4度目の訪問

今日はとある人権教育研究会のフィールドワークです。今回は久しぶりに「皮なめしの街」に来ました。
1度目は2009年3月で2度目は2010年2月、3度目は2011年6月でした。前3回は立て続けでしたが、今回は7年あいてます。ずいぶんと変わっただろうな。
ちなみに今回は、なぜかうちの上の子が参加です。なんか、昨日の夜に「御着に行く」って言ったら「行きたい!」と。
で、御着駅に到着。すでに柏葉さんが来ておられて、いきなりペンケースのおみやげをもらってしまいました。で、上の子を紹介したり。すると、柏葉さん
「お母さん、あ、お父さんか」
とボケられて、周囲の教員大爆笑です(笑)。
それにしても、お元気そうでうれしいです。
で、フィールドワークスタート。ところが驚いたのは、今は工場ひとつしか見学させてくれないとか。なんか、いろいろあったらしいです。かつてはクロム鞣しとタンニン鞣し、それからシェービング工場も行かせてもらえたのになぁ。そう言えば、シェービング工場から革を干してるのも見えました。あの風景はもう見られないのかなぁ。
クロム鞣しの工場に入ると、相変わらずの臭いです。やはりこの臭いは現地に来ないとわからないです。その後、タンニン鞣しの工場の横へ。なんでもうちの子どもが
「タンニン鞣しの臭いをかぎたい」
と強い要望を出したとか。どんだけマニアックやねん。そしてそれに応えてくださる柏葉さんはすごいな。
その後、皮革資料館からの柏葉さんの工房です。
柏葉さんの話、フリーダムです。でも、それがおもしろい。なんでもマンチェスターに行かれたらしく、その旅行談がマニアックにおもしろいです。が、あまりにも御着の話からはずれっぱなしなんで、思わず
「すんません、そろそろ革の話を…」
などと言ってしまったり。そんなこんなで、約2時間の講演会が終了です。聞いてたみんな、どうだったかなぁ。
帰りに上の子どもが
「もう一回タンニン鞣しの臭いがかぎたい」
とか言うので、工場へ。しばらく歩くと
「きた、きたきたきた、うわきた」
という感じなんですけど、どうやらそれを表現したいらしい。なるほどな…。

打ち合わせはまかせた!

今日は夏の「全国在日外国人生徒交流会」を引き受けてくださる人との打ち合わせです。実は2週間ほど前にやることになってましたが、いろいろあって今日になりました。で、打ち合わせの場所は「滋賀朝鮮初級学校」です。何でも今日はここの焼肉マダンだとか。これはいかねばなりますまい。
ということで、京都駅でAっちゃんと待ち合わせして膳所へ。そこからハッキョまで移動です。到着すると宴もたけなわです。まずはビールとワインをAっちゃんに調達してもらって、ヱビスで乾杯です。そして肉!うまい!すでにこの時点で何をしに来たかわからなくなっています。やがて打ち合わせの相手のまゆ姐さんが来られましたが、なんかわたしはぜんぜん別の話をしなくちゃならなくて、えい!打ち合わせはAっちゃんにまかせた!
なんか、打ち合わせも10分ぐらいで終わったみたいですけど、大切なのは顔合わせです。なので、これでいいんでしょう。
マダンそのものは3時くらいに終わりましたが「時間のある人は残ってもらっていいですよ」と言われたので、これは残らねばなるまいと、再びAっちゃんにワインとチューハイを買ってきてもらって、飲み直しです。途中、話をしている相手から障害者手帳を見せてもらったり、はたまあウトロのプヨンジャの話で少ししんみりしたりしてして、なかなかディープな飲み会です。が、6時をまわったところで校長さんから「そろそろ終了」と言われてようやく終了。
いやぁ、ハードでディープで楽しい焼肉マダンでした。滋賀の友だちにもいっぱい会えたし、よかったーo(^^)o。
てことで、家に帰ってビールを呑んで倒れるように寝ましたとさ。

