すごい資料→アウトリーチのスピリッツ

今日は第2のふるさとの人々と一緒に「現地研修」です。なので、勤務先の駅で降りずにその先へ。降りると知りあいがウェットティッシュを配っておられました。そうか、人権週間か。こないだの香山リカさんの中止問題についてちょこっと話をして、でも迎えに来ていただいたので、そのまま集合場所へ。そしてマイクロバスに乗って、向かうは舳松人権資料館です。
到着したら、とりま舳松の歴史についてのレクチャーです。が、当然舳松オンリーになるわけもなく、部落史の講演になったりします。と、一緒に行ってた先輩と顔があって、思わず苦笑い。でも、舳松の解放運動史になると、とたんに顔つきが変わるのは当たり前。それを聞きに来たんですよね。
で、ひとわたり舳松の歴史について学んだら、次はフィールドワークです。
フィールドワークって、なにがおもしろいのかというと、歴史と今が結びつくこととか、そこに住んでた/る人の生活と触れあえることとか、さらにはそこにない歴史を想像することとか、そんなあたりかなぁ。ちなみにそれは「土地」とつながるので、例えばトランスというかセクマイ系でいうと、東京にはある。考えてみると、三橋さんに案内してもらった吉原から回向院とか新宿界隈とか、メッチャ豪勢なフィールドワークだったよなぁ。ほんとにおもしろかった。大阪は…。堂山はおもしろいけど、歴史的にはどうなんだろ。京都は…。ないか…。いや、セクシュアリティ系はありますけどね。
で、実際にもともとの「塩穴」と呼ばれていた頃の土地面積の狭さとか、坂田三吉の生家の狭さとか、いろいろおもしろかったです。
そのあとは大原さんの「啓発」にかかわる話。
大原さんとは一度?お会いしていて「お久しぶりです」なんですが、それはそれとして、とてもいい話を聞かせていただきました。やはり啓発がらみで語るのは当事者じゃなくて非当事者だなと。非当事者がどう変わりどう学び、いまどう生きているのかってのが大切なんですよね。なぜなら、他の非当事者にとって、そこにこそ自己変革の可能性を見出すからです。逆に言うなら、当事者の語りは自分の体験じゃだめってことです。そんなのは「理解と共感」でとどまってしまう可能性がとても大きい。仮に当事者が話すなら、非当事者並のことを話さなきゃならんってことです。
ま、そんなことを考えながら、舳松フィールドワークは終了。

バスに乗せてもらって帰ればいいものを、ちょいとおべんきょ場所で降ろしてもらって、おべんきょ会場に乱入。その後、Hがしさんに同行して「日本エイズ学会」に乱入。さらにDISTAへ。ここでSWASH主催のワークショップ&講演会「当事者活動の難しさ」の打ち合わせをしておられて、そこに乱入です。講師のティ二さんとSWASHのみなさんの話を聞いてたのですが、メッチャ勉強になりました。
テーマはアウトリーチについてのものでしたが、とてもおもしろかったです。もちろん、ここでのアウトリーチはセックスワーカー対象なんだけど、その手法とかスピリッツは、学校の中のマイノリティ生徒へのアウトリーチと似てるなって思いました。
わたしにとってのフィールドは教室なんですね。たいていの教員はセンター(職員室・保健室・図書室など)にいるけど、そこから撃って出る(アウトリーチ)んですよね。その時にどういうふうにアプローチするのかとか、心がけるべきことはどうかとか、どんな情報を伝えるのかとか、どうやってセンター(例えば交流会)につなぐのかとか、ヒントがいっぱいありました。
でも、そんなに長居はできなかったので、そのことをティ二さんに伝えたら、喜んでくれてました。
あと、帰りがけに4月1日のフェミニスト・フロートでコーラーしてたセックスワーカーの人が
「あの時「いつきさんがいる」って思ってすごくうれしかったけど、「女は最高」ってコールをどう聞いていたのかが気になって、終わってからみんなで話してた」
って言ってくれました。なので
「「おかまも最高」って言ってましたよ(笑)」
って言ったら、ホッとしたような笑顔で
「わたしも言ってました」
って言ってくれました。
てことで、記念写真になぜかわたしも入ってしまったり^^;

