闘いはここから闘いは今から

闘いはすでにはじまっていました。それは、たぶん、70年前からはじまっていたんです。で、転換点はいくつもあった。そして、わたしにとっての転換点は、まぎれもなく9年前のこの日です。あの日から敗北を続けてきました。そして、何度となくこの詩を思い出しました。

きょうから ぼくらは泣かない
きのふまでのように もう世界は
うつくしくもなくなったから そうして
針のようなことばをあつめて 悲惨な
出来ごとを生活の中からみつけ
つき刺す
ぼくらの生活があるかぎり 一本の針を
引出しからつかみだすように 心の底から
ひとつの倫理を つまり
役立ちうる武器をつかみだす
しめっぽい貧民街の朽ちかかった軒端を
ひとりであるいは少女と
とおり過ぎるとき ぼくらは
残酷に ぼくらの武器を
かくしている
胸のあひだからは 涙のかわりに
バラ色の私鉄の切符が
くちゃくちゃになってあらわれ
ぼくらはぼくらに または少女に
それを視せて とおくまで
ゆくんだと告げるのである

とおくまでゆくんだ ぼくらの好きな人々よ
嫉みと嫉みとをからみ合はせても
窮迫したぼくらの生活からは 名高い
恋の物語はうまれない
ぼくらはきみによって
きみはぼくらによって ただ
屈辱を組織できるだけだ
それをしなければならぬ
(「吉本隆明詩集」思潮社 1966.0601 第6刷)

でも、昼に「強行採決」というニュースが入ったその瞬間、頭の中に鳴り響いた歌は、ほんとはこっちでした(笑)。

1.がんばろう
  つき上げる空に
  くろがねの男のこぶしがある
  もえあがる女のこぶしがある
  闘いはここから闘いは今から
2.がんばろう
  つき上げる空に
  輪をつなぐ仲間のこぶしがある
  おしよせる仲間のこぶしがある
  闘いはここから闘いは今から
3.がんばろう
  つき上げる空に
  国のうちそとのこぶしがある
  勝ちどきを呼ぶこぶしはひとつ
  闘いはここから闘いは今から

今はあの時みたいに国会前に行く時間はないです。でも、いまここでできること、やらねばならないことをする。たとえ一人であってもやる。いや、逆でした。「ひとりになってやる」。
まずはここから。

index

で、午後からは出張。
「絵本に興味を持たない幼児がいる」
って話が出てきましたが…。
なんとなくなんだけど…。
わたしたちがなにか本を読んだ時、どのようにその内容を理解しているんだろうって、ずっと考えてました。
たぶん
1、単語を拾う
2、単語のかたまり→熟語を拾う
3、脳内辞書のindexにかける
4、意味がわかればよし
5、意味がわからなければ調べる
6、調べてもわからなければ前後の文脈を見る
7、それでもわからなければ、同じような用法を探す
みたいな感じなんじゃないかなと。で、問題は「脳内辞書のindex」なんです。ここにあるかどうかがとても大きい。なければ、膨大な手間がかかります。で、どうしても読まなきゃならなかったら、この手間をかけるけど、読む必然性がなければ「めんどくさい」となって放り出してしまうことになりがちです。
で、幼児の場合は?
たぶん1から3は同じですが、「脳内辞書のindex」は、それまでの絵本経験+生活言語によってつくられている。で、どちらがより大きいかというと、生活言語なわけです。となると、目の前の絵本が生活言語とは異なる言語である場合、「めんどくさい」と放り出してしまう可能性が極めて高い。その体験を繰り返すと、そもそも絵本そのものがめんどくさい存在になってしまう。
もしかしたら「絵本に興味を持たない幼児」って、そんなふうにして生み出されていくのかなと、ふと思いました。

ゆるいなぁ

今日は下の子どもの学校の体育祭があるとかで、見物に行くことにしました。
とにかくゆるい。
とにかく「うちの学校は一番自由」ということを自他ともに認める学校です。まぁ、もともと誰かと競ったりする学校じゃないんです。例えば、「○○部の○○君、インターハイ出場!」みたいな垂れ幕はありません。てか、そもそも体育系のクラブはあるのか?かといって
「○○大学○○人合格!」みたいなのもありません。そういうところにはない学校です。でも、とても魅力のある、ある分野に特化した学校なんで、たくさんの生徒が希望をします。そもそも「特色ある学校」なんていわなくても、学校の成り立ちそのものが特色なんです。
街なかにある学校なんで、グラウンドの広さは小学校サイズというか、下手したら幼稚園サイズです。体育祭で描かれてるトラックなんて、スケートのショートトラックくらいのRです。でも、それでいいみたいです。だって、そのトラックをフルスピードで走れる運動神経を持ってるらしい生徒はきっといません(笑)。
でも、例えば「開会式をはじめるよ」というと自然と並ぶ。前で人が話しはじめたら聞く。そんな当たり前のことを当たり前にやるので、「並べ!」「早くしろ!」みたいな注意は一切ありません。体育祭の運営は、すべて生徒です。教員は何をしてるのかと思ったら、写真とってるだけでした(笑)。
うーん。なんか、定年前に最後にこんなところで教員やりたいなぁと、ぼんやりと考えちゃいました。まぁ、いろいろ無理ですが…。