走って呑んで

今日は組合の定期大会です。今年もわたしは議長やらなきゃなりません。まぁええけどね。でも、せっかく朝から定期大会があるなら、会場まで7〜8キロなので走って会場に行こうかなと。でも、空を見上げると、雨が降りそうです。走ってる最中に降られたら洒落にならんので断念。会場に早めに行って、御所のまわりを走ることにしました。
で、スタート。御所は南北方向が長くて、しかも北行きは軽い登りです。てことは南行きは下り。つまり、500m程度の平坦路をはさんで、1.5kmくらいの登りと下りを走る感じです。1周目はいいんですが、きっと2周目の登り区間できつくなるだろうなと予想。なので、そこの約2キロは6分くらいで走って、他は5分30秒くらいでいきたいなと思っていたのですが、見事に考えてたペースで走れたのでうれしかったです。なんと言っても、最後の1キロがペースがもどったのがうれしいですね。
走ったあとは筋トレです。そして定期大会の議長。まだ汗がひいてません(笑)。でも、滞りなく議事もすんでよかったよかった。
昼ごはんはおべんとう。とここでえらいことがわかりたした。お酒がない!それはアカンやろということで、ビールと日本酒を買ってきて、おいしいおべんとをいただきました。
で、いったん帰宅。お風呂に入ったりしばし休憩したりして、再び外出です。今日は放送部の卒業生の飲み会です(笑)。さすがにしんどい。でもみんなと会えるのは楽しみです。集まってきたのは10人。みんなでイタリアンをつつきながら、ビール→ワインです。結局10時過ぎまでワイワイ遊んでお開きです。
さすがに疲れた(笑)。

わたしは裏方

今日は午後から全国在日外国人生徒交流会の事前合宿です。例年は放送コンテストとかぶるのですが、今年は諸事情でかぶらないので、最初からの参加です。とは言え、これまた諸事情で自分がメインになるのはアレなので、今年は若手のAっちゃんにお願いして、わたしは裏方に徹することにしました。
てことで、午前はフリー。
とりま、しばしおべんきょして、昼前にランニング。7キロ強を6分切りで気持よく走れたのでよしとしましょうか。とにかく1週間走れなかったのはきつかった。
で、午後から事前合宿です。
とりま、参加した子どもたちのエスニシティを考えてメニューをつくるのが仕事かな。てことで、定番のアドボとか水餃子とかナムルに混じって、今年はフランス料理の「アッシェパルマンティエ」と日本料理として「油カスの炊き込みご飯」を取り入れました。
みんなでワイワイつくって、ワイワイ食べるのがここの交流会です。それにしてもえらいのが、食事が終わったら酒を飲んで論議をしてる大人を無視してかたづけをはじめるあたりかな。でもま、15年くらい前もこんなんだったかな。
なんしかいい夜が更けていきました。

中近世の「坂」の領域と風景

今日は京都部落問題研究資料センター主催の「差別の歴史を考える連続講座」です。講師は下坂守さん。内容は、なんと弓矢町と物吉村をめぐるあれこれです。
このあたりのことをはじめて知ったのは、2012年のことです。ちなみに、このブログの記事、「物吉村」でググると出てきます(笑)。まぁそれくらい知られてないってことかな。さらに、弓矢町については「弓矢町」だけでは何も出てきません。ただ、それなりに研究は進んでいるのかな。今日はその研究成果の一端を聞かせてもらえるようです。ワクワクします。
レジュメはB4が4枚。うち二枚は絵図と地図です。たまりません。
話の内容は、基本的には「物吉村がどこにあったか」という話です。わたしはいちおう宮前さんから軽く教えてもらっていたので、だいたいの場所は想像ついていますが、その根拠となる話を聞けるので、楽しみです。で、物吉村の場所を確定させるためには、弓矢町の「木戸」がどこにあるのかが大切です。なぜなら、古い絵図を見ると、西の木戸の内側すぐのところに書かれているからです。てことで、まずは弓矢町の木戸を探すところから話がはじまりました。
古い絵図や、建仁寺の地図なんかを見ると、ちゃんと木戸が書いてあるんですね。さまざまな時代の木戸の位置を確認しながら、当時の弓矢町の範囲を確定させていきます。これが大切なのは、物吉村は弓矢町の中にあるからです。そして、弓矢町は建仁寺の領地にはなかったからです。
ちなみに、東山はほとんどが建仁寺祇園社などの地頭の領地とのことです。その後、江戸幕府が鴨川に堤を築くことで、もともとの建仁寺を守る堤であった大和大路と堤の間に土地ができて、そこが宮川町になって、新たに幕府の直轄地ができます。ただ、その直轄地ができる前は、基本的には地頭の土地でした。が、弓矢町はそうした地頭の支配下になかったということです。しかも、物吉村は建仁寺との境界線上にありました。なので、弓矢町の境界線を確定することは、物吉村の位置の確定にすごく重要であるということです。
で、いろんな資料を使いながら、ほぼほぼ位置が確定できたところで、お次は物吉村の場所です。が、これが難しい。というのは、なかなか資料に出てこない。でも、いくつかの資料を用いながら少しずつ場所をつめていきます。
歴史家って、こういう緻密な作業をしておられるんだなと、あらためて驚きます。
そして、最終的に確定された場所は、やはりかつて宮前さんから教えてもらった「あの場所」でした。
ただ、単に教えてもらったんじゃなくて、そこに至るプロセスを知ったことで、「おさんぽのネタ」が、またひとつ増えました。
講演のあと、ちょっとビビリながら下坂さんに
「そのあたり、友だちに頼まれたらパチモンのフィールドワークをしてるんです」
と言うと
「それはそれは!じゃぁ、今日の資料を使ってください」
とか言われて感激です。だって、それをお願いしようと思ったら、逆に「つかって」って言われるわけですからね。歴史学者の懐の深さを感じました。

