問われるのはこれから

朝、「今日は忙しい一日になるだろうな…」と思いながら出勤です。
とりあえず2時間授業をさっくり終えて、一息つきます。と、内線電話。来られたか…。
てことで、今日は午後から「人権公演」です。去年は桑山さんをお呼びしての公演。今年はちゃんへんさんです。
実はちゃんへんさん、8年前にお会いしています。てか、放送担当しただけなんですけどね。でも、あの時からぜったいに呼びたいと思っていたんですよね。で、今日、それが実現するわけです。

とりあえず体育館で準備開始。ちゃんへんさんは入念にウォームアップされます。
途中、「覚えてはりますか?」と無茶ぶりをすると「覚えてますよ」と、これまたうれしい答が返ってきました。
そんなこんなしているうちに、いよいよ開始です。
ひとつひとつのパフォーマンスにみんな大喝采です。そりゃそうです。世界屈指のパフォーマーですからね。生徒だけじゃなくて、教員もみんな食い入るように見つめています。
そしてトーク。日朝関係史からはじまって、自分の生い立ちやそこで考えたこと。笑いを交えながらも、ずきんとする話が続きます。気がつくと、前にいる生徒が泣いています。
で、ラップ。いろんなものがつながっているんですね。
あっという間に2時間が終わりました。

うちの生徒の中には当然「ウトロ関係者」がいます。なかには
「センセイ、なんで知ってるねん」
「いや、風のうわさでな」
みたいな話もあるのですが、せっかくなのでちゃんへんさんに会わせにいったり。

崩しの間、ちゃんへんさんはクールダウン。そこにクラブをしに来た生徒が寄ってきます。ステージの上とは違う、目の前で繰り広げられるディアボロのパフォーマンスは迫力が違います。思わずみんな
「握手いいですか」
「写真いいですか」
さらには
「サインいいですか」
おいおい。うらやましいから、わたしも便乗(笑)。

さてと、楽しい時間は終わった。
でも、ここからなんですよね。ちゃんへんさんの力を借りて、次に自分たちが何を伝えられるのか。力は借りるだけ。頼っちゃいけない。

がーんばーろう♪!

仕事の合間、ネットを見ていたら「性的少数者の子に配慮求める通知 文科省、対象範囲拡大」なるニュースが飛び込んできました。ふぅむ、出たか…。まぁ、通知なんてものは現場に降りてくる前に「アクティビスト」にわたるみたいです(笑)。実物の写真をあげてくださる人もおられたりして「ふむふむ」と読んで…。そのうちに文科省のサイトにあがってることも確認しました。

いや、これね。喜ばしいことです。だって、これを読んで、真っ先に浮かんだのは、実際に学校の無理解に悲しみと怒りを覚えている中学生です。あるいは、受け入れられるかどうか、カミングアウトするかどうか悩み続けている小学生です。あるいは、カミングアウトしたけど、その要求の実現のために、常に学校から要求され続けている小学生です。
その子らのためには、きっと喜ばしいことです。

でも、一方で、なんとも言えない虚脱感に襲われました。
おそらく、わたしは2006年頃から「学校の中のトランス」にもっとも力を入れて、地方都市の片隅で「雪かき仕事」を続けてきました。でも、そこから考えるさまざまな蓄積があります。
今回の通知は、そんなことをすべてすっ飛ばしてブルドーザーで均すようなものな気がしたのです。
この通知の結果
「あー、いつきさん言ってるみたいにゴチャゴチャ考えなくても、ちゃんと配慮しますよ」
みたいな世界が来るんじゃないか。本質を置き去りにしたまま「ノウハウ」だけが求められる世界が来るんじゃないか。そして、そのノウハウは誰が持ってるかというと、これが「専門家」だったりするわけです。となると、「診察は不要」とする、ある種画期的な通知であるにもかかわらず、グルリと一周まわって「専門家主義」じゃんかってことになるんじゃないか。
その時、交流会に集う子どもたちとともに積み上げてきた本質はどこかへ飛んでしまう。
そんな気がしました。