どうやらお茶大の件でフェミニストvsトランス女性が再燃したみたいだけど、少なくとも「ここ」ではそれはないなとあらためて思いました。
やはりそれは、「coming out story」でA久○さんとかRささんとかSっさんとかが言ってくれた「葛藤の共有」とつながるのかなって思いました。

てことで、ものすごく充実した1日でしたが、さすがに疲れた(笑)

きっと伝えたいんだろうな

朝、目が覚めた瞬間に「アカン」となりました。パートナーが「どうすんの?」って聞いたので、迷わず「1時間年休」って答えました。
それにしても、1時間年休をとれば、普段より1時間40分ゆっくりできるの、計算があわんなと。まぁ、理由は簡単です。ラッシュアワーなので接続に余裕を持つために早めに家を出てるのと、普通しか走ってない時間帯ってのが理由です。
てことで、ガッコに着いてもフラフラです。どうしたものやら。まぁでもそれくらい低いテンションのほうが、たぶん子どもたちにとっていいんでしょうね。
そうそう。図書室の書架を見るとこんなになってました。

なので、さっそく子どもたちに自慢。
い「きのう「へんこつ」に行ったの、これ書いた人なんやでー」
生「えー、この絵、かわいい!」
い「中もええんやで」
生「ほんまや!「好きな下着をはく」ってあんたのことやん(笑)」
生2「(笑)」
い「そやけどな。昨日お金を払った記憶がなくてな、謝りのLINEしたんやけど、既読がついたままなんやわ。怒ってるんかなぁ」
生「あー」
い「大切な友だちなんやけどなぁ」
生「元友だちな(笑)」
い「…」
どうやら子どもたちは教員の傷口に塩を擦りこむのが好きらしいです(笑)。
ちなみに、午前いっぱい仕事してて返事をするヒマがなかっただけらしいです。やれやれ、でも、そりゃそーだ(笑)。
で、今日はなんとしてでも今やってるゲンコをやりきってしまいたい。てことで、文字数オーバーの原因部分をバッサリ切り落として、そこに簡単に結論だけを書いてみたり。はたまた抜け落ちていた大切な論点を補足してみたり。
で、1回読んでみて、そのまま「えいっ」と送信です。まぁ、文字数オーバーは変わりませんが、主たる原因は英単語を入れてることとURLを記載してることなんで、なんとかなるでしょう。てか、あかなんだら、またどこかを切るだけのことです。

夜はムラのお母ちゃんと話。
このお母ちゃん、40歳くらいかな。メッチャおもしろい人です。前に子どもを成績のことで怒ってたんで、わたしは子どもに向かって「自分のことを棚に上げてな」って言ったら、お母ちゃん爆笑してはりました。まぁ、よくぞ初対面のお母ちゃんにそんな暴投したなと思いますが、受け取るお母ちゃんがすごいです。
で、子どもを前にしてお母ちゃんと「ムラ話」です。子どもも自分がムラなのは知ってます。が、それがどういう意味があるかはわかってないんですね。
母「あの人もそうやで。この人もそうやで」
みたいな話をしながら、例えば結婚してる人を見たら、みんなムラ同士みたいな話をされます。
それにしてもお母ちゃん、自分がムラ出身ということをしなやかに受けとめておられます。なぜなんだろうと思った時に「あっそうか!」と。
お母ちゃんの世代は、京都の同和教育の最後の花が開いた時だったんですよね。それまではジャマする人がたくさんいて、なかなかできなかったことが、ようやくできるようになった頃なんです。まぁ言うなれば、わたしの担任時代です。
母「あんたのお父さんもな、青年部の人にあちこち連れて行ってもらってたんやで」
い「それ、全青とか全奨とかですか?」
母「あー、わからへんけど、そんな言葉聞いたことあるわ」
ここのお父ちゃん、若い頃はそうとう言わしてたらしいです。そんなヤンチャなお父さんをあちこちに連れて行ってた青年部ってすごいです。で、当然お母ちゃんもそういう時代の空気を吸いながら生きておられるわけです。なので、自らを否定しなくていいってこと、まさに部落問題を社会の問題としてとらえておられるってことなんですね。
でも、子どもは違う。お母ちゃんとわたしの会話に、ところどころで「そんなところに生まれたのはアンラッキー」みたいなことをポツリと話したりします。そのたびにお母ちゃんは笑って返されます。
もしかしたら、お母ちゃん、子どもにムラのことを伝えたかったのかもしれません。でも、なかなか機会がなかった。そんな時に、わけのわからんヤツが突然あらわれて、ムラの話をお母ちゃんとはじめた。それを聞かせたかったのかな。
それはこのお母ちゃんだけじゃないと思うんですよね。まさに今の保護者世代は「京都の同和教育の最後の花が開いた世代」です。たぶん「伝えたい」「伝えなきゃいけない」って思っておられる。
その思いを実現するきっかけづくりができたらうれしいな。