てことで、「おさんぽ」はまたまた長くなりそうです(笑)。

ゆきみちゃん講演会

一昨年までは特殊な人権学習の組み方をしていたうちの学校ですが、去年からそれができなくなったので、まぁ「ありがち」な組み方にしました。まぁ、全学年一斉ってのはおもしろいけど、カリキュラムとしては無理があったので、それはそれでいいかなとも思ったりもしています。
で、外部講師をどの学年のどの内容で入れるかが問題です。
三題噺は「部落差別」「外国人差別」「障害者差別」です。これを各学年に振り分けて、さらに何学期にやるかを考える。3年生の2学期はリビングライブラリなんで、そうなると1・2年に外部講師となります。そんなことをいろいろ考えて、部落差別はわたしが話をしようかと。それがこないだでした。
それにしても、1学期は1年でプレゼン、2年生は講演で、3年生はプレゼン。来週は1年生のワークということで、何回人権学習するねんという感じです。
てのはおいといて…。
「障害者差別」と「外国人差別」を誰にお願いするか。もちろん鉄板の人もおられますが、あえてそこははずしたいと思ってお願いしてるのが小林春彦さん三木幸美さんのおふたりです。でも、このおふたり、ここ3年でメッチャビッグネームになってしまって、そのうち相手してもらえなくなるかもなと(笑)。でも、わたしに先見の明があったということにしておけば、少しうれしいかもです。
そんなわけで、今日はゆきみちゃんの講演会。対象は2年生です。
1・3・4と授業をやって、昼休みに準備をしてると、同僚が迎えに行ってくれたゆきみちゃんが到着。そこからふたりで準備したりしていたら、生徒が体育館に入ってきました。マジか…。まだ10分前だぞと思ったけど、こいつら10分前行動をしてるんだった^^;。
で、ゆきみちゃんが話しはじめたんだけど、やはりいいな。淡々としてます。「大きな差別」を語らない。ほんとうに身のまわりで起こったことを淡々と話す。だから伝わります。そしてもうひとつ。受け身ではない。なぜなら「ダンス」という形で子どもたちの居場所づくりをしているからです。だから、教員サイドのことも語ってくれます。これは大きい。なぜなら、例えばうちのガッコの子らの中には保育の道に進む子もいます。そんな子らが将来出会うであろう子どもたちの話をしてくれているからです。それからもうひとつは仲パレ〜ダイバーシティパレードという「運動」もやっています。そういう多彩さが、子どもたちのどこかに引っかかります。
終わってから、なんでもひとり会場の外で質問に来た子がいたとか。さらに職員室でダラダラしようと思ったら、ひとり相談に来た子もいました。そうこうしていると、ある担任さんが感想文を持ってきてくれました。そこにも自分のことを書いてる子がいました。すごいな。ほんとに響いたんだ。
今年もゆきみちゃんに来てもらって、ほんとうによかった。来年も来てくれるかなぁ。

その後、しばらく職員室で話をして、4時に年休をとって、ゆきみちゃんと京都駅へ。近くの居酒屋に入って、反省会です。でも、とくに反省することもなく。仕事のことやプライベートなことなどいろいろ話。そうか、ゆきみちゃん、仕事に投入しながらも、少し客観的にみられるようになったんだ。そこから、今の仕事の魅力なんかもわかるだろうし、だから仕事の意味や価値がわかるようになる。
わたしもわたしでいろんな話。
あっという間に時間がたって、気がつくと、ゆきみちゃん、次の仕事に遅刻だとか。ごめん^^;。
それにしても、おなか減った。
家に帰るとたらこパスタ。これは食べなければ!

