「あの人たち」のこと。「あのできごと」のこと。
なぜ自分はそのことで傷つくのか。なぜ自分はそのことにとまどうのか。
数学も大切だけど、ほんとはもっと大切なことがある。でなければ、「わたし」が生徒の前に立つ意味がない。
教員という権力性を持ちながら、そのことに自覚的でありながら、やはり語らざるを得ない。
ふだんは「数学」に乗せて語る。しかし、本当に必要なときは、「言葉」に乗せて語る。語ること。あきらめないこと。
そのために教員になったんだ。
カテゴリー: 考え
透明性と不透明性とか
この時期になると「評価」がガチの課題になってきます。
「いや、そんなもん、年度当初に決まってるやろ!」
という向きもありましょうが、で、確かにそうなんですが、そうはなかなかいかないところがありまして。やはり、「妥当性」というか「現状追認性」というか、そんなものを考えながら、毎年修正していくものなんです。
ただ、年度当初は忙しいんですね。で、みんなが納得する必殺の言葉が出てきます。
「まぁ、歩きながら考えましょか」
ただ、いつも歩きすぎてゴール直前に
「どうしよう(T_T)」
となる。
で、今年はそれを避けるべく、普段よりも半月早く提案をしてみたわけです。
で、なんとなくわかったことは…。
全体の総枠は、おそらくは透明性と客観性をもっていないといけないのかな。まぁ、「その客観性の中身を客観的にあらわせ」と言われたら「ごめんなさい」なんですが(笑)。
でも、最後の最後に、ほんの少しだけ主観性というか不透明性というかグレーゾーンというか、そういうものがあってもいいんじゃないかと思うのです。
今日の論議でも
「ここの基準はどうします?」
みたいな話が出た時、わたしともうひとりか
「そこはグレーゾーンでいきましょ」
と発言したわけで。
グレーゾーンがあるってことは、そこの責任は担当者がとるということです。担当者が担当する生徒から逃げないために、やはりこの感覚は大切だと思うんですよね。
TLに流れてくる
夜、ふとついったを見たら、TLに延々とさまざまなつぶやきが流れてきました。そんなつぶやきを見ながら、自分に何ができるのかを考えました。
なにより、「あの人たち」を育ててきたのはわたしたちがおこなっている「教育」の中にあるということ。この感覚は、もしかしたら教育に携わるもの特有のものかもしれません。と同時に、教育に携わるものに必要な感覚とも思います。
わたし(たち)にできること。わたし(たち)だからできること。
それを行うときに「教員」という権力を行使しながら行なっているという自覚を持つこと。
そうした矛盾の中にいることを自覚しながら、それでも語ることをやめないこと。
明日がやってくる。
便利さと引き換えに…
今日は、とあるクラスがふたコマ授業があります。で、進度が一段落したので、子どもたちに
「ふたコマ目、どうする?」
と聞くと
「グループ学習」
という子がいたので、それはいいなと(笑)。
てことで、空き時間にプリントつくってプリントアウトして…。できない(T_T)。ネットワークが死んでる…。職員室に行くと、向こうでもバタバタしています。どうやら職場全部が落ちてるみたいです。外へ出られないだけではなくて、隣のパソコンにpingすら届かない。
今どき、ガッコですらすべてがネットワークでつながっています。プリンタはすべてネットワークプリンタ。それこそデータですら「サーバーにいれろ」とか言ってます。なので、こんな事態になると、データにアクセスできなくなるので、みなさんまったく仕事ができなくなります。
ちなみにわたしは「イヤ」とか言ってローカルにデータは保存してますが、プリントアウトできなかったらどうしようもありません。しかたないから、ネットワークプリンタに直接つないでプリントアウトしようかと思ったら、管理者権限がないからドライバが入れられない。
もうね、ガチでだめですよ。
ちなみに、放課後、職場のネットワーカーたちが奮闘して復旧しましたが…。これもねぇ。その人たちが授業中はどもならんという。
システムを大きくしたわりに、管理者へのコストを下げてボランティアに頼ってるからこういうことになるわけで…。
まぁ、うまく動いているときはほんとうに便利なんですが、うまく動かなくなった時はすべてがストップしちゃいます。
あ、ちなみにみなさん、笑って別の仕事をしてはりました。結局ガッコって、メッチャアナログというかローカルというか、そういうところなんだ。
そですよね。プリントつくろうと思ったら手書きでつくればいいわけです(笑)。
ちなみにグループ学習はしましたとも!同じセクションの人にローカルのプリンタをつないでいる人がいて、その人にプリントアウトしてもらいました。
わたしもプリンタ買おうかな(笑)。
さて、今日は「呑み」はない。久しぶりにお家でゆっくりして、さっさと寝ることにしましょうかo(^^)o
網の目を編みなおす
放課後、生徒会室でちょっと雑談です。
ここでも、なんとなくイメージしていたことが、言葉にすることで明確化できました。