当事者だからつながるわけじゃない

朝、机の上に授業アンケート結果がおいてあります。なんでも「分析しろ」と。なにをどうやって分析しろと。なにをさせたいのかさっぱりわかりません。てか、分析苦手やし(笑)。
てことで、今日は午前は授業にまみれます。とはいえ、3人講座は1時間でほぼ終了。まぁ、二項分布に2時間もいらんわな。
で、午後はとりあえず1月末の講演依頼をしてみたり。ターゲットは「浦野茂さん」。
みんな「発達障害についての講演」とか言ってて、でもそんなのを医者から聞いてもなんにもおもしろくありません。で、社会学からのアプローチをしてる人と思って探してたら、おられたんですよね。ちなみに『概念分析の社会学』にも書いておられるから、これはいくしかないなと。
で、依頼のメールを書いたあとは、少しゲンコをいじるなど。なんかやってたら、とりあえずはできたけど、なんだかなぁ…。てか、1600字ほどオーバーしてるし。まぁ、一晩寝かせたら減るでしょう(笑)。
夜はIっぽ&Kんちゃんと呑み。まずは「へんこつ」に行ったけどいっぱいで入れず。お次は「崇仁新町」に行ったけど「ちょぼ焼き屋さん」が閉まってたので断念。しかたなく「KIMURAYA」でワインを飲んで時間つぶしをすることにしました。
Iっぽくん、12月5日にシンポで話をするので、それにまつわる話をしたかったらしいです。まぁ、本命は「へんこつ」ですけどね。
シンポの中身は「複合差別」というか「ダブルマイノリティ」というか、そんなあたりです。
考えてみると、わたし、ダブルマイノリティの友だち、多いです。なんでなんだろな。たぶんそれは「属性」でつながることを拒否してるからなんじゃないかな。そしてその原体験は、まさに「教員」であるところにあるんだと思うんですよね。
なんか、共通の属性を見つけた時、それが少数であればあるほど「おぉ」ったなって、それだけでつながりを見つけてしまうことってよくあります。でも、もちろんそんなものでできるつながりは細くて脆いものです。じゃ、わたしのつながりは?もちろん「実践」を通してです。「存在」じゃなくて「やってること」です。じゃないと、わたしは誰ともつながれなくなる。逆に実践を通せば誰とでもつながりうる。
たぶんそんな考えが「「〜たち」という言葉」とか「「〜たち」再考」のあたりなんですよね。
で、属性だけだと「その属性」としてのつながりしかできないんだけど、「実践」だとさまざまな属性を持つ人とつながり得る。そしてなにより、ダブルマイノリティの場合、「ある属性」が「もうひとつの属性」を排除してしまうことがよくある。そんな時に「属性ではない」ことこそが、つながりに結びつく。
まぁ、そんなことを考えながら、「KIMURAYA」を出て、再び「へんこつ」へ。今度はあいてましたo(^^)o。
うまいわ。

で、お腹もいっぱいになったところで、なぜか「お福」へ。ここでダメダメになってしまいました。
無事帰れるかなぁ。

今日もフル稼働→「現代社会と部落問題」

朝、野菜の無人販売所に久しぶりにものが並んでました。今日は大根。あまりにも葉っぱがおいしそうだったので、思わず購入。同僚さんも購入。ふたりして大根ぶら下げて出勤したら、車で出勤してる人がみんな大根見てて爆笑しました。

