中近世の「坂」の領域と風景

今日は京都部落問題研究資料センター主催の「差別の歴史を考える連続講座」です。講師は下坂守さん。内容は、なんと弓矢町と物吉村をめぐるあれこれです。
このあたりのことをはじめて知ったのは、2012年のことです。ちなみに、このブログの記事、「物吉村」でググると出てきます(笑)。まぁそれくらい知られてないってことかな。さらに、弓矢町については「弓矢町」だけでは何も出てきません。ただ、それなりに研究は進んでいるのかな。今日はその研究成果の一端を聞かせてもらえるようです。ワクワクします。
レジュメはB4が4枚。うち二枚は絵図と地図です。たまりません。
話の内容は、基本的には「物吉村がどこにあったか」という話です。わたしはいちおう宮前さんから軽く教えてもらっていたので、だいたいの場所は想像ついていますが、その根拠となる話を聞けるので、楽しみです。で、物吉村の場所を確定させるためには、弓矢町の「木戸」がどこにあるのかが大切です。なぜなら、古い絵図を見ると、西の木戸の内側すぐのところに書かれているからです。てことで、まずは弓矢町の木戸を探すところから話がはじまりました。
古い絵図や、建仁寺の地図なんかを見ると、ちゃんと木戸が書いてあるんですね。さまざまな時代の木戸の位置を確認しながら、当時の弓矢町の範囲を確定させていきます。これが大切なのは、物吉村は弓矢町の中にあるからです。そして、弓矢町は建仁寺の領地にはなかったからです。
ちなみに、東山はほとんどが建仁寺祇園社などの地頭の領地とのことです。その後、江戸幕府が鴨川に堤を築くことで、もともとの建仁寺を守る堤であった大和大路と堤の間に土地ができて、そこが宮川町になって、新たに幕府の直轄地ができます。ただ、その直轄地ができる前は、基本的には地頭の土地でした。が、弓矢町はそうした地頭の支配下になかったということです。しかも、物吉村は建仁寺との境界線上にありました。なので、弓矢町の境界線を確定することは、物吉村の位置の確定にすごく重要であるということです。
で、いろんな資料を使いながら、ほぼほぼ位置が確定できたところで、お次は物吉村の場所です。が、これが難しい。というのは、なかなか資料に出てこない。でも、いくつかの資料を用いながら少しずつ場所をつめていきます。
歴史家って、こういう緻密な作業をしておられるんだなと、あらためて驚きます。
そして、最終的に確定された場所は、やはりかつて宮前さんから教えてもらった「あの場所」でした。
ただ、単に教えてもらったんじゃなくて、そこに至るプロセスを知ったことで、「おさんぽのネタ」が、またひとつ増えました。
講演のあと、ちょっとビビリながら下坂さんに
「そのあたり、友だちに頼まれたらパチモンのフィールドワークをしてるんです」
と言うと
「それはそれは!じゃぁ、今日の資料を使ってください」
とか言われて感激です。だって、それをお願いしようと思ったら、逆に「つかって」って言われるわけですからね。歴史学者の懐の深さを感じました。

てことで、「おさんぽ」はまたまた長くなりそうです(笑)。

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