おそらく子どもたちの頭の中にある世界って、とてもフラットなんだと思うのです。で、そこに凸凹(差別とか)ができる。とすれば、その凸凹を均せばいい。もしも凸凹に気づかなければ、本人にとってはフラットなまま。だから、なにもしなくてもかまわない。
で、わたしの頭の中にある世界はもともと凸凹にできている。生きることはそのものが凸凹の中にいること。ある場所を均してもそこを均したからこそ別のところに凸凹をつくってしまったりすることもある。まぁ、素人左官業みたいな。もっと端的に言えば、差別と抑圧と権力関係の網目の中に生きている。だからこそ、生きることと網の目を編みなおすことはイコールであるわけです。
で、新しいアクティビティは、その凸凹の中に生きていることへの気づきにしたいなと思っているんです。
イメージを具体化する作業は、たぶんこんな生徒との会話の中から可能になるのかな…。
歴史を学ぶこと・歴史に学ぶこと
今日は某研究会の総会です。てことで、一時間目の授業をさっくりこなして、急いで会場へ。
午前は総会。まぁ、淡々と粛々と進むわけです。
で、午後は記念講演。昨年度夏に一度お呼びした松波さんの話です。
基本的には去年の夏の話を踏襲しながら、もう少していねいにされた感じでした。
基本的には「社会モデル」の話なんですけど、すごくうなづいてしまったのは「歴史」のことなんですよね。
例えばみなさんが部落問題学習をされるとしたら、やはり水平社のことや、部落解放の歴史について学習されると思うのです。ということは、障害についての学習をされるなら、障害をどう捉え、人々がどう闘ってきたかという歴史を学ぶ必要があると思うのです。
もうね。ほんとうにその通りだ!と思いました。
と、ここで振り返って、例えば、日朝関係史の学習をするとする。そこでなにをテーマとして学習をするのかです。あるいは、部落史でもいい。なにをテーマとするのか。
たいてい「なぜ日本に朝鮮人がたくさん住んでいるのか」「なぜ部落が発生したのか」みたいな話になる。それはそれで大切ではあると思います。でも、それを障害に置き換えたら、「小児麻痺の原因は?」「発達障害の原因は?」みたいな話になるのかな。それはそれで大切なんだけど、そこからは「いかに生きるか」という話が出てこない気がします。
なにやら、ついつい「歴史を学ぶ」ことに力点をおいてしまう。それはそれで大切。でも、人権学習においてそれよりも大切なのは原因を知ることではなくて、そういう社会の中で人々がどう生きてきたかということを知ること。そして、それを今の自分にどう応用し、社会をどう展望し、つくりかえていくのかということ。それを考えること。実践すること。
なんかそんなことをぐるぐる考えさせてくれる講演でした。
うん、来年度、少し教材をいじくろう。
更新
昨日、帰りの電車に乗っていると、友だちからメール。まぁ、おおかたは酔っ払っているわたしを心配して、ちゃんと電車を降りたかどうかの確認なんですがm(__)m、それ以外にもいろんなことが書いてあって、その時はそれを理解しているつもりでやりとりをしていました。ところが、朝見ると、まったく別の読み方ができることに気づいたり。
メールは「対話」とは違って形として残りますからねぇ。解釈はそのつど更新されていくのかも。
とてもおもしろいo(^^)o
いつでもどこでも(笑)
今朝はあまりにもしんどかったので、めげてしまって1時間年休をとることにしました。ちなみにしんどかったのは二日酔いではなく、明らかに寝不足です。もっとも、寝不足の原因はいわずもがななんですが^^;;。
で、授業中の会話。
「先生、飲むために働いてるのか?」
「そやで」
まぁ、普通の会話です(笑)。で
「いや、寝不足でな、今朝年休とったんや」
「えーなー」
「いや、えーなーって、年休は労働者の正当な権利や」
「え…」
「バイトでも条件を満たせば年休はあるんやで」
しーん…。
「そやけどな、パートタイムの場合、契約の更新があるやろ。年休をとることは雇用者は断われへんし、そのことでクビにはでけへんけど、契約の更新をしないことはできるねん。だから、権利はあってもなかなか行使ができない」
しーん…。
「たとえ権利があっても、それが行使できないなら、その権利は単なる紙切れや。だからこそ、それが行使できるようにせなあかんねん」
しーん…。
「ほな、積分やるで」
いや、この約一年間のうち、子どもたちが一番真剣に話を聞いた瞬間かもしれませんでした。
やっぱ、やらなあかんで!労働!
もっとも、内容はこのあいだの受け売りですけどね^^;;。
優れたレポートは自分の日常を問い直させる
今日出された2本のレポートはほんとうにすごかった。
あんなふうにていねいに子どもたちとやりとりができたら。あんなふうにていねいに保護者とやりとりができたら。そりゃ、子どもも保護者も、そして自分自身も変われるよ。そして、そうやって変わっていく自分をきっと好きになれるよ。
振り返ってわたしは…。
やっぱり、ここではしゃぐことが大切なんじゃない。日常が大切なんだ。