1月に決着をつけた「おべんきょ結果」ですが、実はまだ決着がついていません。ほんとにどうしたものやら。ひたすらひとつの「言葉」を探す日々なのですが、そんなもん、そうそうそこらに落ちてるわけではなく。
何が問題かというと、「言葉」の持つレンジの広さなのです。あまり広いレンジの言葉を使うと、その言葉がなにを意味するのかがわからない。なので、それをレンジの狭い言葉に置き換えて、なにを意味しているのかが確定しやすくする必要がある。そして、それは既存の言葉である必要がある。なぜなら、新たな言葉の場合、その言葉の定義づけが必要となるからです。
で、この間、ずっと山を崩しながら「言葉」を探していたのですが、どうしても見つからない。でも、そろそろタイムリミットが近づいてます。
てことで、おべんきょ場所に行って相談。なんだかんだと話し合って、妥協点でガマンすることにしました。
ま、言い換えるなら、問題の先送りなんですけどね(笑)。
カテゴリー: おべんきょ
右往左往
朝、来年からのおべんきょ場所に行って書類を出してきました。にしても、遠いわ(;_;)。でも、これに慣れるしかないですねぇ…。
昼からは京都市内で某在日外国人教育関係の会議です。午前の用事が長引いたため、かなり遅れての参加です。そのため、会議中の雑用は山のようにあるわ、見事に論議に乗り遅れてしまうわ。まいったな(;_;)。
で、会議が終わったら、京都府南部の「第二のふるさと」の近くの街へ。ここで合流したのは元教え子。3年間担任をして、なんというか、まぁいろいろ(笑)あった子です。「子」といっても、30過ぎですけどね。
ほんとに立派になってくれていて、すごくうれしかったです。こんな書き方は、あまりにもステレオタイプなんですが、これ以外書きようがないんですね。
その子が卒業してから17年かなぁ。17年ぶりに会えたわけです。ほんとにうれしかったです。
で、一緒に飲んで、楽しい時間を過ごして、再会を約束してバイバイ。
そこから東九条に引き返して、「卒業生の会」です。
今回は人数は少なかったけど、でも、いつもの通りまったりとした会になりました。が、わたしは途中から横になりはじめて、これはアカンなと思ったところでダウン。
夜中にメッチャ大きいイビキに起こされて、とりあえずベッドに避難。
寝よう…。
勝負の行方
先週かけた勝負の結果が今日わかります。
朝からなんとなくそわそわ。結果は13時にネットにあがるらしいです。昼前になるとドキドキ。
基本的に「悲報は寝て待て」のつもりなので、ドキドキすることもないわけですが、「万が一」ということもあり得ます。その「万が一」があるのがかえってやっかいです。
で、やってきました。13時。深呼吸をして、サイトにアクセス。ふむふむふむ。
「あった…」
てことで、4月から6年間、ふたたび苦しくも楽しい日々を過ごすことになりました。
にしても、なんか、あの時同じ場所で勝負かけてた人全員の番号が載っている気がする…。
自習!自習!
ずっと避け続けていたフェミニズムでしたが、諸事情により、どうしても避けることができなくなってしまいました。おかげさまで、ここしばらく、フェミニズムの初心者本を読んでます。
しかし、考えてみると、トランスのことを考えたり発信したりするのに、フェミニズムを避けてやっていた自分の器用さというか、足元の危うさというか、そのあたりを、いまさらながら「こわっ!」って思います。
まぁ、たぶん、それに代わる別のことを援用しているのはいるのですが、そしてそれは一定有効だし、他の人にはない観点を提案してきたんだとは思うのですが、そろそろ限界ですね。次の一歩を踏み出すには、避けられなくなったってことです。
で、初心者本ではあるけど読みはじめて、「よかった!」って思いました。
こんな感じはいつ以来だろう。
「パラムの会」と出会った時、あるいは『同和はこわい考』と出会った時。それ以来かなぁ…。
わたしがフェミニズムを避け続けてきたのは、フェミニズムはわたしを否定するものだろうという固定観念があったんです。でも、そうではなくて、自分のための思想だったってことに気づいたっていうことでしょうか。もちろん、そこに至るまでにさまざまな「先輩たち」の存在があったであろうことは容易に想像ができます。そうやって到達した「今」が見せてくれる世界は、とても厳しくも優しいですね。
さて、もっともっと深めていこう。
非公開集団フルボッコ大会
今日は、ある意味3年間の「おべんきょ」の総決算とも言える日です。
わたしの順番はトップです。さてさて、どうなるんだろ…。
会場に入ると、目の前に10人ちょいのセンセが並んでおられます。わたしの持ち時間は15分。センセの持ち時間も15分。たぶん、あっという間に終わりそうです。