講堂がほしい

今日は数学科の飲み会。お店はみんなの手というカフェです。
ここは、福島からの避難者の人たちのコミュニティで、その活動の一環でカフェをしておられます。
ちなみに、食事はとても安くてしかもおいしい!さらに、8人で行ったけど、飲み放題にするかどうかは個人単位で選べるという、もう、普通では考えられないお店です。
てのはおいときまして…。
当然のことながら、わたしの暴言癖が出てくるわけで、今日の暴言は「体育館を講堂にしよう」です。
うちの職場は体育館が都合3つありまして、それはそれでとても充実しているのですが、全校で落ち着いて座って集まれる場所がない。例えば椅子に座ろうと思うと自分たちで並べなくてはなりません。これ、かなりの労力なので、結局やらないんです。
でも、全校で集まるときに「椅子に座る」ってとても大切なんです。
もちろん、床に直接は非人権的ってのもありますが、それだけでなく、おしゃべりとかもしなくなるし、それに伴って怒られることもなくなって、したがって大きな声で話す必要がなくなって、だから静かな環境を保障できる。すると、すごく落ち着いた雰囲気になる。
ところが、みなさん「そんな、全校で集まる機会って、何回あるねん。それよりは体育館として使ったほうが効率がいい。講堂はムダ」と言われるんですね。
ま、もっともな意見です。でも、そのムダがとても大切なんだと思うのです。キチキチの遊びのない効率的なところと、多少のムダが保障された余裕のあるところ。どちらが子どもたちにとってよりよい環境か。
そう考えると、例えばクラブ指導で土日もすべて詰まってしまっている状態は、子どもたちや教員にとっていいのか?あるいは土曜活用の掛け声のもと、土曜日も授業するって、果たしていいことなのか?
ここで、子どもの権利条約にある「余暇を過ごす権利」を思い出します。

児童の権利に関する条約
第31条
1 締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。
2 締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

「余暇」。つまり「余った」「ヒマな時間」を過ごす。いまの学校って、その対極にあるような気がします。「余った」「ヒマ」な時間はムダ。そして、ムダな時間を「有効」に使うべく、クラブや授業を放り込んでいく。
しかし、なぜ「児童の権利に関する条約」では、「余暇を過ごす権利」が必要としたのか。おそらくは、長い人類の歴史の中で、世界中の人の叡智を集める中で「必要」と考えられた。だからこそ、この条文がある。
そう考えた時に、世界の叡智の結集を知らず、自分(たち)の限定された価値観でものごとを考え、判断することの危険性を、強く感じます。

例えば、吹奏楽部が「今度の水曜日の昼休みに講堂で演奏会をしまーす。聞きに来てください!」。そして、講堂からお昼に吹奏楽部の音が漏れてくる。例えば、書道部が「今度の木曜日の昼休み、書道ライブをやりまーす!見に来てください!」。例えば将棋部が「今度の火曜日の放課後、公開で対戦しまーす!対局の解説つきです!」こんなことが、どこかのホールを借りて学校の外であるのではなく、日常的にあることの豊かさ。
「スポーツにしか使えない」体育館よりも、実はるかに豊かなことができると思うんだけどなぁ…。

意識化し、分析し、まとめあげ、伝える

最近、少し興味を持って「当事者研究」にかかわる本を読んでいます。そんななかで出会った綾屋紗月さん(と熊谷晋一郎さん)の本
いやぁ、みんなが「すごい!」っていうのがわかります。すごいです。よくぞ自分の中で起こっていることをあそこまで詳細に分析することができるなと。そしてそれを表現できるところがすごい。それも「きちんとした表現」と「わかりやすい表現」と「美しい表現」と。幾通りにも、繰り返し表現される。