でもね。
きっとこの通知は、うちの交流会の子らも含め、全国各地で声をあげ、自分のまわりの社会を少しずつ変えたトランスの子どもたちの声の上にある。そんな気もするのです。
なので、たぶん一番大切なのは、そのことを忘れないこと。
2003年にはじめてわたしのところに送られてきた一通のメール。学校がとても好きで、勉強もしたいのに、制服が着られず、ジャージすら認めてもらえない子の、淡々とした絶望のメール。それに対してなにもできないわたしがいたこと。そこから出発していること。そして、やがて各地から相談メールが来て、それぞれの地の友だちに連絡をしながら、その子らのサポートが少しずつできるようになったこと。その先に、交流会がある。
そのことを忘れないこと。
そして、ブルドーザーではなく「雪かき」をしているからこそわかることがある。それを発信し続けること。

そんな気持ちにさせてくれたのは、尊敬する先輩や大切な仲間たちのエールでした。

ブルドーザーで雪かきすると、大切なものもいっしょに捨ててしまうような気がします。

ブルドーザーには、狭い路地裏の雪かきは出来ないのです。

そしてブルはゴミもたくさんの雪を海に捨てて環境破壊までします☆
しかしそれをしないと交通麻痺。何が正解なのか、どこに鍵があるのか、悩みながら雪かきをします。

よし、がんばろう。ここからだ。

もうひとつのこわさ

今回、批判層の受け皿となった、とある「躍進をとげた」党ですが…。
まぁ、古い人だと言われそうですが…。
あの「黙ってオレについてこい」的な「自己中」が、どれだけの人や運動を切りつけてきたか。
少なくともわたしは、わたしやわたしの大切な仲間が受けてきた仕打ちを忘れないし許さない。
というか、自分たちのためなら平気で人を裏切る。そこもまたブレてないんだよね。

こわい

統一地方選挙の結果について、いろんな人がいろんな分析をしてくれているので、まぁ、いまさらなんですが…。
まぁ、わたしが投票した人は薄氷の思いではあっただろうけど、当選されました。よかったよかった。
で、ふと思うのですが…。
例えば、広島ファンの人って、勝とうが負けようが広島を応援しますよね。ところが、政治だとそうはならない。まぁ、野球と政治は違うから「それは比較がおかしい」って話にはなるんだろうけど(笑)。
ただ、例えば広島ファンだって甘やかすわけじゃないわけですよね。もちろん批判はする。したうえで、でも応援する。で、その担保があれば、広島はブレずにすむ。大切なのは、一時失敗しても、ブレずにやりかたを一貫する。その息の長さを保証することなのかなと。
逆に言うなら、その担保がなければ状況にあわせて迷走するし、結果、ますます泥沼にはまる。

で…。
その「息の長さを保証されていない政党」って、どこかなと。逆に「息の長さを保証されている政党」って、どこかなと。
なんかそんなことをふと考えたりして…。

にしても、やはりこわいです。野球なら「関心ない」ですむことだけど、政治はそうはならない。
投票率が40%台ってことは、半分も行ってない。で、たとえそのうち過半数をとったとしても、全体から見るとせいぜいが20数%。それが全体を決める。そんななか、ブレずに「粛々と」やり続けてきた党がその20数%を握り、あるいは狙い続けてる。
その行き着く先は…。
やはりこわい。

SSTとp4c

なんか今度職場でSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)をしなくちゃならなくて、その研修会がありました。
んー。
たしかにうちの職場、SSTはやったほうがいいかなとは思うのです。思うんだけど、キライなんですよね。特にロールプレイがイヤ。あのわざとらしさというか、予定調和的なところが、どーにも好きになれません。でも、やらなきゃならんからしかたないです。参加しました。
今回のお題は「心地よいあいさつ」だとか。で、笑顔の練習とか。まぁ、わたしは笑ってる時間のほうが長い人間なので、別につくらなくてもできるのですが…。できない人もたしかにいますね。てか、SST、生徒じゃなくて教員が必要なんじゃないのか(笑)?
てのはおいといて…。
かつて「行動療法」がらみのことをおべんきょしたとき、「性格を変えなくても行動を変えればいい」って話を聞いた時、いたく感動した覚えがあって、それはそれでいいかもとは、たしかに思いました。でも、どこかにうさんくささというか、「結局スキルかよ」っていう思いもあったのもたしかです。古風な人間かもしれないけど、内側から滲み出るものはあるんじゃないかと思うし、そのために「人間を磨く」っていうことがあってもいいんじゃないかとも思うわけです。
なんか、そんなことを感じながらのSSTの研修会でした。ま、もちろん、やる限りはベストを尽くしますけどね^^;;