とりあえず、持っていった原稿をフルスピードで読みはじめました。さてと、誰がどこまでついてこれるかな(笑)?ま、同じものをペーパーで出してあるので、そっちを読みますよね(笑)。とりあえずフルスピードで読んだので、14分くらいで終了。さてと、迎え撃ちますか。
おふたりのセンセが、それぞれ「敬意を表します」と言って下さりました。ま、社交辞令というか「定型句」なのかもしれません。が、やはり「大人扱い」してもらえた気がしてうれしいですね。でも、そこからは指摘がはじまります。
「客観性の担保」。痛いな^^;;。でも、「信頼性」はあるかな。「枠を広げすぎ」。痛いな^^;;。でも、考えるための「枠」は、自分なりには提示したつもりなんだけど、それが弱かったかな。
まぁ、そんなこんなの、とてもいい指摘をもらって、無事終了。
んー。楽しかった(^^)。
みんなの学校
今日は最後のおべんきょタイムです。これからもおべんきょは続けますが、おべんきょタイムは、きっとこれが最後です。
今日のおべんきょはビデオ「みんなの学校」の鑑賞会。これは大空小学校の1年間を追ったドキュメントです。
ドキュメントって、たぶんなにかに焦点化しなきゃならない側面があるのかな。どうやらこのドキュメントでは校長さんと生徒さん2人に焦点をあてているようです。
んー
おもしろい!
なにがおもしろいかというと…。なんか、サッカーチームみたいな教職員集団なんですね。よくこんなふうに柔軟な集団をつくってきたなぁと思います。その柔軟さは教職員集団だけではなく、生徒たちもそう。とてもいい形のネットワークをつくっている。
考えてみると、子どもの問題って、けっこう「ネットワークのほころび」だったりするような気がします。例えば、ケンカやいじめ。あるいは不登校もまたネットワークのほころびに起因する側面があるのかな。で、そのほころびを見つけ、つなぐためにはどうすればいいかを考え、実践する。
なんか、そんな感じがしました。
にしても、きわめて「教育畑」なんだよなぁ…。そんなことを感じながら、最後のおべんきょタイムはオープンエンドで終わりました。
メゾとミクロ
去年だったかに、マクロ・メゾ・ミクロについて考えたわけですが、そんなことをふと思い出す、今日のおべんきょの前半です。
内容的には新渡日の子どもたちへのとりくみの話なんですが、京都市は教育委員会レベルではそれなりにマニュアルもつくっているし、制度も保障している。にもかかわらず、現場の教員、特に新渡日の子どもを担任している教員がそのことを知らないという話です。
まぁ、これ、もったいない話です。せっかくさまざまなリソースを用意してくれているのに、知らなければアプローチすらできません。ただ、なぜ知らないんだろうとは思います。それを教員個人のせいにするのでもなく、教育委員会の怠慢とか広報のまずさにするのでもなく、もう少し構造的に捉えてみたいなぁとか、ふと考えてみたりするわけです。
そこで、メゾとしての教育委員会とミクロとしての学校・教員の「ズレ」が出てくるのかな。そのズレの内容は、実はわからないのでなんとも言えないのですが、もしかすると「よかれ」と思って制度をつくるけど、その制度がミクロレベルでは「負担」となるので、自然とそこから逃げてしまうみたいなことはないのかなぁとか。ちなみに、この「負担」というのも意識的ではない気がするのです。
教員って、平等性をすごく重んじる気がします。実際に平等かどうかは別としてですが。そうすると「制度」は「特別扱い」になる。それは平等性とは反対に思えてしまう。でも、実は「平等性」って楽なんです。「なにもしないこと」ですから。
なんか、そんなあたりにカギがある気はするのですが…。
ここをもっともっと詰める
なんか、「考え」のエントリと「おべんきょ」のエントリがほとんど同じになりつつあるわけですが(笑)。ま、しゃーないといえばしゃーないですね。
ま、それはおいといて…。
帰りの電車の中で本を読んでいて、突然ひらめいたことがありました。さっそくevernoteにメモ。あ、メモするときはwritenoteってアプリが便利です。
あー、でも。
今までだったら、この時点で「わかった!」「できた!」ってなったんだろうな。でも、「ここからはじまる」って考えなきゃならないんでしょうね。
「ひらめき」を出発点にして、詰めていく。詰めていくためには調べなきゃならないことが山のようにある。瞬発力と持続力。でも、それこそが「ひらめき」を形にすることなのかな…。
にしても、詰めるための方法は考えついてるんだけど、メッチャめんどくさい(;_;)。そんなことする時間、あるのか?