でも、読み進みながら、何とも言えないデジャヴ感がありました。なんだろう…。
あぁ!これだ!
それは、わたしが考える授業です。
もちろん綾屋さんとは比べものにならない貧弱なものではありますが、やっていることは似ている。
例えば、ある問題が目の前にあります。
その問題を見るとき、わたしの目はどう動くのか。どこに最初に注目するのか。それはなぜなのか。他の問題はどうだろう。もしも同じならなぜ同じなのか。もしも違うのならなぜ違うのか。そして、同じものはあるのだろうか。
それらをまとめあげていく過程で規則性は見いだせるのか。仮に見出したとして、その規則性を理解するためには、どんなスキルが必要なのか。そのスキルの習得のためにはどんな練習が必要なのか。
そんなことを、いつも考えています。それが、わたしにとっての数学の授業です。

それはスキーも同じです。
ある斜面において、ある技術で滑るとき、自分はどんなバランスをとっているんだろう。そのバランスを支えるための筋肉はどうなっているのか?骨格はどうなっているのか?関節はどうなっているのか?それを常にイメージしています。それは滑る時だけじゃないです。お風呂の中で、あるいは普段歩いているときに。自分の体重は足の裏のどこに何パーセントくらいかかっていて、それを支えるための筋肉の緊張と骨格の方向を意識する。
で、それを伝えるためには、具体的に身体をどう動かす運動を練習課題として提案すればいいのか。もしもそれで伝わらなければ、同じことをもう一回やるのか別のことをやるのか。
それが、わたしにとってのスキーのレッスンです。

数学が解けること、スキーができることと、それを教えることができることは、まったく違います。解けること滑れることは「なんとなく」でいいです。でも、教えるためには「なぜ?」という問いを常に意識し、分析し、まとめあげ、伝えるということをしなくちゃならないと思います。
そうやって生きているわたしの感覚と、綾屋さんの文章に、ほんの少しだけど似てるなって思うところがありました。

まぁ、こんなことは、たぶん「教える者」であれば誰もがやっていることだろうし、偉そうに言う話では、もちろんないです。
でも、誰もがやっていることを意識化し、分析し、まとめあげ、伝えるという…。あり(笑)?

蛸壺から出ると世界は広い

もちろん「世界」を股にかけて飛びまわる方もおられるし、仕事じゃなくて純粋な好奇心で世界の隅々まで行っておられる方もおられます。
それに比べて、関西の片隅でゴソゴソ動くだけ、「海外」に行ったことって、韓国に1泊2日しただけのわたしが「世界は広い」なんていうのは「お前のどこが世界やねん」というご批判を浴びることはわかっているのですが(笑)。
でもねぇ。最近「世界の広さ」を実感しています。
わたしはずっと、在日や部落のことを通して「人権」について考えてきました。まぁ、わたしよりずっと詳しくてずっと深く考えておられる方はもちろんおられますが、それでもそれなりに考え、わずかな実践はしてきたという「一寸の虫にも五分の魂」的な自負はあります。
でも、自分の自負は蛸壺のなかのことなんだなって、最近つくづく感じます。
自分はパイオニアとまでは言わないけど、それなりにトップランナーでやってきたことはあります。でも、それは蛸壺の中の話。蛸壺から出ると、似たことをやっている人はたくさんいて、その人たちのほうがはるかに広く深くものごとを考え実践しておられます。もう、リスペクトのひとことです。
でも…。
でも、ほんの少し違う。そこにこそ、わたしのオリジナリティが存在しているはずです。それを探すこと。そしてそれが「世界」とつながること。
蛸壺から出た世界は、とてつもなく風通しのいい広い世界o(^^)o

パートナーのストーリー

今日は、「会いたい!」ってたまに言ってくれるお友だちに誘われての呑み会です。お互い、長い時間をかけてトランスをしてきたので、互いに違う環境ではあるけどわかることもまたある。なので、「あー、わかるわかる」「へー、そんなことがあったんや」みたいな話を延々としてました。
でも、一致したのは「パートナーの位置づけ」でした。
たぶん「パートナー」って随伴的というか、メインディッシュの「トランス」がいて、そのメインディッシュがあってこそのパートナーというか、もっと言えば添え物みたいに扱われがちだけど、それさ違うってことです。
実は、パートナーは当事者なんでしょうね。パートナーにはパートナーの語りがある。
そんなことをあらためて感じたので、そのうちKんちゃんな話をしてもらおうということで一致した、とてもいい呑み会でした(笑)。