で、夜はp4cがらみの打ち合わせ。
なんかしゃべっているうちに「あぁ、こっちだよ」っていう気がふつふつしてくるんですね。Hんまさんの「スキルじゃないんだよ!」もすんごく来たけど、T橋さんの言葉はよかったです。
「カウンセラーは個々の人の課題に着目する。でも、哲学はそうした課題の先にある共通の問題を問う」
うわぁ、キレッキレ!
うん
うちの子らとp4cのひとときをすごしたら、きっとおもしろいことがいっぱい出てくる気がします。チャレンジだな…。

とあるニュースに触れた時のtweetとか

なんか、「全国的な動き」が起こったらしい。

たぶん、わたしとか過去の人なんだろなぁ。いや、過去の人でもなく、存在しない人なんだろなぁ。

んー
まぁ、社会は自分みたいな小さな人間がやっている小さなことなんて無視して、ブルドーザーのような馬力であたりを均していくんだろうなって、ふと思いましてね。
でも、ほんとはその小さなことを大切にすることが大事なんだと信じてるんだけど。
でも、たまにイヤになる…。

いやぁ、わたしの座右の銘は「一寸の虫にも五分の魂」ですよ。

さてと
今日も10年やってきたちっちゃな集まりをしてきた。ちょい寒かったけど、いい花見だった。新しい人も来た。
10年にはね、それなりの重みがあるんだよ。

親和性

基本的に、わたしは職場の中に友だちはほとんどいません。連絡先すら知らない人が多数です。なぜなら、興味が違うし、行動パターンも違うからです。
わたしの興味は、ほとんどが「ガッコの外」にあります。また、行動パターンも「ガッコの外」です。に対して、同僚の多くは「ガッコの中(あるいは延長)」で生きている*1
だから、こないだの「おさんぽ」に同僚が来たことが大きな驚きだったわけです。ちなみに、わたしが話があうのは「常勤講師」の「女性」が多いみたいです。まぁ、ベテランと言われる年齢の教員と若い女性の常勤講師との間にある「権力関係」って言われたら、身も蓋もないのですが^^;;。でも、たぶんそれは違うと思います。
で、なんでこんなことになるのかなと思ったのですが…。
「もしかしたら」と思ったのは…。たぶん新採の教員のほとんどは、単に教科だけではなくクラブ指導も期待されて採用されているんじゃないかと。だって、高年齢化していく現在の学校現場では、たぶんクラブ指導してくれる教員が不足しているから、当然そうなるんじゃないかと。ちなみに、クラブ指導は「本務」ではないので、元来おかしいことなんですが、でも、そういう状況がある。
で、「クラブ指導」をはじめると、放課後と土日がベッタリととられてしまう。しかも、近年「土曜活用」とか言って、勤務時間外労働も日常化している。すると、放課後や土日に「ガッコの外」に出ることができなくなってしまう。あるいは、そこに関心を持たない人が採用されることになる。当然、わたしの「興味」や「テリトリー」とは異なる人が多くなる。
でもねぇ。
これはまずいと思うのです。だって、例えば「人権」の研究や実践の交流は「ガッコの外」にある。いや、「ガッコの中」にもあるけど、でも、例えば「おさんぽ」の場所は「ガッコの外」なわけで、そこに行かなきゃどうしようもない。で、その時間をクラブ指導は奪ってしまう。あるいは、あらかじめ奪われることを前提で採用される。いや、奪われていることに、少しずつ少しずつ慣れていって、奪われていることを忘れてしまう。
で、若い女性の常勤講師って、「若い=忘れる前」で「女性=往々にして体育系クラブ指導を期待されていない」で「常勤講師=継続性の問題があるのでクラブ指導を前提に雇用されていない」から、いままで述べた人とは異なるところにいるのかなと。
で、仮にそうだとして…。できれば正規採用になった時に、「慣れ」たり「忘れ」たりしてほしくないなぁと思うわけです。
っていうオチでした^^;;