やっと来てくれた

朝からそんなことを考えながら、なんとなくヱビスをあけてしまったり。ダラダラと暴走機関車がつくってくれるごはんを食べながら朝を過ごします。
果たして今日は現役は来てくれるんだろうか。
と、卒業生が精算をしてる時に現役登場!よかった、来てくれた。でも、ひとりでは交流にはなりません。と、1994年の卒業生が高校生の子どもを連れて来てくれました。やったね!他にも卒業生が来てくれたり、昨日の晩から残ってくれたり。
さでと、何をつくろうか。あまり時間がないから、チヂミとギョウザでいきましょう。みんなが買い出しに行ってる最中に、サクッと皮をつくってしまってしばし寝かせましょう。みんなが帰ってきたら餡づくり。ひたすら包丁を動かします。が、みんな包丁使いがうまい!おかげでメッチャはかどりました。
サクサクっとギョウザをつくって、みんなで食べながら雑談。その後自己紹介。時間が短かったので、そんなに深い話まではできなかったけど、久しぶりの「交流会」という感じでした。
さてと。
お家に帰って、寝る前のビールを飲もうかな。

突然の訪問

今日は校外学習の日です。例年ビール抜きのバーベキューの1日になるんですが、今年はなぜか引率なし。学校待機になりました。なので雑務をしたりランニングしたり。走っているうちに、なぜか「王将のギョウザを食べたい」と思って、しかもそれがいつの間にか「天一食べたい」に変わっていったり。たぶん、昨日の夜ケンミンショーで富山ブラックを見たからですね。「京都ブラウン」が食べたくなったんでしょう。
てことで、誘惑に耐え切れずにJR→地下鉄と乗り継いで今出川へ。ちなみに、午後に行く予定のところの近くにも有名店はあるのですが、やはりここは今出川店です。京都ブラウン、うまかったっす。
その後、北大路まで移動して、大谷大学に潜り込んで、少し原稿考えてみたり。
そうこうするうちに四日市の人たちが到着。ツラッティに向かいます。ここ、これまで何回来たかなぁ。ここの展示はけっこうおもしろいんですよね。なんと言っても古地図がおもしろいです。それから航空写真かな。京都の街の変遷がよくわかります。四日市の人たちが本郷さんの説明を聞いている間、わたしは「ふーん」と思いながらそんなこんなを見てみたり。
その後、なぜかわたしがあたりをほんの少しだけ案内してしまいました。よく知らんのに、よー案内とかするわとは思います。
で、5時になったところで、みなさん、「六条村に行きたい」と言われるので、それでは案内しましょうかと。てことで、川崎村→天部村を経由して六条村へ。さて帰ろうとなったけど、なんとなく「飲むか」となって、たまに行く角打ちへ。いつものお母さんが「あんたはん、久しぶりやな」ときれいな京都弁で迎えてくださります。
でも、今日の話で一番おもしろかったのが、
「北は〇〇通り、東は〇〇通り、南は〇〇通り、西は〇〇通り。これらに囲まれたここが同和地区や。オレはそこで生まれ育った」
と胸を張って言われたところかな。なんでもとある運動団体支部長もされてたとか。そこから昔話をたっぷりと聞かせていただきました。まさにオールロマンス行政闘争の頃の話です。メッチャおもしろかった。
そんなこんなで有意義な夕方は過ぎて行きました。

いろいろやらなきゃならんけど

明方、なんとなくPCひらいてメールを見たら、「おべんきょ結果」の評価結果が来てました。BCのC。はたしてこれがいかほどのものなのか、よくわかりません。でもま、DやEではなかったということなんでしょうね。なんしか、ここから「修正おべんきょ結果」へ向けた日々が3ヶ月続くわけですね(;_;)。