昨日、1時間目の授業をどうするか悩んだけど、やはり図書室学習はやめました。その代わりにやったのは公文式(笑)。
とにかく1枚できたら次の1枚をとりにくる。
あとは苦手な子のために、黒板に解き方を書いて、それを写させる。まぁ、図書室学習での「抽出」でやってることを、集めずに教室の中でやってるってことです。もちろん効率は悪いけど、しかたないです。ここで一定できる子を増やせば、次の週がやりやすくなります。
3・4時間目は受験が一段落した3人授業です。この間、自習にしてましたが、そろそろやるかということで、確率分布をやることにしました。中には社会学に行く子もいるので「量的調査をする時は、ある程度知ってたほうがいいよ」だけアドバイス。しかしこの子、もともと社会学を目指してたけど、わたしの授業を聞いてジェンダーにも関心を持ったとか。うれしいなぁ。
昼休みの後半からは6時間目の「オリパラ」の準備です。なんか、オリパラにはお金がつくんですよね。これ、何がこわいかというと、「パラ」の人の話を聞くんだけど、これを人権学習に読み替える人が出てくるんじゃないかと。まぁもちろんうちではそんなことはないですけど、そんな学校が出てきかねない昨今です。東京都が「障害を言い訳にしない」ってポスターをつくって、抗議の声があがって撤回になりましたが、バラリンピックは基本的には人権学習のネタにはならんのですが、「障害者の話だからいいじゃん」ってなりかねないです。
で、6時間目のオリパラを聞く余裕などなく、わたしは放課後の研修の準備です。

今日の研修の講師は阿久澤麻里子さん。タイトルは「現代社会と部落問題」です。そのものズバリです。でも、そのものズバリの話を、今聞いてる人なんて、この職場にどれくらいいるんだろうか。
たぶん、年配の人は「士農工商」でとまってるだろうし、少し知ってる人は「中世起源説」あたりまではいってるかな。でも、通史で知ってる人は、たぶん各校の人権担当で、かつ長くやってる人くらいかな。さらに「今何が起こってるか」みたいな最前線の話を知ってる人はほとんどいないんじゃないかと思います。まぁ、このあたりのことをきっちり追いかけてる人は、たぶん府県レベルでカウントって感じなんじゃないかって話です。それくらい教員は知らない。というか、学校の中に閉じこもらざるを得ない状況があって、知らされてない。
なので、ここは阿久澤さんに来てもらおうと。
で、話の内容はとてもわかりやすくてよかったです。
『全国部落調査』事件の話を中心に、今、ネットの中でなにがおきてて、その何が問題なのかって話をとてもわかりやすく話してくださいました。さらに大学ではあるけど教員なんですよね。なので、学生たちのレポートを通して、そのネットの中のできごとが若者たちにどのような影響を与えているのかということも話してくださいました。
それにしても、法切れを根拠とした「部落問題は解決済み」という主張や風潮が、いかに部落差別を拡散し助長することにつながったかってことが、ほんとによくわかります。ここで出てくるのが「土地差別」なんですよね。
つまり、「人」と「土地」を結びつけ、その「土地」を「被差別」と結びつけることによって、「人と被差別」が結びつく。その後者を結ぶものが『全国部落調査』だし、そこで具体的な行動としてあらわれるのが「土地への忌避」となるわけです。
これはやはり奥田均さんかな。
てことで、充実した研修会も終了。後かたづけは若いしにまかせて、わたしは阿久澤さんと京都へ。ほんとは仕事に向かわなくちゃならない阿久澤さん、あまりにも体調が悪いので帰るとのこと。ならば、一杯だけ飲みましょうと誘うわたしはアカンやつですね。
てことで、駅中のパブでA久○さんと一杯だけビールを飲んで帰りました。
帰る途中に部落解放同盟京都府連に寄って、少し用事をしたのですが、その時聞いたのが、今年に入って差別落書きが急増したとのこと。まぁ、膿があらわになったってことなのかもしれないし、底が抜けてるということなのかもしれないし。こんな話も、知ろうとしなきゃわかりませんよねぇ。

どちらをとるか

先週末から土日にかけてのワチャワチャはいったい何だったんだというくらい日常な月曜日です。まぁそんなもんです。というか、あんなワチャワチャが続いたら身体がもちません。
てことで、授業と会議にあけくれるのですが…。
今月末が〆切の原稿が2本。プレゼンをひとつつくって、さらに先週の人権学習の感想文を読んで打って。明後日は教職員の人権研修。ぐえー。