*1:もちろん「多くは」ですから、少数そうではない人がいるし、そういう人は「興味」の中身は違えども「すごい」人たちだとリスペクトしています。

記録更新のコツ

ま、こんなところ誰も読んでないだろうから、何を書いても別にどうということはないだろうということで(笑)。
わたしがどうやって記録を更新しているか、いろいろ考えたのですが…。
もちろん、「わたしが一番大切にしていること」は、おそらくはすべての「教員」と名のつく人が大切にしていることだと思います。でも、なかなかうまくいかない。
たぶん、それは「やり方」が違う。
みなさん、ほんとにていねいに、かつ手をかけて、いろんなことをしておられる。それこそ、小テストとか補習とかね。
わたしはかつてはそれをやっていたけど、今はまったくしなくなりました。でも、記録は更新される。なぜだろう…。
たぶん、やり方が違う。わたしは「個への対応」はしなくなりました。その代わり「集団」をどう運営するかってことを考えるようになりました。
例えば、子どもたちが「教える/教わる」関係になれるようにするためにはどうしたらいいかとか、ひとりの「質問」を全体で共有するためにはどうしたらいいかとか。全体を個に返し、個を全体で共有する。
それは「数学の教え方」とはまったく違うことです。わたしが考えている、あるいは意識しているのはそこなんです。
いや、もしかしたら誰もがそれをしているかもしれないけど、それを意識化することが大切かなと思うんですよね。
で、そうやって勉強した結果は、生徒本人のものだから、本人も「助けてもらった」とか思うんじゃなくて「がんばった」って思える。それが次へのモチベーションになればいいなと。
ま、そんなことを考えてるんだけど、毎年ヒヤヒヤもんですわ…。

最後の授業

今日の授業は20分が2コマ。試験返しです。ま、採点ミスがないかどうかとか、提出してくれたノートの返却とか、いろんな「処理」の時間ではあります。でも、わたしにとっては総括の時間です。

まずは、君たちと過ごしたこの一年、ほんとうに楽しかった。ありがとう(^^)。
きみたちの会話を聞いている時、わからないことを隣の人に聞いていることがあったね。あれ、すごくうれしかった。わたしにはできない教え方をしてくれてるんだと思った時、「ありがとう」って思ってた。
それからね。しんどいことがあってね。今日ここにいない子がいる。とてもとてもつらい。それは、君たちも一緒だと思う。もしもこの中に教員をしたいと思っている人がいたら、いまのつらい気持ちを忘れないでほしい。
それからね。もうひとつあります。
たぶん選挙権が18歳に引き下げられる。ここにいるのは全員日本国籍を持っているから、みんな選挙権を持つと思う。選挙権というのは、先人たちが命をかけて勝ち取ってきたものなんだ。だから、必ずその権利を行使してほしい。そして、それは「戦争をしない」ために行使してほしい。

そんなひとときを過ごしました。
これが教員なんだろな(^^)。

「声」はそこにある

今日は、とある雑誌の取材で鼎談をすることになりました。わたしに与えられた任務は、いつもの「仲間探し」です。
今回の中身にふさわしい「仲間」…。
いちおう、「LGBT特集」らしいので、トランスばかりというわけにはいきません。てか、すでにオープンにしているトランスを集めてもおもしろくないし(笑)。
てことで、レズビアン/ゲイの人を探すことにしたのですが、これがなかなか思いつきません。瞬間、平野さんとかも浮かんだのですが、今回については違う気がします。
ちょっと思い当たる人がいたので、とりあえずメールを送ってみたのですが
「自分は完全なクローゼットで、まったく誰にもオープンにしていない。せっかくのお誘いだけど絶対に無理」
という返事がかえってきました。
そうなんだ…。コミュニティで会う時は、とても気さくでオープンな感じだけど、普段は違うんだ…。なんか、すごく厳しい現実をつきつけられた気がしました。
でも、なんか、今回の中身は「クローゼットな人」に話をしてほしい気がしているのです。というのは、クローゼットな人の声は、なかなか伝わらない。でも、そんな人にも「声」はある。きっと隣にいるであろう人の声なき声。そんな「声」にこそ耳を傾けるべきだろうと、わたしは思うからです。
そんなことを考えている時、ふと何人かの知り合い、それもほんとうに「ふいに出会った人」が何人か浮かびました。そうだ。あの人たちに頼もう。
すると、みなさん、快く引き受けてくださいました。
で、今日迎えた鼎談。
すごくよかったです。
名前のない存在、いや、存在しないものとして扱われることへの怒りや悲しみ。
言いたいけど言えない。でも、信頼できる人へのカムアウトの実現、そしてそのカムアウトを受けた人の変容。「自分のことを言うことはできないけど、なんらかのことはしたい」という思いを聞けたことは、すごくよかった。
そうそう。
街角でレインボーを見た瞬間「あ、自分を「存在するもの」として考えてくれる人がいるって思える」って話がありました。当事者じゃない人がレインボーをつけることの意味を、なんか、教えてもらった気がしました。