で、出勤途中はおべんきょしたりタスクリストをつくったり。いちおうやらなきゃならんことはあれこれあるけど、気がついてるのは一部で、潜在的にはもっとあるはずだし、あとから「これも」ってなるのはわかりきった話です。
で、職場に着いて「さて」と思ったら、案の定いろいろ連絡が来ててなんだかんだやっていると時間はどんどん過ぎていきます。まぁええか。
ふと若手教員とふたりになったとき、
「せんせいっていつから担任してないんですか?」
って聞かれたので
「もう20年やってないなぁ」
と。
「担任したいですか」
「もうすることはないだろうけど、したいよ」
そこから、担任談義とか教員談義とか生徒とのかかわり談義とか。
考えてみると、担任時代のわたしは、めっちゃ好きなようにやらしてもらえました。しんどい生徒ややんちゃな生徒を「預ける」ってさせてもらえました。だから、誰も手出しをしない。おかげさまで、その子ととことんつきあわせてくれました。
いま「チーム学校」とかいうけど、そしてそれそのものは大切だとは思うけど「まかせる」ってこともホントは大切なんじゃないかなぁ。
そんなことを思いながら話をしているうちに「安倍話」とか「トランプ話」とか(笑)。貴重な時間でした。
昼のおべんとを食べたら、眠くなって、おべんきょしているうちに爆睡です。
で、復活したので試験問題をつくってみるなど。で、つくった試験を自分で解いてましたが、めんどくさい。なんか嫌気がさしてきたところで、なにやら「ネットが不安定」とか同僚が言ってます。どれどれと見てみたら、LANケーブルの被覆がズタズタです。
てことで、急遽LANケーブルの空中配線工事開始です。脚立を使って、天井をケーブルをはわしたり、コネクタかしめてみたり。いや、楽しい。なんか、おべんきょよりもこっちが性に合ってるかもね。
そんなこんなで、一日が過ぎて行きました。

やってたなぁ

今日は午後から第二の故郷に出張です。なんでも、人権教育研究会の総会だとか。わたしはそこの研究会には所属してないけど、オブザーバー参加をさせてもらってます。
前半は総会。わたしは議決権はないから、ひたすら聞くだけです。寝ちゃいました(笑)。で、そのあとの記念講演は、かつて一緒に同和教育の連絡会をやった仲間によるものです。
第二の故郷の中学校は、とにかく荒れと低学力で有名でした。いつだったか、中の人が「うちは京都で一番学力が低い」と胸を張ってました(笑)。でも、それではどうしようもありません。なので、おそらくは50年くらい前からいろんなとりくみをしてきました。
はじめは「荒れ」との闘いです。ちなみに、40年くらい前の状況は、教員の平均年齢が30歳くらい。平均在職期間が2年くらいという、メッチャクチャなデータが残っています。つまり、教員がもたないってことです。そんなところから、「荒れ」を克服するとりくみが長く続きました。ちなみに、いつ頃まで続いたかというと、わたしが担任してる頃も続いていました(笑)。なにせ、近所の中学校と河原で決戦してたらしい。もちろん素手なんてことはないです。金属バットとチェーン使ってたらしいです。ほんとに落ち着いたのは、ここ10年くらいじゃないかな。でも、荒れてる時の子どもたち、決して学校からソッポを向いてはいませんでした。中学校への信頼は厚かった気がします。そんな「信頼」をベースに、20年くらい前から「低学力」との闘いがはじまりました。
ちなみに、わたしが「参戦」したのは30年くらい前です。最初期に出会った子らは、まさに荒れと低学力の両方を持っていて、「学習会」という名前の信頼関係づくりの場に誘うところからはじまりました。そんななかで、でもやめていった子もいたなぁ。やはり、高校では最低限の学力はどうしても要求されるんですよね。
「低学力」との闘いが組織化されたのが「同和教育連絡会」だったんですよね。ここは10歳くらい年上の先輩たちが参加していて、鉄砲玉時代のわたしは参加させてもらえませんでした。でも、ほどなくして鉄砲玉を卒業して参加するようになりました。なんかそう考えると、歴史の転換点に、わけもわからずに居続けてますねぇ。
で、低学力は克服したかというと、まだできていません。でも、かなりマシにはなったかな。
荒れも低学力も、ほんとに長い時間をかけてそうなったわけで、それは対症療法的になんとかなるものではないんですよね。そして、「連絡会」も対症療法でなんとかしようとはしてない。
そんな歴史を、仲間の講師は話されました。
わたしは今も「連絡会」に参加しています。まだ歴史は終わってなくて、つくられている途中です。

で、夜は数学科の飲み会です。場所はおとつい行った店です。我ながら「なにやってんねん」と思います。まぁでも、料理もワインもおいしいし、赤ワインこぼさなかったし、久しぶりに「今宵もはじまりました」に投稿できたし、まぁええか。

さらに出掛けには70円まけてもらえたし、店員さんに顔は覚えられてたし、まぁええか(笑)。