その一方、期末試験ははるか先なのに、すでに試験範囲を終えてるという授業スピードの早さがあったりします。まぁ、工夫せずに淡々とやれば、試験範囲なんてあっという間に終わるわけで。てか、「わからん」とか言ってる子を相手に試験の1ヶ月前にコテコテやっても、わからん子はわからんままです。なので、「まぁそのうちわかるわ」と言っておいて、とりま前へ進む。で、最後までいろいろやって、できるものを探してやるって感じのほうが効率がいい。
まぁ言ってみたら、教室なんて、アレルギーがあったり、好き嫌いが激しかったり、はたまた食がメチャクチャ細かったり、ビーガンだったり、いろんな子がいるようなもんです。で、教科書なんて、何が出てくるかわからないフルコースを頼むようなもんです。それを最初からゆっくりと出して全部を食べさせるのか、とりあえず全員食べてなくてもいいから全部出してしまって食べられるものを食べさせるのか。そんなもんです。もちろん食べられるぶんを増やすのは目指すところですが、そうもいかないこともあるわけです。
問題は、図書室学習にするかどうするかです。
図書室学習のメリットは教え合いをするところです。が、あくまでも「やる気」が前提になる。これまでのクラスは「やる気のない子」と「やる気のある子」のバランスが、ほんの少し「やる気のない子」が負ける感じだったんですね。
これ、ビミョーでして。教室っていうのは、基本的に「やらなきゃならない感」が前提です。さらに「やる気のない子」の中には「メッチャ数学が苦手でやる気をなくさせられた子」が混じってるので、そういう子はわからせさえすれば「やる気のある子」になります。なので「やる気のない子」が勝つには、それなりの勢いが必要なんです。その勢いを例えて言うなら、「モグラ叩きにならない程度」という感じかな。つまり、3人くらいならなんとかなるという感じです。が、4人〜5人になると、モグラ叩きになります。ある子に教えて課題出して、その子がやってる最中に別の子に教えてってやるんですが、そこに寝てる子とおしゃべりする子が3人ほどいるとなると、起こして怒ってが入るので、無理ですね。さらに、「やる気のない子」が3人くらいだと「やる気がないわけではない子」の空気の中でなんとなく引きずられるんだけど、これが4〜5人になるとそっちに持っていかれる子が出てくるので、一気に崩壊していく。まぁ、学級崩壊の原理です。
これを避けるためには「分断を持ち込む」ことになります。ところが、人数が増えると、この分断が難しくなる。
まぁそんなことで、図書室学習にするか教室で課題学習させるかが悩みどころになります。で、今日はあえての教室での課題学習にしました。うーん、これはこれで効率が悪いな。
まぁ結局、なにをやってもどこかでほころびがでるってことですね(笑)。

「揺れ」のないしんどさ・全同教大会2日目

朝方、ものすごいいびきで目が覚めました。どうやら、F本さんが自分の部屋に帰らずに、わたしの部屋で倒れられたようです。まいった、あまりにもうるさい。てか、ふとんから出られない。と、目を覚まされたF本さん
「カギがどこかにいったので部屋に帰れない」
とのことです。まいった。
てことで、そのあとは寝られませんでした。

