下がる。ところがこの「評価」というヤツがクセモノで、他の人からの評価だったら
「フン!」
とか言っていられるんだけど、この先輩からのそれだとそうはいかないんです。なんとかしようと思うんだけど、自分のスタンスでやっていないからうまくいかない。あとはマイナスのスパイラルですね。うまくいかないことが自分自身の自分自身への評価を押し下げていきます。いわゆる「セルフエスティームの低下」ってヤツです。
結局わたしの場合は、「心」を閉ざして、「仕事のつきあい」というふうに割り切ってしまうことで切り抜けることにしました。でも、そのせいで、例えばちょっとした世間話ができない、ちょっとした息抜きができないとか、そしてなによりもその先輩の人間性とふれあうことができないという、まぁなんとも奇妙な数年間を過ごすことになりましたがね。
で、おそらくはその原因は、ひとことものすごく簡単な言葉で表現するならば、「依存」というものだったんだろうなと思います。そうなってしまったのは、最初のボタンの掛け違えみたいなところにあったんだと思います。「ボタンの掛け違え」というのはたぶんその通りで、ボタン穴とボタンの双方の「ズレ」が原因だったということです。
まぁ以上のことは、とても簡略化した話であって、それ以外にもいろいろいろいろいろいろいろいろ、山のようにいろんなことがあったんですけどね。

仮称Tさんとわたしが似ていると思ったのは、単にわたしの思いこみかもしれません。でも、もしもどこかで「あたり」にかすっているなら、まぁ今の状況を変えることも可能だし、克服することも可能だし、「やり過ごすこと」も可能だということです。
実は昨日そんなことを話していたわけですが、職場の帰りだったので車。ビールが飲めないのが残念でしたねぇ…。

話せる環境をどうつくるか

あるブログを読んでいたら
「みんなが思っていることをふと言える環境をどうやってつくるのか」
と書いてありました。
これ、たぶん教員にとっての永遠のテーマでしょうね。
もっとも、クラスだったら40人もいるので、まぁ「あわないヤツ」がいても、「あうヤツ」をひとりぐらいは見つけられるかもしれません。でも、例えばクラブだったらもっと少人数。そうすると、やっぱり「ふと言える環境」がないと、やっぱりしんどい。というか、もしかしたらクラブが崩壊することすらあるかもしれません。
いろいろ考えているうちに、ふと昔書いた文章を思い出しました。http://blog.ituki-d.net/resource/tusin.txtです。時間がないのでテキストファイルのままアップしてあります。まぁなんのヒントにもならない文章ですがね。
ただ、「解題」をするならば、リーダーとメンバーの距離感が大切だというのが、わたしの持論なんです。
よくあるパターンは、リーダーがズブズブにメンバーの中に入ってしまっている。こうなると、メンバー同士の関係を見ることができなくなります。かといって、完全に離れてしまうと、メンバーは仲間に入れてくれなくなります。ちょうどいい距離は、メンバーのほんの少し外側。メンバーはリーダーの存在を意識してくれるし、しかもメンバー同士の関係を冷静に見ることができます。

それと、先輩教員から言われていたことだけど

100の無駄なことを話すことで、ひとつの大切なことが話せるようになる。

ということです。
ついつい教員って、「大切なこと」だけを話そうと思うんですよね。でも、「大切なこと」はふだんの雑多なつきあいがあるからこそ相手に届くわけです。でも、その時間と労力をかけることを、日常の忙しさにかまけて忘れてしまうことがよくあるんですよね。で、忘れた時に限って…。まぁやめとこ。

わたしのやり方?

生徒指導にはいろんな方法があります。
いつも思っているのですが、ストレートやアッパーみたいな「決定打」を持っている人は、それはそれでいいのです。でも、わたしにはそんな決定打はありません。なので、ジャブとクリンチであいてを弱らせる以外方法がない。もちろん、時としては反則もしますよ。で、こういう戦法をとるためには、「アウトボクサー」とは比較にならないほど、相手の近くに入りこまないといけません。怖いっちゃぁ怖いけど、間合いがわかってくると、それはそれでおもしろいものです。
ちなみにこういう戦い方、実はあまり一般的ではないんですよね。なので、あまり理解されなかったり、もしかしたら「あんなやり方やって」とか思われているかもしれません。
でも、「最終的に到達したいところはなにか」ということを考えると、こういうの、ありだと思うんですがねぇ。
そうそう、今日授業をサボっているヤツを偶然見つけました。で、
「さっさと教室行けや」
と注意したら、すんなり言うことを聞きました。が、その時につぶやいていたのが
「見つけたのが◯◯ちゃんでよかった」
でした。かなり微妙(笑)。

で、まんまるの会・SRS圧力

第1部は恒例の自己紹介・近況報告つきです。当然わたしの近況報告はXデーのことです。それなりに驚いてもらったりウケたりしたのでよしとしましょう。
今回は、就職で悩んでいる人や、書類の記載の変更のタイミングで悩んでいる人や、いろいろな悩みが出てきたので、なかなか興味深い内容でした。
ただ、やっぱり
「なんだかなぁ…」
と思う部分があるんですよね。自分も含めてになってしまったんですが^^;;、やっぱりSRSというヤツの持つ意味です。
まぁ、そりゃぁ、人のことを言えなくなってしまったわけですが、SRSをしたら、例えば温泉に入りやすくはなるわけです。でも、例えばMTFの達人たちはSRSをしていなくても、擬似的に女性の身体をまねるテクニックを持っておられる。もちろん女性風呂に入ることを推奨する意味で言うわけではないですが、「SRSをしないと入れない」わけでは、たぶんない。それは、ジーンズのはきこなしも一緒のことです。
ところで、例えばSRSをした人が
ジーンズはきやすくなった」
みたいなことをSRSをしない/していない人の前で言うとすると、言った人の意図とは関係なく「SRS圧力」を高めてしまう可能性があると思うのです。これが一般社会の中で言うならまだしも、当事者がたくさんいる場所でそれを言うことは、ますますそれを高めてしまう可能性がある。少なくとも、そのことを意識化して話をする必要があるだろうと思うのです。
じゃぁSRSの話ができないかというと、それは違うだろうと。そのためには、いわゆる「Iメッセージ*1」にとことんこだわることかなぁと思うのですが…。
まぁそんなことを考えながら、みんなでワイワイやっていると、今回もあっという間に終電の時間です。
あしたも朝が早いのになぁ…。

*1:「いつきメッセージ」ではもちろんない(笑)。じぶんにこだわったメッセージの発信のしかた