ニーズ

この1年、ある授業で「ともに考える」ことへのチャレンジをしています。
「考える」ことは、うちの子らの課題だと、わたしは考えています。ヤツは「感覚」は、たぶんあります。なので「思う」ことはできる。共感する力もある。でも、「なぜ?」と問われたら、そこからは前へ進めない。なぜなら「感覚」で判断しているからです。
日常生活を送る上で、ほとんどの場合それでことたります。なので、たぶんヤツらはそれで「よし」としているんでしょうね。
でも、わたしは、できることならもうひとつ踏み込んだ生き方をしてほしいと、おせっかいながら思っています。なぜなら、そのほうがめんどくさい人生を送れるからです。そのめんどくささを経験したうえで、「なぜ?」を考えない人生と「なぜ?」を考える人生のどちらをとるかを考えてもいいんじゃないかと思っています。なぜなら、選択肢が多いほうがいいということです。
ただ、「なぜ?」を考えずにすむ人生をそれなりに送ってきた子らに「なぜ?」を考えることを要求するのは、とてもハードルが高いということが、少しずつわかってきました。
ヤツらは、ある意味とてもマジメです。単純に数学をしたくて選択した「数学」という名前のついた中身のない授業で「ヤツらが数学とは関係ないと考える」中身でとまどっている。そして、どうやら、その中身はとてもめんどくさい。なぜなら、考えることとそれを言葉にして表現することを要求される。さらに、考えるためには他の人の話を聴かなきゃならない。常に聴き、考え、表現すること。言い換えると、常に「参加」が求められる。これは、ヤツらが今まで経験したことがない。あるいは拒否してきた。あるいは経験させてもらえなかった授業なんじゃないかと思います。
しかし、「わたし」は「これが数学だ」と考えます。「なぜ?」と考え、それの答えを探す。ひとりで/みんなで。だからこそ、「数学」という看板の「中身のない」授業の中でチャレンジしました。「なにかが与えられるのを待つ」「与えられたものへの選択肢はわかる/わからない・できる/できない」ではない、それが数学なんだと、わたしは考えます。
でも、ヤツらにはそれはわからない。そして、たぶんとてもしんどい。
それに比べたら、「与えるのは教員」「逃げたいときは邪魔さえしなければ何をしても大丈夫」な一方的な講義はいかほど楽なことか。
そして、ヤツらは「自分の本来のニーズとは違う」と感じ、「参加」から逃げはじめる。
さてと。どうするかな?

ひたすら仕事、と、その合間

今日は特別時間割で、あさイチから2発やって、あとは作業タイムが確保できそうです。
てことで、サックリ2発やって、サクサクと仕事を進めていきました。

と、職員室の会話。
「選挙年齢、決まったで」
「あー、ほな、目の前のあの子らも選挙権持つんか」
ま、そりゃそうです。
でも、その中には18歳であっても選挙権を持てない子もいます。その子の存在を意識してくれるのかなぁ…。たぶん、言われなきゃ気づかないだろうなぁ。で
「君たちもみんな選挙権を持つことになったよね」
とか言うんだろうなぁ。

昼からもサクサクと作業をしていましたが、2時頃にいきなり白目を剥きそうになったので、いったん休憩。あぶなかったな。あのままだったら「永遠のゼロ」になるところだったわ*1

夕方からは久しぶりに第二のふるさとに表敬訪問。たぶん、これって大切なことなんで、ちょっとマメにやろうかな。
なんか、穏やかな気持ちで一日が終わりそうです。

*1:キーボードでゼロを打ったまま寝てしまう、ありがちな話。

あり?そうなの?

つくづくわたしは「ものを知らないな」と痛感する昨今でして。
もちろんオリジナルというかスクラッチからいろんなことを考えるのですが、まぁ、たいていのことは誰などが考えているわけです。なので、同じようなことを考えている先人を見つけて、とりあえずその人が考え到達した地平からものごとを進めりゃいいんですが、その「先人」を知らない。まぁ、勉強不足なわけです。
で、今日はこないだ「当事者研究には山のように先行研究がある!それをふまえろ!」って怒鳴られたので、とりあえずは入門書から(笑)。
てことで、ダメダメ先輩からお借りした『当事者研究の研究』を読みはじめました。ふむ。おもしろい!
でも、読みすすめるに従って少しずつ違和感が。あり?こないだ、わたしのスタンスを指して「当事者研究!」って怒鳴られたのに、読めば読むほど「違う」という感じ。というか、わたしはその立場はとらないって決めた、その立場じゃん。
なんというか…。
尼崎から西へ行こうとして気がつくと向こうは神戸に向かってて、自分は福知山に向かってました、みたいな。
なんか、メッチャ混乱してるけど、もしかしたら、それは、自分のスタンスが決まっていないからかもしれない。
でも、ま、いいや。なんか、おもしろそうだし、役に立つ立たない以前に、熊谷さんのファンだから読もう(^^)。