今回の分科会はK野さんが司会のところにしました。ちょっと気になるレポートがあるからです。
睡眠不足のまま朝ごはんを食べて、ホテルからお友だちの車に乗せてもらって会場へ。中に入ると知ってる人がいっぱいいます。みんな気になってるんだな。さらに「どこにいるの?」とかいうメールがあったりして、お友だちが続々と(笑)。
で、分科会開始。
まずは大阪の小学校の平和学習のとりくみです(笑)。
平和学習…。
いや、平和学習を否定する気はないです。てか、平和学習を通した人権学習はあると思います。が、平和学習そのものは、人権学習とはほんの少しスタンスが違います。でも、レポートからそれそのものが伝わってこない。なので、そこを質問したのですが、まぁ、当たり前のことを当たり前にされているみたいです。いや、もちろんメッチャクチャしんどい現実を抱えさせられている子どもたちがいるわけですから、ハンパないことはしておられると思います。が、それそのものは、それでも「あたりまえ」なんですよね。
さらに気になったのが、「被害の歴史」にとどまり、そこから「命の大切さ」を伝えるという手法です。というのは、とある大阪の小学校の校長さんがピースおおさかが「大阪空襲を語り継ぐ平和ミュージアム」になったことについて話されたことを聞いていたからです。
それなりに経験を積んでいる人が、あえて「被害の歴史」を使うのはいいでしょう。でも、レポーターはかなり若い人で「なぜ加害の歴史を使わないのですか?」と質問しても答えがイマイチ。たぶん「あえて」ではなさそうです。
それにしても、わたしの並び、「なんなんだ」って人ばかり。わたしの隣は三重のHやしさん。その隣が滋賀のUりんちゃん、その向こうが新潟のAらいさん。Hやしさん、ひたすら怒りまくってます。
お次のレポートは東京の外国人にかかわる実践です。ようがんばってはります。昨日K畑さんから聞いたとおり、孤軍奮闘です。が、とにかく「当事者を闘わせる」ことに特化しておられるようにしか思えません。そのあらわれが「名のらせる」という表現です。さらに
「本名(民族名)を名のらないのは差別する側にまわること」
という発言が出てきて、わけがわからなくなりました。なので
「なんだかよくわからなくなってきました。あなたにとっての「差別」ってなんですか?」
という「終わってる」質問をしてしまいました。
ただ、ここで時間切れ。昼食休憩です。
午後は質問への答えから。
「わたしにとっての差別とは「ありたい姿ができない」こと」
とのお答え。そうか、やはり個人のことに還元してるんだ。根本的に違うみたいやな。
てことで、意見交流の時間は「加害の歴史を扱うこと」や「自らの立場を社会化すること」なんていう話をしましたが、イマイチやったかな。てか、サポーターが多いわ。ピースおおさかの関係者が出てきて「被害の歴史でもいいものはいい」とか言ってみたり。まぁそりゃそうですよ。「沖縄地上戦の図」も「原爆の図」もいいですよ。でも、そこにどういう視点を持ち込むかです。いみじくもHやしさんが「自分につなげ、親とつなげる」と言ってたけど、そこですよね。
そしてもうひとつ。実践を行う側に揺れがない。別に自らが被差別の立場である必要なんてないし、自己批判をする必要もないです。でも、揺れはあるんだと思うのです。でも、それがない。自信があるのか、逆にガードが固いのか。よくわかりません。
ということで、なんとなくもやもやを抱えた不発なまま今年の全同教も終了。K野さん、ごめん。

分科会が終わったところで、A井さんとふたり、Uりんちゃんの車に乗せてもらって京都までドライブ。京都に着いたところで、せっかくなので崇仁新町へ。

京都に帰ってきた感がやってきました。が、ちょぼ焼き屋さんのおねえさんに完全に顔を覚えられてしまったみたいです。おかしいな。まだ3回くらいしか来てないのにな^^;。
軽くおなかも満ちたところで、さぁ帰りましょう。今日は静かな環境でゆっくりと寝たい。

当事者性を前面に出すのはやはり性にあわん・全同教1日目

今日〜明日、滋賀で全同教大会です。てことで、朝から膳所に向かいました。会場に向かっていると「いつきさん」と声をかけられました。北河内のお友だちとした。会場につくと「A久○さんだぁ(笑)」
ということで、全体会場へ。
会場では初級学校の子どもたちのアトラクションです。元気やな。前に徳島で初級学校の子どもたちの演奏を聞いた時も感じたけど、ほんとうに「見せる」「楽しんでもらう」ことをきちんとやる感じです。すごいな。
で、全体会スタート。