ブレイクスルーとか
「この先」のことが、なかなか形になりません。ずっとずっと考えていて、具体的にやりたいこともわかっているのですが、それを「形」にできないのです。
あらためて、言葉は「器」だなと思います。そこでいう「言葉」は、もちろん「一語」でもあるし「文章」でもあるわけです。そんなとき「定型的な組み立て」がいかに役に立つかを、今回身にしみて感じました。
というところまで来た瞬間に
「あ!それを使えばいいのか!」
ってひらめきました。その瞬間から「形」になりはじめました。
ものごとを考え、形にするっていうのは、たぶん、そういうブレイクスルーがあるんですね。
考える。溜める。それを深め、内圧を高めていく。と、ある瞬間、あたかも「決壊」するかのように言葉が溢れ出す。
そんな感じ。
夜は在日外国人教育関係のことの御べんきょ。こんなことをやってられるのも、あと少しだけなんでしょうね。その先にもしもいけたら、それはもっともっと厳しくおもしろい世界なんだろうなぁ。
で、おべんきょ仲間から誘われて呑み(笑)。
なんだろ…。
おべんきょ仲間ってほんとにいいです。なにがいいかって、「考える土俵」が同じなんですよね。だから、言葉が通じる。今日の呑み相手さん、一昨年、去年、わたしが苦しんでたところを歩いておられます。わたしはわたしなりに「こんなところを歩いてたよ」「あの時は気づかなかったんだけど、こないだやっと道が見えたんだよ」って話をしてたんですが、たぶんそんなことはいろんな人から聞いておられるだろうな。でも、きっと突然ブレイクスルーが来るんです。
楽しいなぁ…。
とか思ってたら、気がつくと終電終わってました(;_;)。
その先を見る
水曜日は、なんかバタバタと忙殺される日なんですよね。ま、会議があるからか。みんな会議、好きですねぇ…。ま、顔をあわせて話しあうことは大切だってのはわかるんですけどね。
それに比べて授業はのんびりしたものです。なんか、ゴソゴソしてる子どもをてきとうにおちょくったり、おべんきょの話をしてみたり。まぁ、権力関係があるのが前提なんだけど、その権力は付与されているものなんで、いかにその権力を緩やかに行使するかなんですかねぇ。
そうそう、教員を呼び捨てにする子がいたので
「呼び捨てかい?」
というと
S「○○先生?」
い「それでよろしい」
S「どひ先生」
い「あ、わたしは「ちゃん」づけでいいよ」
みたいな会話でしたね。
い「だってね、君ら、教員の名前呼ばずに「先生」って言うやん。あれ、イヤやねん。例えばな「先生?」って言われて「なんだい、生徒」って、会話が成り立たへんやんか」
い「わたしな、君らにしゃべるときに「先生はな」って言ったことあるか?絶対に断言できるけど、わたしは自分のことを「先生」とは言わないよ」
みたいな。
ま、それが自分が持ってる権力を隠蔽することにつながるような気もして、それはそれで「なんだかなぁ」ではあるのですがね^^;;。
で、放課後は「その先」を見据えた作業です。「これまで」を振り返って、到達点を明らかにし、次のピークを設定する。
こないだ到達したピークは、あくまでも比叡山くらいかな。でも、誰もがそこに山があることはわかっているんだけど、登行ルートを見つけることが大切なんで、それでいいです。
で、山はまだまだあるので、少しあちこち登ってみたいなと思っています。なので、これからどんな山を登って、次のピークをどこに設定するか。そんなことを考えていました。
夜、帰りにセンセのところに寄って、よもやま話。
「そうなんだよねー。なにか書くと、必ず「そんなん、みんな言ってるやん」って言われるんだよねー。でも、「だって、誰も書いてないもん」っていう、それが「書く」っていうことなんだよねー」
うん。なんとなくそんなことがわかった、この3年間でした。それがあるから、「先」を見られる。