相変わらずバランスが悪い(笑)。なんでも太鼓の時は女性が多かったらしいです。うがった見方をするなら、歌舞音曲は女性も参加。でも、政は男の世界ってことかなと。
阿○Zさんは「見解を知りたい」とのことで会場におられましたが、わたしはロビー活動。と、H本さんだぁ。しばし話。さらにK畑さんもおられたのでしばし話。と、S田さんもおられてしばし話。お、T橋さんだ。久しぶり!
で、ロビー活動終了。楽しみにしてたシンポジウムです。会場の後ろのほうで座り込んで聞いてると、地元のH田さんが来られました。なんでも「若手」を出してるとか。なるほどな。滋賀って人材豊富やなぁ。
で、話を聞いてたのですが。イマドキそんなことがあるのか?って一般的に思われそうな「あるある差別話」もあったりして、なるほどなと。「部落差別は解消過程にある」なんて、どこ見て言ってるねんと思います。そんな中で、やはり「先輩」なんかとの出会いがあったり、出会い直しがあったりして、今の活動に結びついてる。いまやってる活動も、いわゆる「居場所づくり」です。それも理念からくるんじゃなくて、自分の前にある現実からスタートしておられます。
まぁ、そんなところはとてもおもしろいなと思うのですが、一方で目指す社会みたいな話になった時に、いきなり「上から目線」になるんだよなぁ。
確かに「経験」は「当事者」固有のものです。他の人には経験できない。なので、否定のしようのない絶対性を持ちます。そして、その経験は固有のものだから、それに基づいた「考え」もまた絶対性を持ってしまうし、「わたしたち」は聞くしかなくなってしまう。それはあまりにもおもしろくない。
一方、それは「固有のもの」だから普遍性を持たない。もちろん、他の「固有のもの」を経験している人との間に共感もあるかもしれない。でもそれは「固有の経験」をしている人の間でしか生まれないし、得てして「同種の経験」の中でしか共有できなくなってしまう。さらに、「他の経験」をしている人との間で、時としてパッティングすることすら出てくる。そしてそもそも、ある活動をしていることに「経験」は絶対的に必要なことなのかって話が出てくる。
このあたりは、当事者性を前面に出す時に陥りがちな「穴」だと思います。
もちろん、個人の話をするだけのことであれば、それはそれでありだし、そういう話をすることこそが必要なんだと思います。が、壇上に立つときは、それとは違うものが求められると、わたしは思います。
個人の経験は、あくまでも個人の経験として語る。一方、普遍を語るときは、その経験を一度飲み込む。そして、飲み込み咀嚼したうえで、「他の経験」に思いを馳せながら語る。
そんなことが必要なんじゃないかなと思うんですけどね。知らんけど(笑)。

そんなこんなで、いろいろもやっとしながら、少し用事をして、夜はいつもの飲み会です。いつものように、なにがなんだかわからないけど、ここは「個人の経験を個人のものとして話す」人と、そんな経験をしてない人とがフラットにいられる場所です。とても居心地がいい。
なので、さらに部屋飲みです。
「どの部屋?」
「そらいつきさんの部屋やろ」
マジか…。
なんか、話をしながら、途中で爆睡してしまいました(笑)。

人権とcommon sence

夜、家に帰ってビールを飲んで、やれやれと思ったところで一本の電話がかかってきました。
なんでも人権啓発のなんかの審査員をしておられるとか。で、出てきたものが「イマドキ」のもので、他の審査員は「いい!」って言うけど本人的には「?」なもので、でもみんかそれを選んで、自分の感覚っておかしいんだろうかと。
で、「いつきさん、どう思う?」
と(笑)。
なるほどな。たしかにその「イマドキ」の手法、ありがちです。例えば「みんな同じ人間」とか「みんな違ってみんないい」とかなメッセージ。でも、違いますよね。前者は論外だけど、後者だって「違いの中に格差がある」が必要なメッセージですよね。それが見事になくなる。
じゃ、なぜなくなるのか。それは「考えてない」からです。すごく簡単に言うと「自分の中にあるものを表現する」ことしか考えてない。それを見たマイノリティがどう感じ、その作品がどういうメッセージをマイノリティに対して与えるか、あるいはマジョリティに与えるかってことを考えてない。なぜかというと、しょせん市民感覚は「common sense」でしかないからです。
人権獲得の歴史を考えると、「common sense」との闘いでした。例えば、「部落は忌避・排除されて当たり前」「外国人なんだから権利がなくて当たり前」というcommon senseがあった。これに対して、まずは「同じ人間だ」と同質性の主張による権利獲得の論議が出てくる。例えば「同じ赤い血が流れてる」みたいなね。同じことが同性愛者でもあって「ホモファイル運動」みたいなのがあった。でも、それはあくまでもcommon senseの土俵の上の話でしかなかった。
それに対して、その「common sense」そのものを問う運動が出てきます。それは残念ながら「一般市民」からは出てこない。なぜなら「common sense」は「common」の「sense」だからです。まさに一般市民の感覚です。そして、人権は「commonではないsence」からスタートするからです。
もちろん、なかにはすごいのはあるだろうけど、それが「すごい」ってのはやはり「commonじゃないsence」だからすごいって思うんですよね。
と考えると、「市民参加による人権啓発ビデオ作成」って、つくることそのものに啓発の意味はあるかもしれないけど、そこでできたビデオを啓発に使うのはイマイチだなと。
やはり「The crazy ones」ってことですよね。

遅々としてすすまない→文化の継承

今日は比較的時間があります。なので、月曜日〆の原稿をやっつけようかと。ちなみにこの原稿、完全に学校教育にかかわることなんですよね。で、こういうことを意識化して授業するか意識せずに授業するかでかなり違います。ちなみに過去にはこんなんとかこんなんを書いています。
でも、すすまない。今回は他の人も「難しい」って言ってます。わたしもスジがむずかしいとは思っています。が、みなさん、それでもアンソロジーを書いてこられます。それらをまとめるのがわたしの役割です。いちおうアウトラインはできているけど、文章を詰めるのはまったく別の作業です。ぐえーとなりながら、別の仕事に逃げるのはいつものことです。アカンなぁ。

で、放課後は久しぶりの家庭訪問。少しオイタ(笑)をした子がいるので、話をしに行ったのですが…。
他の教員はオイタにからまって別の事象もとりあげて「反省してない」「悪いと思ってない」と思ってるみたいなんだけど、わたしはなんか、その子が「悪いと思ってない」というのがわかるんですよね。
まぁこんな例えで考えてみましょうか。
Aという国があるとします。地続きでまわりにも国があるんだけど、それらの国の人々はA国には行かない。もしも行こうとした人がいたら「あぶないからやめとき」って言われる。そんな目で見られているから、A国の人もまわりの国に行けない。自然と、A国の人々はA国の人々とだけしか交流ができなくなります。また、まわりの国の人もA国の人と交流しなくなります。
するとどうなるか。
A国の人々は独自の文化や価値観を持つことになります。なぜなら、まわりの国がどのような文化や価値観を持っているかわからないからです。そして、まわりの国の人もまたA国の人とは異なる文化や価値観を持つことになります。と同時に、A国がどのような文化や価値観を持っているかを知る機会がなくなります。そうなると、ますますA国に対して「得体が知れない」「あぶない」という思いを持つようになり「あぶないからやめとき」となります。
で、家庭訪問した子の話です。
わたしたち教員の文化では「悪い」ことも、その子の文化の中では「悪い」という価値観がないとすると、「悪いと思ってない」のはあたりまえです。その子の持つそういう文化は、その子のまわりの大人や子どもたちの相互行為の中で継承されていて、内在化されているからです。そしてその子は正直で素直な子だから、思うとおりに答えてくれた。ところが、わたしたち教員は「悪びれもせず」と評価してしまう。そこには齟齬がある。
じゃ、どうすればいいのか。
とりあえず、その子の文化や価値観を一度飲み込む。そこからスタートする以外方法がないです。なぜなら、先ほどの例えで言うなら、A国が独自の文化や価値観を持つことになったのは、まわりの国が「あぶないからやめとき」という行動をとったからです。なので、その原点にもどるしかない。
教員は子どもたちから学ばないとアカンなぁと思ったりするわけです。

まったく体調はダメだけど、話が聞けたのはうれしい

朝、身体が動きません。なぜだろう…。そうか、昨日大阪で呑んだからか。
えーと、まずは生中。そして生中。そしてグラスビール。場所を変えて、日本酒→日本酒→焼酎→焼酎。家に帰ったのは11時半ぐらいだけど、完全に呑みすぎです。
てことで、ひとつ遅い電車で出勤。まぁ間にあうけど、せわしないですね。が、勤務時間のことを考えると、それもなぁ。
にしてもしんどいです。でも、そういうローテンションの時の方が授業そのものはいいのかもしれません。イライラしたり怒りたくなったりする気持ちにもならないから、すべてを受容しながらノロノロ授業。さらに3人講座ではダラダラ自習。いや、やらなきゃならないことがみんなバラバラなんですよね。
5時間目はダウン。ダウンして、少し楽になりました。

それにしても、全然話は違うけど、ムラの子、けっこうみんな自分のことがわかってるみたいです。今日もあるムラの子と話をしていると、小学校時代の話題になりました。
「友だちを「うちに遊びにおいで」って誘ったら、その子のお母さんが「あそこは危ないから行ったらダメ」って言って、その子、来てくれなかった。小学校の頃のツレは、みんな地元の人間やった」
って、10年前にもならない最近の話です。
「やっぱ、さびしかったで」
って、そりゃそうでしょう。部落差別が解消過程にあるって、どこの話やねんと思いますね。
でも、きっと他の教員、こんな話をしてないんだろうなぁ。